学習曲線への挑戦 -ノールビンドニングを始める…ための準備をする-

「何かの技能を身に着けるには、10000時間の学習が必要である」

というまことしやかな説がある。10000時間。3~5年、がっつり取り組まねばなしえない数字だ。

しかし一方で「とりあえず1500時間」だとか「500時間だな」みたいな話もあって、目前の8~12時間にさえおののく俺たちには割と途方もない話になってしまっている。

果たしてどれが真実なのか。

そんな漠然としつつも初学者の心を折に来る説に一石を投じたのが、先にネットで話題になった、「とりあえず20時間やってみようぜ説」である。

元ネタはTEDのこちらのトーク


The first 20 hours -- how to learn anything | Josh Kaufman | TEDxCSU

(必要に応じて字幕を日本語表示にしてほしい)

このTEDを聞いて突如やる気になるのが俺という男。あるいは全国全世界にいる俺のような人々であるので、「とりあえず何か20時間やってみるか…?」と思い立ったというわけさ。

単純だが!

いいんだよ!

そこで、せっかく何かを新しく始めるのだから、自分が全くやったことのないもの。およそ俺というイメージがないもの。全くかけ離れたものをやってみようという気になった。…かつ、安価に始められるもの、な!

そこで白羽の矢が立ったのが「編み物」である。

実際2時間やってみて、細編みまでできるようにはなった。これはすごい。ちょうど1時間15分くらいのところでものすごいストレスがかかり、「これはもうだめだな、俺には向いてないぜ…」となったんだけど、「まぁとりあえず20時間だしな」と乗り切ることができた。

おそらく、この「とりあえず20時間法」は、この「俺には向いてないタイム」を乗り切るためでもあるのだろう。

脳は学習の際、知識のインプットと整理を同時にやっているわけでなく、インプットしたものを適切に配置するための時間が必要だ。なので、学習を進めて行けばそのうち俺の脳の中でカチッとすべてが合わさる瞬間があるものだ。スポーツにしても、勉強にしても、趣味にしても。20時間あるいは10000時間の中で、この経験を幾度もやって、脳はその真価を発揮し最強に近づいていくのだろう。

ま、ま、それはそれとして、編み物である。

とりあえずやってみるにはネットの初心者サイトさんは最適だけど、やはりガチでやるには本がいる。

そこで俺は書店、古書店amazonを順に覗いてみた。

そこで出会ったのが、「ノールビンドニング」である。


How to start Nalbinding

ナイスなマダムがやって見せてくれている通り、これは編み物と縫物の中間というか、「糸を縫って仕上げていく」もの。カギ編み、棒針編みが伝達される以前のスウェーデンヴァイキングたちが男のたしなみとしてやっていた勇壮な編み物である。

勇壮な北方の男…!

…これかっ!?

俺がやるべきは、これなのか…!?俺も…雪国の男として…!

しかもちょうど、9月8日に日本初の本格的なノールビンドニングの本が出版されている。

はじめてのノールビンドニング 縫うように編む、北欧伝統の手仕事

はじめてのノールビンドニング 縫うように編む、北欧伝統の手仕事

  • 作者: 北村系子,マツバラヒロコ
  • 出版社/メーカー: グラフィック社
  • 発売日: 2017/09/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
  • この商品を含むブログを見る
 

 これは、何かしらの…おおいなる、こう、なんだ、アレが、サダメが、働いているというのか…!?

そういうわけで、俺の20時間は、編み物からノールビンドニングにスライドしたのである。編み物用の毛糸も使えるしね!

ちなみに、「ノールビンドニング」と本にも書いてあるけれど、英語の綴りだと「Nalbinding」が多いんだよね。スウェーデンの言葉で「NÅL」は「針」を意味して、それを「bind」結合するという説も見た。しかしそれが本当かはわからない。いずれにしても「Nalbinding」と「Nalbindning」で表記ゆれがあることは確からしい。

 

さて、やると決めたからには道具がいる。

ノールビンドニングには、木の針が必要だ。しかしあの形状の針はそうそう売っているものではない。なにせ専門書が今初めて日本で出版されたというような状況だから、手芸屋さんでも取り扱っているところは極めて少ないだろう。

…しかし俺は、樹木の男。

木で作れるものならば、俺は作れるのである。

不格好だったり、全く洗練されてなかったりするけれども…!

木工のいいところは、外見を気にしなければ機能はある程度満たすことができるということだと思う。強度が足りなければ太いのを使えばいい!技術が足りなければ力技という逃げ道が用意されている。それが木工である。

…何か怒られそうな気がするが。

や、もちろん細工ものは技術は絶対に必要だけどね!?

っていうか木工作家さんたちは圧倒的な技術を持っているので、俺のごとき男のタワゴトは真に受けないようにな!あくまでシロウトのDIYの範囲での話だからね!

