バンクシーの絵は、「スーパーマン」を描いた絵である(と、自分の中で決着がついた)

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バンクシーが新型コロナウィルスと戦う医療従事者への応援メッセージとともに、病院に寄贈した「ゲームチェンジャー」と題されたこちらの絵が話題になっている。

 

www.bbc.com

アーティストが、奮闘する「ヒーロー」に作品を贈る…というのは特に不思議なことはない熱い話だけれども、ことバンクシーの場合、「何やら意味深長なモノが隠されているのでは…?」と身構えてしまう。

実際、あちこちで「この絵をどう解釈するか」と盛り上がっている。

主流な解釈としては、

「素直に医療従事者をヒーローと称えた絵だ」というものと、

「ゴミ箱にうち捨てられたヒーローたちと同じように、おもちゃとして祭り上げている大衆の姿だ」というものの二通りになるだろうか。

 

まぁ、実際、この子供の顔は渋すぎるからな…!

見ようによってはニタニタと笑っているようにも見えなくもない。

風刺的な絵を描いてきたバンクシーだし、「これを病院に飾っても大丈夫なものなのか…?」と思うのも自然な反応だろう。

 

しかし、ストレートな風刺画をいきなり病院に送りつけるとか、それは単なる普通の嫌な奴ではないのか?という疑問も起こる。風刺というのは皮肉を直接投げつけることとイコールではないはずだ。

もしかすると、もっとさらに裏の意味があるのではないか…?

 

そういうわけで、俺もこの絵を深読みしてみようと思う。

時流に乗って!

解釈は楽しんだもの勝ちだ!

よし、やるぞ!

 

描かれているもの、描かれていないもの

さて、もう一度絵を見よう。

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子供の顔が渋すぎる…。

しかし渋すぎる子供の顔にくぎ付けになっていてはいけない。俺は解釈をするのだ。

…しかし、渋いな…。

 

で、渋い顔から眼を離すと目に入ってくるのは、やはり「ヒーロー」だろうか。

子供が手に取っている、新時代のヒーローたるナースさん。

そして対照的に、うち捨てられたバットマンスパイダーマン

旧時代のヒーローはもういらない、これからはナースさんだ!

という気がしてくる。

 

だが待て!

ここで非常に重要な疑問が沸き起こる。

この疑問に決着を付けなければ、この絵の解釈はその第一歩も進まないんじゃあないのか…?

 

そう…

この絵には…描かれるべきなのに描かれていないモノがあるッ!

 

それはスーパーマンだ。

 

ここには絶対にスーパーマンが描かれていなければならない。

なぜなら、バットマンスパイダーマンがいるのにスーパーマンがいないのはおかしい」から!

 

そんな下らん理由かよ!と思われるかもしれないが…。

俺は本気だ!

 

例えば、「一般的に、漫画界のレジェンドと言えば?」と聞かれて「藤子不二雄横山光輝鳥山明」と答えたとしよう。当然突っ込みが入るはずだ。

「いや、とりあえず手塚治虫を挙げようよ!」と。

無論、「いや、赤塚不二夫だ」とか「永井豪が入ってないとか…」「水木しげる最強説」とか、様々な意見は噴出するだろうけれども、まずは手塚治虫は入れないとおかしい話だ。手塚治虫を個人的に認める認めないではなく、一般的に手塚治虫はレジェンドであるから。

 

その意味で、ここにスーパーマンが描かれていないのはおかしいのである。

とてもアンバランスで、見る者に疑問を持たせる。

「どうしてスーパーマンが描かれていないのか?」

 

しかし大丈夫だ。

きちんとスーパーマンは描かれている。

まぁ説明するのも野暮だけれども。

ナースさんは明らかにスーパーマンとして描かれているからだ。

空を飛ぶ、マントをなびかせている、そして胸に赤いシンボルマーク。

これは紛れもなくスーパーマンの意匠だ。

 

なにより、この絵で唯一色が使われているのが、赤いシンボルマーク。

 

つまり、この絵は、「スーパーマンを描いた絵」と俺は解釈することにする

 

スーパーマンは「スーパーマン」である(指をチョキチョキ

さて、この絵を「スーパーマンの絵」としたからには、スーパーマンについて考えなければならない。

スーパーマンは言うまでもなく世界最初のスーパーヒーローであり、「スーパー」に「スーパーマン的な」という意味を与えたキャラクターであり、古今様々な創作キャラクターの元ネタにもなっている偉大な人物だ。

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(敵に回すとむっちゃくちゃ怖い…)

 

スーパーマンをスーパーマンたらしめている要素は何だろう?

・力が強い

・眼からビームを放つ

・エアコンの原理で凍り付く息も吐くぞ

・超強い肉体を持つぞ

・空も飛ぶぞ

・気合いを入れれば時間を戻すこともやぶさかではない

・超優しい

・優しすぎてバットマンを親友にできてしまうくらいだ

・異星人だぞ

・実は魔法に弱いぞ

・「顔隠してないから、変装しても即ばれない?」と思う人もいるけど、あれは周囲に催眠波を放ってるからばれないんだ

というのが挙げられるだろうか…。

…だいぶ関係ない設定も書いてしまったけれども…。

強く、正しく、非の打ちどころがない正義の人、というのが一般的なイメージだろうか。

 

しかし。

しかしである。

スーパーマンというキャラクターが内包する物は、それだけではない。

 

スーパーマンの物語は、常に「ヒーロー不要論」と共にあると言っても過言ではないのだ。

 

