奇妙なU字型電動歯ブラシに、夢を託して
俺は、歯磨きが苦手である。
というか、「同じことを繰り返す小さなルーチン」全般が苦手なのだろうと思われる。
そのためか、毎週同じ時間に見なければならないテレビとかは苦手で、見たいドラマやアニメがあるときはレンタルで借りてきて、一気に全部見てしまう。例え深夜、早朝、朝になっても、一気に見てしまうのだ。
小説でも同じで、毎日寝る前に数ページ読む、というのができないので機を見て一気に読むという強引な読書を繰り返してきていた。
そんな自分にとって最大の敵は歯磨き。
日々のルーチンの中で歯磨きは重要度が最も高い。
例えば、掃除とか洗濯とか洗顔洗髪は毎日やらなくてもそんなにデメリットはない。
いやもちろんやるけど、1週間誰にも会わないということが確定しているときなんかは、ぶっちゃけ毎日やんなくてもいいものではある。
しかし歯磨きは異なる。
歯垢は24時間で歯石に変ずるという話があるので、少なくとも24時間の間には歯磨きをしないと、取り返しがつかないことになりかねないわけだ…。
この事実が、俺の生活を確実にむしばんでいるといっても過言ではない。
サメのように何度でも生え変わる歯を、なぜ人類は獲得できなかったのか…。
この一点だけで神への反逆すら考えそうになる俺に、ひとつの広告が目に入った。
咥えるだけですべてが完了する、U字型電動歯ブラシ…!
マウスピースの内側に柔毛が取り付けられており、それを噛めばたちどころに口内の全ての歯が圧倒的に洗浄され、QOLは青天井になり、俺の幸福度は確実に上がり、ついにはあらゆる幸運が舞い降りるのが確定的に明らかな空前絶後のアイテムだ。
これは…やるしかないようだな!
まずは計算をしよう…。
歯磨きにかかる時間は、朝は2分、夜は5分なので1日7分、420秒を洗面所の前で過ごしていることになる。
それに対し、この画期的な未来の歯ブラシは、1分咥えるだけですべてが完璧になるというもっぱらのうわさだ。1日1分を二回、120秒で終わる。
しかも、このU字型歯ブラシは、噛んでいる間両手が空くので…歯を磨きながら他の作業をもすることができるわけだ…!
一回の歯磨き60秒のうち、およそ20秒、両手が空くと仮定しよう。
となると…
実質一日80秒しかかからないということになるのだ…!
さらに計算を進めよう。
このU字型歯ブラシを使うことにより、従来の生活に比べ一日340秒得をするというコトになるので…
1年間に換算すれば124,100秒の余剰が生まれる。
そして俺の今後の人生を50年と考えた場合…6,205,000秒もの時間を節約することができるということになる…!
これは圧倒的な時間だ。
今、俺の目の前でミヒャエル・エンデの「モモ」に登場する灰色の男が圧倒的に営業を仕掛けてきているのが見える…見えるぞ…!
時間銀行に…俺の時間を預けるときが来たのだ…!
6,205,000秒…およそ72日を元手にさらなる利益を追求するために…!
人生は有限だ。
ここで俺も「モモ」のベッポやジジのように覚醒し、時間という素晴らしい資産を増やさねばならないからな…。一刻も無駄にすることはできない。
圧倒的成長と圧倒的感謝のイノベーションを己にもたらすことにより、ポテンシャルを挙げさらなる高みへ、次のステージへ歩を進めるのが人生のミッションだからな!
よし!
いざ使わん…
6,205,000秒を手にするために!!!
ダメでした。
あぁ。
これはダメだな…。
俺の6,205,000秒は…露と消えた…。
そもそも、そんなものは幻想だった…。
マウスピースが小さいから…奥歯まで入らないし…
ブーンとバイブレーションするだけだから…普通の電動歯ブラシのように上下左右に動いてくれるわけもないので…磨かれないし…。
歯垢を染色して確かめてみたけど…全然残ったままだし…
と言うか歯磨き粉も…泡立つことなくそのまま残っている。
さらに!
ブーーーンとずっと振動してるものを噛み続けるから、アゴとか口が変な感じになる。
歯医者さんで麻酔受けた後のような感覚になるな…。
これは…あぁ、これは、ダメさ。
俺も21世紀人として…優れたテクノロジーによるバラ色の未来を脳の中に想い描いていたが…現実は非情さ。
やっぱ1500円とかじゃ無理があったかもしれない。もっと高額のものならいけるかもしれない。
って、一瞬思ったけど、いや、これは構造的にこれ以上すごくはならないよ…。
仮にこの形のまま、上下左右に動いたとしたら…アゴがやられる!
フフ…フ…
もうこれ、二度と使うことはないな!?
すまない!
やっぱ、うん、やっぱりね!時間銀行とか、そういう野望を考えるより、
マイスター・ホラの出してくれるカリカリに焼いたパンに黄金色のはちみつをかけて食べるほうが人生は豊かになるんじゃないかな!
うん。
普通の電動歯ブラシを、使おうね!
それさえわかってくれれば…この、俺の元に届いた夢の残滓も、浮かばれるような気がするよ…!