脳の中のマリー

アントワネット的なことを脳の中で

「的を射る」はあんまり「的を得て」いないんじゃないかと思う

「的を得る」と発言したら、光の速さで「的は射るもので、得るものではない」というコメントがキミに届く。

「的を得る」の誤用を正すのはお手軽なマウンティング方法になっているからかもしれない。気軽に「奴は無知だぜ」と宣言することができるからかも。

しかし、果たして「的を得る」のは間違っているのか、ずっとモヤモヤしている。いや、モヤモヤじゃなく。俺は間違ってないと思っている。全然いいと思っている。大いに使うべきとすら思っている!

以下に、その理由を3つ挙げてみる。多分、いろんな人が言ってるのと被るとは思うけど。

元ネタからして「得る」である

「的に矢を当てるという慣用表現」の元ネタは、あの男である。俺たちの誰もが知るあの男。弓術に人間の真実を見た男。弓術こそがエグゼクティブのやるべき武術であると確信を得た男。歴史に燦然とその名を残す…というかむしろ歴史を書き残した最初期の男、善なる人間とは何かを今もって俺たちに教え続けている不滅の男、今も数十億人に影響を及ぼし続けている偉大なるあの男が元ネタである。

孔丘先生です。孔子その人。

「なんでわるいことしちゃいけないの?」という素朴な疑問に、

「神が見ているからだよ」と答えるのでなく「自分がいやなことは他人にもしちゃいけないからだよ」と答えるのは、間違いなく孔丘先生の影響。

その孔丘先生の言葉に、こういうものがある。

 射有似乎君子 失諸正鵠 反求諸其身

弓術は君子の道に似ている。的の真ん中を外しても、それは誰のせいにもできない。自分の中に原因を求めるしかないのだ。(中庸 第十四章)

同様のことを、孔子の弟子の弟子の弟子…?である孟子も言っている。「仁ってのは弓術と同じだよ。隣の人が自分よりうまく当てたからってその人を恨むわけにはいかない。自分が精進しなければね」

意外に思われるかもしれないが、弓術は当時の儒者にとって必須だった。孔子の開いていた塾でも、弓術は必須科目だった。日本の武士が「弓馬の道」として弓術を尊んだのも、根底には儒学の影響があるのかもしれない。弓道は元をたどれば孔子に至るんじゃないか。

で、先ほどの孔丘先生のお言葉。「失諸正鵠」というのは、「的を外す」という意味。正鵠(せいこく)というのは、弓道の的のど真ん中の赤い丸のこと。孔丘先生は「正鵠を『失った』からといって…」と言っている。「失う」の反対語は「得る」である。だから、「正鵠を得る」の言葉がある。

当を得る、的を得る/射る、正鵠を得る、これは全部「あたった」という表現であり、その根底にいる孔丘先生が「正鵠を失したから~」と言ってるので別に「得る」でも問題ないと思うのである。

的中範囲の問題

「的を射る」は、あんまり「当たった感」がないと思う理由は、その的中範囲である。いや、これは俺の単なる感想になるのかもしれないが。

まず、先ほどの孔丘先生の言。孔丘先生は非常に要求レベルが高い。「正鵠を失した」と言っているように、弓術をやるなら的のど真ん中を狙うべきで、単に的のどこかに当たったというのは褒めるようなことじゃないと先生は言っている。ように感じる。身長2m超えの孔丘先生にそんなことを言われたら平伏するしかない。強い。

「正鵠」が最高得点だとするのなら、「的」は一歩ゆずる。孔丘先生的には十分な反省が必要なレベルだし、弓道の全国大会的にも反省ポイントになるんじゃなかろうか。

サッカーで例えるなら、「正鵠を得る」は「ゴールを決める」であり、「的を射る」は「シュートを打つ」くらいの範囲になるような気がしてくる。「的を射る」その心意気は買うけれども、できればもう少し的中範囲絞って正鵠を得ようぜ、と思う。あくまでも俺の中で、だが!

「的を射る」は的に当てるという意味も含むよ、ということならば、ぜひとも「的を得る」についても「当たりをゲットする」という意味も含めてほしいところ。

言葉の変遷

「まとをいる」よりも「まとをえる」のほうが言いやすい。ただそれだけの理由だ!

いや、それだけなんだけど、無視していいことじゃないと思うんだ。しかも「的を得る」には前述の孔丘先生のお墨付きもあるわけだし。

言葉は、基本的に言いやすいように変化していく。言いにくい表現は失われていくのが言語だ。

それでも正しい言い方、読み方に拘るべきという人ももちろん多いだろうけど、「新しい」を「あらたしい」とはもう誰も読まないことを少しだけ思い出してほしい。

英語的にも

英語話者がアーチェリーをやって的のど真ん中に的中させたら、「I got it !」というかもしれない。これは「やったぜ」くらいの意味だけど、「get」を「当たった」の意味で使う表現が英語にはある。ここの辞書の12番に書いてあるな。

だから「得る」でもいいんじゃねえかな!

という非常に乱暴な意見である。すまない。

そういうわけで

「的を得る」をそんなに目の敵にして攻撃しなくてもいいんじゃないかなぁ。

と思うんだよね。

的を得る/射るの応酬をみるにつけ、俺の脳の中に身長2.2mの孔丘先生が俺の肩に手を置き、圧倒的なオーラを醸し出しつつ「yajulよ、なぜ正鵠を狙わないのだ?」と胃にズシンとくる声で語る姿が再生されてしまうのだ。