困ってもスーパーマンが何とかしてくれる。

そしてあまつさえ、助けが間に合わなかったときにスーパーマンに文句を言う。

むしろ助けられても文句を言う。

「あれもこれもスーパーマンが解決しなかったせい」にされてしまう。

スーパーマンが敵を倒す際の周辺への影響が問題になる。

お高くとまりやがって、という意見も出てくる。

スーパーマンがいるから、大衆はスーパーマンに頼りっきりで自分たちの問題を直視しない。

そしてついに、「スーパーマン不要論」が登場するわけである。

この不要論が恋人のロイス・レーンから出てきたりするのだからたまったものではない。

 

スーパーマンの物語はたくさんあるので、全ての物語がスーパーマン不要論に収束するということではないが、形を変えて幾度も「スーパーマン是か非か?」が描かれてきている。

ある時はスーパーマンの死という形で、

ある時は親友バットマンとの直接対決を通じて、

ある時は「スーパーマンスターリンの息子になったら」というifを通じて。

 

「強大な力を持った存在は、いつの日か軋轢を生む」というアメコミスタンダードは、その元祖であるスーパーマンから始まった物語なのである。もはやアメコミヒーローの根本とも言える。

 

ゆえに、「スーパーマン」とは、彼個人のことを指すだけでなく、スーパーマンの存在が起こす数々の問題提起をも内包しているといえるだろう。

指をこう、チョキチョキして「スーパーマン」って言ってる感じを思い浮かべてほしい!…伝わるだろうか…。

 

少年が渋い顔をしている理由は?

これを読んでいる人の中には、脳の中がスーパーマンモードになっている人もいるかもしれないので、バンクシーの絵をもう一度貼っておこう!

 

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だが…俺には見える…!

少年の手に握られた…屈強なタフガイの姿が!

 

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完全にこう見えている…!

というか、右手を挙げて空を飛ぶ、のもスーパーマンの特徴だね。

まさにこのナースさんも同じ格好をしている。

 

さて、次はバンクシーの絵の最大の問題点というべき、「なぜ子供は渋い顔をしているのか?」に視点を移していく。

絵を鑑賞するということは、エキサイティングだな!

 

先述のように、スーパーマンはただスーパーマンではない。

「スーパーマン」である。

スーパーマン個人だけではなく、その周辺の様々な問題を内包した、概念としての「スーパーマン」。

この少年が持っているのが、「スーパーマン」だと想定したら、何が見えてくるだろう。

 

スーパーマン個人を見て渋い顔をしているなら、確かにこの絵は皮肉な風刺画になるかもしれない。

しかし、俺はこの絵を「スーパーマン」の絵として見ることに決めたのだ。

ならば、この少年はなぜ渋い顔をしているのか。それを決めなくてはならない。

 

それは、ヒーローが注目されることに付随する様々な問題に対して向けられている渋い顔なのではないだろうか。

ヒーローに祭り上げること

祭り上げることで生まれるいろんな摩擦

ヒーローとされる人たち、その一人一人の顔を見えなくさせること

あるいはこうして俺のような輩があーだこーだと語ることそのもの

それら、「ヒーロー」というものに対するすべてに渋い顔をしているのではないか。

 

そして、カゴにぶちこまれているバットマンスパイダーマン

彼らは働いて働いて働きづめたその末に、壊れて動けなくなってしまったのではないか。

彼らが入っているのはカゴである。ゴミ箱ではないかもしれない。

もしかすると、これから修理されるのを待っているのかもしれない。

彼らが壊れてしまったから、最後の切り札としてナースさん(スーパーマン)が登場したのかもしれない。

 

そういう視点で見ると、少年は渋い顔というよりも、悲しんでいるようにも見えてくる。

ここまで来てしまったか…という憂いを秘めている表情にも見えてくる。

 

では、「ゲームチェンジャー」とは?

この絵の題名は「ゲームチェンジャー」だ。

では、これは誰のことだろう?

少年だろうか?

ナースさんだろうか?

壊れてしまったヒーローたちだろうか?

それぞれにそれぞれのゲームチェンジャー要素がありそうだ。

要素すべてがゲームチェンジャーなのかもしれない。

 

しかし、ただ一つ確実に言えることがある。

 

この絵を見ている人間は…

「ゲームチェンジャーってだれなんだろうな?」

と悩むことは許されないということだ。

 

なぜなら、どうあがいても、何をどうしても、

「お前だよ」

にしかならないから!

「この絵を見ている、あなたがゲームチェンジャーなんですよ」

というところにしか、たどり着かない!

だって、この少年も、このナースさんも、バットマンも、スパイダーマンも、スーパーマンさえも、絵のこっち側にいる人には何もできない!

変えうるのは、この絵を見た人だけ。

私、それと、あなた。それとあなた。あなたも。その隣のあなたも。

 

そういう場所にしか着地できない絵だと思うんだよ!

 

「えらく陳腐な場所に着地したやんけ」と思われるかもしれないけれども!

いやー、でもね!

「スーパーマンが描かれてないのはどう考えてもおかしいんだが!?」

というしょうもない疑問からこの絵を見始めて、いろいろ考えてから「ゲームチェンジャーはお前だ」に到達するというのは、相当な内的破壊力がある。

表層的なお説教よりも、「自分でそこに着地してしまった」時のほうが圧倒的に衝撃はデカい。

 

これは…すごい絵だ!

ものすごい絵だな!

 

いやぁ、これが!芸術を!鑑賞するという感動なのかもしれん!

深く熱いものがこみあげてくるな…!

 

 

というわけで。

バンクシーの真意は全くもってわからないし、

俺のこの解釈が正しいとは思わない。

万人向けだとも、他者を説得できうるものだとも思わないが…

ただ一人、俺は納得した!

 

いろんな人のいろんな解釈の中にまぎれて、俺の解釈を、ここにひっそりと書き残しておこうと思う。