負わされるもの、欠落したもの、埋めるもの -「竜とそばかすの姫」感想②-
昨日の記事をアップした後、いろいろ話し合ったりして…新たな知見を得たというか、完全にスルーしていた部分があったので、書き足すわけですけれども!
例によってネタバレは全開だ!
すまないな!
「役割を負わされている」
細田守作品が批判されたり、合わなかったりする人は案外多い。
絵の作りは万人向け然としているのだが、しかし実のところ「ほんとうのこと」で殴りつけてきたり、田舎幻想が強すぎて鼻白んでしまったり、キャラに負わされる役割がはっきりしすぎていて鼻持ちならない、などの理由があるだろう。
特にサマーウォーズが顕著だ。
時をかける少女の次の作品ということで期待が高かったのと、細田守作品の作りの特徴があまり知られていなかったゆえに「ナニコレ!?こんなのは求めてない!」という反応が大きかったのかもしれない。
サマーウォ-ズでは家父長的な家が描かれ、女は家庭を守り男は外に戦いに出るという描写がされ、さらにそれが「良き事」として押し付けられるのが不快でならない、という感想を抱く人は多い。
作中では特に女性に負わされる役割が家父長的すぎて、その点がかなり批判を浴びていたと思うのだけども、役割を負わされているのは女性キャラばかりでなく、どのキャラクターも役割を負わされている。
例えば長男の理一さん。彼は飄々とソツのない性格なので「役割を負っている」ようには見えないけれど、彼は「男たるもの、戦場に行かねばならない」という役割を負っている。おそらく彼は自衛隊に入る以外の道はほとんど無かったのではないだろうか。以下、公務員系のエッセンシャルワーカーが家系の男子には多い。「役に立たなければ男ではない」的な役割論が強烈に見える。そこに反旗を翻したのが「二号さんの子」のおじさんなわけで。
サマーウォーズで露骨に描写された役割論が、今作の「竜とそばかすの姫」にも大いなる影を落としている。
「役割を持つ者が欠落している」
「竜とそばかすの姫」が描いているのは、役割の欠落だ。
サマーウォーズは、「それぞれの役割を、それぞれが果たす」を描いた。
しかしサマーウォーズとよく似た今作は、「役割を果たす者が欠落したとき、どうなるのか」を描いている。
サマーウォーズでの欠落はおばあちゃんだけで、その欠落をあらゆる階層のネットワークで埋めていく前進のお話だったのだが、
「竜とそばかすの姫」は埋められない欠落を抱え、それと向き合う受容の話である。
方向性は決定的に違うと俺は見る。
その決定的な要素が、母親の不在だろう。
鈴ちゃんにもケイくんにも、母親がいない。
母親の欠落を埋められていない。
鈴ちゃんが声が出ないのも、父との関係が上手くいかないのも、母親の欠落に起因する。
ケイくんの父親が虐待をするのも、母親(妻)の欠落を埋められなかった(かつ、助けを求めることができなかった)からだろう。
鈴ちゃんの使っている欠けたカップが象徴的だ。
欠落しているものを、埋められないでいる。
捨てることもできない。
毎日ずっと欠落を見続けて、失ったものを思い知らされ続けている。
サマーウォーズでは批判を浴びた役割論だが、その果たすべき役割を持った者がいなくなると、それはそれで大変な不都合が出てくるよ、という話にも見える。
中でも親という役割は。
という、ね。
細田守作品にはこういった「役割の欠如」もテーマになっている作品が多い。
「おおかみこどもの雨と雪」とかね。お父さんが欠落しちゃう話だから。
鈴ちゃんもケイくんも、母親を許していない
以下は、今作を見た彼女の感想の一部。
これは素晴らしいなと思ったのでそのまま乗っけるけれども!
鈴ちゃんがカップを欠けたままにしてるのも、
声が出ないのも、傷ついているのは本当だけど、
それ以上に「行かないで」と泣いて止めたのに川に入った母親を許していないんじゃないかと、
許さないという表明なんじゃないかと思っちゃう。
竜の美しい痣も、
「見せびらかしている」とあったけど、
やはり「お前(母親)のせいで俺はこんな辛い目にあっている、どうか見つけ出して謝罪せよ」
という悲痛な叫びに見えてしまう。
穿ちすぎかもしれませんけれどもね…。
これは凄い!
なるほどなぁ!と思ったよ!
そうだった、竜の城で、竜は父親ではなく母親の絵を殴っている!
そうだそうだ。そうだった!