 

…さて、そこで作り始める。

まずは材料。材料といえば俺は樹木の男。大体はそろっている。

今回はパワーとモダニズムを全面に推し出す感じで、黒い木を使おうと思う。

ソノケリンである。

ノールビンドニング用の針の材料

木材カットが恐ろしく雑なのは仕様だ!いいんだよ!削るんだから!な!

このソノケリンはローズウッドの一種。ローズウッドは切った時にいい香りがするので、「ローズ」と名付けられている。いわゆる香木だな。ソノケリンはその名の響きの通り、少しケミカルな香りがする。紫檀の代用としても使われる美しい木材だ。

ちなみにマメ科。バラ科ではない。…まぁ、この業界、名前の付け方がすごくふわっとしてるからな…!「サクラ材」なのに実際は「カバ」だったり。じゃあ本当の桜は?というと「本桜」と言われたり。本桜かと思ったらシウリサクラだったり。見分けは難しい。その場のノリで名前つけたりするしな…。

しかしまぁ、ソノケリンはソノケリン。インドネシアで育っている素晴らしい木材である。その名や付けられた属性に無関係に、美しくそこにある樹木であるに間違いない。外材、国産材にブランドの差異はないぜ。

その美しいソノケリンを、男の武器、ディスクグラインダーで削り取っていく…!

おおよその形を削り出す

美しいものを強引に削っていく快楽…はおいといて、ゆっくり慎重に削っていくと、こうなる。怪我には注意。

ソノケリンの良い香りが当たりに充満する。木くずはめっちゃ黒い。これでこそだぜ。

やすりの跡を消していく

大方の形をとったら、あとはサンドペーパーでひたすら微細な形を整えていく。木工細工の一番楽しい時間だと俺は思う。大変だけども。グラインダーでラクをすると、上の写真のように線状の傷ができるので、まずはこの傷を全部綺麗にすることを考えて削っていく。120番くらいかな。ザクザクやる。で、そのあとは320、600、800までかけて、

ノールビンドニング針仕上がり前

こうなる!…穴の位置とか、穴周りとかすっごい雑だけど。

ソノケリンは相当ハードな木なので、厚さ2mmとかでもたわむことはない。圧倒的なパワーをかければそりゃ多少はしなるけれど、少々のことではビクともしないぜ。折れる気配は一切なし!

適度な重さと固さは俺に集中力を与えてくれる。ソノケリンを選んでよかった。

常に触っていたい感触が魅力だね。

ノールビンドニング用の針

そして、こちらが完成品。荏胡麻油で表面を塗っただけ。オリーブオイルでも可。でもオリーブオイルは1日置かないと油っぽいので、乾燥の早い荏胡麻油に。

木工の表面処理に迷ったらとりあえずオリーブオイルでいいと思う(水に触れないなら)。オリーブオイル万能だし。マスターモコミチもそう言っている。

 

…と、いうところで、俺の20時間の挑戦が幕を開けたのだけれども…!まだ本は届かないから、しばらくは動画を見て練習だな!

もちろん、20時間を完遂できないという可能性も秘めつつも。

 

この木工の気軽さ、楽しさ、完成の喜びが、編み物やノールビンドニングにも訪れることを期待して。

「なぜ人を殺してはいけないか?」を、人類社会のジェネシックコードを用いて説明してみる

しばしば話題に挙がるこの問い。

時には酒の席で、時にはSNSで、掲示板で、それぞれの思うところの意見が飛び交う。

この問いを通じて、互いのうちの価値観がおぼろげに見えてきたり、あるいはあえて極論を投げ込んでその場を活性化させたりもする。何にしても、こういう話は楽しいものだ。喧嘩になるのは良くないが。

おそらく日本人なら、この問いに対する一般的な答えの内の一つに、

「自分がされたら嫌なことは、他人にやっちゃダメ」というのがあると思う。それが正しいかどうかは各人の思いがあるとしても、一般的であることはたぶん間違いない。

で、この考え方を一般的にしたのは、他ならぬあの古の賢者、身長190cmの巨漢、無職と勘違いされがちの男(だいたい晏子のせい)。孔子である。

「先生、それで結局のところ、一生をかけて追求すべき道徳とは一言で言えばどういう物なんです」 

「そうだなぁ、まぁつまるところ、他人がいやがる事はやっちゃいけないってことだろうな」

これが故事成語「己の欲せざるところは人に施すことなかれ」で、孔丘先生が何となく言ったこの言葉が、アジア圏の「一般的」な道徳となったのだからこの人は凄い。

で、この価値観に対する反論「自分が殺されても良いと思ってる奴には無意味なんじゃないか」も、頷けるところがある。というのも、孔子はあくまでも「生涯を通じて己を律したいと思っている人」に対してこのコメントをしたわけで、これに対して「この場合はどうなんだ、あれはどうなんだ」と一般化して話をするようなものではなかったりする。なんせこの質問をした子貢という人は魯の国と斉の国の宰相を歴任した人で、ぶっちゃけ孔子よりも遙かに知名度が高かった。この子貢があちこちで「先生に比べれば私など木っ端ですよ」的な事を言っていたので、孔子の名が世に広まったとすら言われる。そういうレベルの人に対しての道徳指針なので、「一般的」ではあるけれども全てに適用できるものではないだろう。

 それでは、何をもって「殺人はいけない」とするか。

神様やおてんとさまや呪いを持ち出して説明すべきだろうか?

