その性善説はブラックリスト方式
その言葉を聞くだけで「うぉっ…!来たか!」と身構えるほどに。
恐るべきは人の言の葉。
繰り出される言葉に潜む真の意味に、太古の昔に言語を獲得して以来俺たちは翻弄され続けている。
という何気ない一言が、さながら「すべからく」が如く、俺をじりじりと苦しめるわけだよ…!
「すべからく」という文字を目にした瞬間、「ぶ、文末は…ちゃんと『べし』で受けてくれるよな…?」と不安に駆られてしまう。恐る恐る文を読み進めていく。たのむ。うまく受けてくれ…。もはや文の意味は頭に残らない。まるでスポーツ観戦のように。歓喜の瞬間と絶望の未来を天秤に乗せる。
そして最後に「べし」で受けてくれたその時は!
もう抱きしめてキスの嵐を浴びせたいくらいになるよね!
俺が言うとキモいが。すまない。
しかしとにかく、「その言葉が登場すると文意そっちのけで『正しいか否か』が気になってしまう」という恐ろしい言葉の中に、「性善説と性悪説」はある。
他には「的を射る/得る」とか。個人的には「的を得る」は全然OKと思ってるけど。
言葉は変化していくものだし、その時々で使いやすくカスタマイズされていくべきとも思うけど、しかしその己の理想の中にやはり頑固な部分がどうしてもあって、「いやいや!」とか「別にいいだろ」とか、脳の中で論争が巻き起こるのがどうにも、こう、MPが減る感じが凄いする。
あぁ、もう、おぉ、俺の脳の中が!
性善説=世の中の人の本質は善だよ!信じればちゃんとわかってくれるよ!
性悪説=世の中の人の本質は悪だよ!そんな簡単に信じちゃいけないよ!
という感じ。
実際、確かに、文字を見たらそんな感じがする。
君は天真爛漫か?クールか?
というようなライトな意味で使う場面が多いと思う。
しかし、この二つの言説が登場した文脈を踏まえると、意味が結構変わってくる。
「性善説の人」と解説されると、なんかすごくふわっとして朗らかな人の好いおっちゃんのような気がしてくるが、その実態は戦国のバトル野郎である。いや別に直接バトルしたわけじゃないんだけど。
中華全国を回って王侯貴族に「お前さぁ…」と説教して回るという弁論ガチ勢。めちゃ面倒くさい。五十歩百歩の話にしても、「あんたは戦争が大好きみたいだから戦争で例えてやるけどな?」という前置きで語られた逸話である。
で、性善説が語られた文脈は、「(王様に対して)お前さぁ…」っていうオーラを全身にたぎらせながら
「人間の本性は本来善なわけ。でも今は荒廃してるだろ?なんでそんな風になってるんだ?つまりそれは…あんたの政治がダメだからってことになるよなぁ?」
「環境と教育が大事なんだよ」
っていうのが性善説。
つまり、別に人間の本性とは何かを語りたいんじゃなくて、「あんたの政治がダメだからだろ」を言うためのレトリックであったわけ。儒教というのは本質的に「上流階級の修身のための思想」であるので、この性善説もまさにその文脈で使われている。
「性悪説の人」となると、ものすごい陰険そうな小男が思い浮かぶが、先の孟子と同様にイメージはかなり違う。
荀子はその当時、紀元前300年くらいの人物にしては傑出した科学的思考の持ち主だった。アリストテレス級の超現実派の頭脳である。
「夜になって家の中でギシギシ音がするのは、湿気によって木材が収縮するからだ。幽霊なんてものはない」
とか
「飢饉が天罰だなんてことはない。豊作の時にきちんと蓄え、余裕があるときに治水をして農場を整備すれば飢饉にならない」
という、
「はい、そうですね先生」
と答えるしかない明快さで論を推し進めていくタイプの人物だ。儒教らしくない言説がそこら中にちりばめられている荀子は、のちの「法家」と呼ばれる一派の萌芽ともなった。マンガ「キングダム」にも登場する李斯のお師匠さんだよ。
性悪説の文脈というのは、怜悧な論理性たゆたう荀子が鋭いまなざしで
「人間の本性は悪だ。だから教育によって本性を正さねばならない。学び続けることでしか良い人間は形作られない」
「環境と教育が大事なのだよ」
っていうのが性悪説。
…あれっ?
そう、実は二人とも、同じことを言っている!
違うのはただ視点だけ。
孟子は支配者に向かって言っている。「ちゃんと学べる環境整えないとだめだろ」
荀子は個人に向かって言っている。「しっかり学ばないといけません」
だから、
「yajulくんは性善説?」
「いいえ、人間(は本性を克服できること)を信じているので、性悪説です!」
「yajulくんは性悪説?」
「いいえ、人間は(おかれた環境によって悲しくも)悪い存在になってしまうものですから、性善説です!」
みたいなことも言えてしまう。
わぁ!めんどうくさい!
そういうわけで、「いわゆる性善説」「いわゆる性悪説」を話題にしたい場合は、
ブラックリスト方式
ホワイトリスト方式
って言い替えちゃえばいいと思う!
つまり、
「人間は本当は善の存在と信じてる。だからどんな人とも真摯に付き合いたいよ。でも酷い人はブラックリストにいれて、付き合わないようにするよ」という「いわゆる性善説」が「ブラックリスト方式」。
「基本的に他人を信用しない。信じられる人だけをホワイトリストにいれて、その人たちと優先的に付き合うよ」という「いわゆる性悪説」が「ホワイトリスト方式」。
これで行こう!
いや、ま、俺はそうしようという感じで。
と聞かれたら、
「俺はブラックリスト方式ですねー」と答えることにしようと思う!
やっぱり、なんかこう、言葉の誤用とかを指摘するのもなんか嫌だしさ。
俺も多分、いろんなことを間違っているのだから、あんまり、鬼の首とったように指摘したりは、したくないよな。