つまり、ケイくんの視点からすると、「母親がいなくなったせいで父親がおかしくなった」となる。だから「僕が耐えればいいだけだから」となり、実はケイくんは父親には同情的だったということになるね。
虐待はクソの中のクソだけれども、ケイくんの中では、「役割を放棄しいなくなった母親」への愛憎がかなりのウェイトを持っていることがわかる。
なるほどなぁ。
そうか、つまりケイくんにとっては、鈴ちゃんが「母親の役割」を担ってくれたのだ、ということになるんだね。
忍くんが鈴ちゃんの母親役を買って出てくれたように!
ケイくんの父親も、鈴ちゃんに「生意気なガキ」ではなく「自分のしていることの間違いをはっきりと指摘する母親(妻)」の姿を見た故に、へたり込むしかなかったんだろう。
そして、鈴ちゃんは、ケイくんの母親の役割を埋めることで、自身の欠落をも埋めることができたわけだね!
そういえば、鈴ちゃんが雨の中でケイくんトモくんを抱きしめるところは「おおかみこどもの雨と雪」を何となく思い起こさせるね!
なるほど…!
鈴ちゃんは魔性の女を超えて「母親」になったということか…!
これは、強い!
そっか、だからケイくんと鈴ちゃんはくっつかないんだな。
そういう構造にもなっているのか。
前回の記事で「虐待は解決してない」と書いたけど、いや、これは、はっきりと解決している!
現実の俺たちも、「自分が他者に役割を果たすことで、自分自身の欠落を埋められる」ということがあるだろう。荒んだ気持ちになった時は、他者に親切にすることで荒んだ気持ちが晴れることがあるだろう。
役割というのは重荷でもあるが、自分を救ってくれるものにもなりうる。正しく担えばね。
そして、鈴ちゃんの彼氏になる忍くんの存在感が妙に薄いのも納得。
作中で、忍くんはずっと「主人公のお母さん」をやっているわけで、そりゃあ存在感が薄いのもむべなるかな。
お母さんというのは「大丈夫かい?」とか「行ってらっしゃい」とか「おかえりなさい」を言ってくれるものであって、子供にとって日常での存在感はそんなに大きくない。
しかし!
いざ母親がいなくなってしまうと、それはそれは大きな大きな穴が開いてしまうことになるので…。
忍くんは存在感が薄いながらも、欠くべからざるキャラクターなのだと言えよう。
存在感は薄いが、鈴ちゃんのことを誰よりもよく見ているし、変化に気づくし、大事な場面では躊躇なく、強引にでも背中を押してくれる。
これはかーちゃんですよ!!
忍くんは見事にかーちゃんをやってくれている。
そして、鈴ちゃんが「母親」になったことで、忍くんは「かーちゃん」から解放され、自分の本当にしたいこと(鈴ちゃんに恋すること)に進めるようになる。
役割は呪縛でもあるが、それを果たしたときの達成感は素晴らしいもの。
過剰に押し付けてもいけないが、完全に引きはがしてもいけないもの。
そんな「役割」についての細田守からのアンサーなのが今作「竜とそばかすの姫」なのかもしれないね!
これは…ちょっと二回目を見たくなってきましたよ!!
忍くんのかーちゃんぶりを確認するためにも!
忍くんは、負わされるのではなく自ら役割を買って出た人。
役割というのは、押し付けられたりするものではなくて「自分がそれをやろう」と進み出るのが理想ということになるのかな。
そして忍くんは見事にやり遂げ、役割を解消して、新たな人生を歩むのだ。
「竜とそばかすの姫」の冒頭で、こういわれる(記憶が少し曖昧になってきているが、こんな感じのことを言われたはずだ!)。
「Uは誰にでもなれる」
つまり、「あなたは誰にでもなれる」。
どんな役割を引き受けることもできる、と。
忍くんが母親をやったように。
本作は間違いなく、役割論で批判されがちな細田守監督からのアンサーだと思う。
俺、ちょっと忍くんが大好きになってきたかもしれないぞ…!
【追記】
「大人が役割を完全に放棄するとどうなるか」は、
かの名作「オトナ帝国の野望」で描かれている。
そのオトナ帝国の逆襲の素晴らしいレビュー動画あるので、時間のある時にぜひ見ていただきたい。
子供にだって、果たすべき役割、果たすべき責任はあるものだ。
「母親という役割」に思うところがある人はたくさんいるだろうけれども、役割というのはそれを自らの意思で選択する限り、素晴らしいものなのではないかと思う。
世の中はこれからジェンダーレスに向かう。
忍くんのように、母親の役割を選択する男性も出てくるだろう。
そういう意味で、やはりこの「竜とそばかすの姫」は、役割論へのアンサーなのではないかと、俺は思うのだ。