 いや、それでは一般化は出来ない。

俺たち人類には、宗教や道徳以前の、何か共通の「決まり事」が必要なのだ。信じる信じないだとか、環境や文化では揺るがない、何か、こう、鋼のごとく盤石な偉大な魔法のような何かが。

そこで登場するのがジョン・ロックである。

聞いたことがあると思う。たぶん中学か、高校の社会科系の授業で出てきた17世紀イギリスの痩身の男。この男が全てを作り出したというわけではもちろんないけれど、俺たち人類の「共通の決まり事」を作り出した人の一人であることには間違いない。

ジョン・ロックはまず、人間の一番基本的な、ベーシックな状態を考えた。

…何か話が面倒になってきているが、大丈夫だ!

人間にとって最も基本的な状態は、「一切が平等で、他人を害さず、自由と平等を維持して平和に共同生活を送っている状態」であると考えた。神、いわゆるゴッドはそういう風に俺たちを作ったし、また、俺たちが目指す理想の状態でもあるだろうからだ。

性善説孟子あたりは「だよねー」と言いそうな感じだ。(「でもな…」と後に続くだろうけど)

で、人間は平等で、自由。

なのだが!ここで当然のごとく問題が生じる。

「俺の自由のためにアイツが邪魔なんだけど、排除していいのか?」ということである。

自分の自由と他人の自由は異なる。価値観は違う。それでも、平等である。ならば、必ず衝突が生じる。

ジョン・ロックは「そこで政府が必要になるのだ」と言う。つまり、政府というのは自然状態の人間たちの上にある物ではなく、自然状態の人間たちの様々な問題を調停する機関にすぎないと考えた。故に、政府は人民の承認が無ければ成り立たず、また人民の基本的な状態を壊してはいけないという制約も課された。

ここに、「人民が政府を選ぶ政治形態」が生まれ、「王が神に与えられた統治する権利をを行使して人民を治める政治形態」が否定されたわけだ。これは革新的というか、人類の定義そのものを変える偉業だったと俺は思う。この瞬間、旧人類は滅亡した!

 

という感じの話が、教科書に出てくる「王権神授説」だとか「社会契約論」とか「憲法」あたりの話だ。歴史の授業はもっと、こう、壮大な感じでやっても良いんじゃないかな。まさしく歴史が変わった瞬間なんだしさ。

それで、このジョン・ロックの話がなんなのかというと、この話が、まさに「人権」の話だからだ。

ざっくり言えば、「どうして殺人しちゃいけないの?」という問いには「人権があるからさ」でICHI-GEKIで終わるんだぜという話になるのだが、それは説明がないと納得しがたい。

そもそも、まず「人権」というもののイメージが悪い。

まぁ人によるだろうけれども…こう、人権という盾にスパイクを着けてシールドバッシュを仕掛けてくるメイン盾なパラディンの話が結構あるからかもしれない。

この辺は宗教と同じように、繊細な取り扱いが必要だが。

しかし、人権そのものについて改めて考えてみるのは決して悪いことではないはずだ。

人権というものは、ある意味で力技だ。

「人間には生まれながらの人権がある!これは決して侵されないし、誰にも奪われないし、誰かに与えてもらったものでもない!」

──ということに、しよう!

という大魔法なのである。この世界を、俺たちを、人類を、社会を決定する、これが崩れたらもうどうしようもない、ジェネシックコードということに、する!

勇気を持って、こういう物だと、決める!みんなで!その方が絶対に便利だから!

…というのが人権である。…反発はありそうだが。しかし、この人権こそが人間が長い歴史の中で編み出した超必殺技であって、これがなければ現在の社会は成立しない。

人権は、先のジョン・ロックが定義した自然権を参照するとわかりやすい。人間は、生まれながらに自らの生命と健康と自由と財産に対する権利を持つ。それは他人が奪うことを許さない。そして、もし、お互いのこの権利がぶつかり合ったら、どちらかの権利は譲歩しなければならない。話がうまくいかなかったら、政府がそれを調停する。その調停の基準が「公共の福祉」だ。日本国憲法に書いてあるところの。「公共の福祉」というのは、人権と人権がぶつかったときに、どちらの人権を優先し、どちらに譲歩してもらうかという基準のこと。ふわっとした言い方だが、コトが人権に関わる以上、ふわっとした言い方にならざるを得ないというのもあるだろう。

人権と人権がぶつかったときには、「公共の福祉」に照らして政府が調停する。これが俺たちの世界を形作る根底のルールだ。 

「なぜ人を殺してはいけないの?」

「君には他人の人権を停止する権利はないからだよ」

ということになる。他人に危害を加える自由は、他人の人権を停止してまでやるべきことではない、ということだ。

この世の中の問題は、全てこの人権を元にして裁定されている。

例えば、無人島で二人きりになって、どちらか一方を食わねば二人とも死ぬ、という極限状態の場合。両者の生きる権利は侵せないが、どちらかしか選べないとなれば、片方の人権停止はやむをえないとなり、罪には問われない。

また、死刑制度についてもよくわかる。

単なる調停者に過ぎない政府が、主権者である国民の人権を停止する権利があるのか?という問題。

「こいつは放っておくと、どんどん他人の人権を停止して回るぞ。こいつには更正の余地はない。やむを得ないがこいつの人権を停止するのが、最も良い」というのが死刑制度賛成派。

「こいつはどうしようもないが、人権を停止する権利は誰にもない。他人の人権を停止しないように監視を付けることしかできないだろう」というのが反対派ということになる。

人権という物の性質を考えれば、どちらにも理があると思う。

人を罰し、押さえつけるのは簡単だが、それを安易にやってしまうと俺たちの世界そのものが崩れてしまうのだ。ファンタジー的に考えれば、世界の法則が乱れて崩壊してしまう感じだ。割と結構、深刻なことなんだぜこれ。

 

と、長々と書いてしまったのだが。

ちょうどこの間、友人の子供のがこの「なぜ人を殺したのがダメなのか期」に突入したという話を聞いたので、せっかくの機会だからとここに書いてみた。

もし彼に「なぜ人を殺してはいけないの?」と問われたならば、

「…この世界が崩壊するからだ…!」

と、俺は答えていきたいと思う。腕の辺りを押さえて脂汗を流しつつ。

 

それにしてもあれだよね。高校の頃の「倫理」の授業(今もあるのかな?)とか、問題回答形式で教えてほしかったよね。ズラズラと偉人の思想を並べるんじゃなくてさ。

俺たちの直面する問題は、大体過去の偉人が冴えた回答をしてくれているのだから。

「はい、今日の授業は、『実は私は水槽に浮かんでいる脳みそで、この現実は夢なんじゃないか』についてです」

…ワクワクしてくるだろう!?

そこで『ゴゴゴゴゴ…』と圧倒的な感じでデカルト、カント、ブッダ荘子とかの偉大すぎる賢者たちが教師の背後に浮かび上がるわけだよ!

これはもう…たまらないな!

心は几帳面だけど行動は大雑把な自分に最適な「全肯定ノート」・トラベラーズノートを手にして

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散らかった部屋や不安定なモノを見るときちんと整理したくなる几帳面マインドがある一方で、気がつくと部屋には本やメモ、買ってから一度も開封していない袋、オシャレなはずなのに完全に場所を間違えている小物が散乱する。そんな人はきっと俺だけではないはず。

心を決めて整理を始めると完全にバチッと決まるんだけど、どうにもこうにも維持ができない。まるで創造するだけして役目を終えるブラフマー神みたいな。

さすがにこれではまずいと様々な方法を考えるのだが、やはり行きつくところはブラフマーである。現状維持の神ヴィシュヌと破壊と再生の神シヴァに人気で完全に負けているのもうなずける。こんなに維持ができないなら破壊してしまえばいいのだ!とか思っても結局再生する気力がない。だから俺は創造しっぱなしでいつも終わる。ブラフマーといえば、アトラスの「アバタールチューナー」は最高だったな!めっちゃマイナーだけど。

それで、そんなおれがついに手にしたのがこのトラベラーズノート

構造は超シンプルで、厚手の一枚革を折ってゴムを通してリフィルを挿めるようにしただけ。表面処理も特にされていない。爪を立てればあっさりと跡が残るでもしばらく使ってればそのあともあっさり消えて行く。まさに革。これこそ革。作れる人は普通に革買ってきて穴開けてゴムを通すだけでいける気がする。そんな大雑把の極みみたいなノートだ。中のリフィルも余裕で自作できるしね。

心だけは無駄に几帳面な俺は、今まで「手帳はシステマチックであるべき」という信念をもっていた。例えるなら、神社の巫女さんである。巫女さんの魅力はあの服装や巫女さん個人の可愛らしさでなく、統一されたシステムの一部として行動するその整然さにあると、友人の結婚式で俺は思い知った。あれはショックだった。ヤック。それ以来、俺が手帳に求めるのは巫女さんとなった。手帳こそ俺の巫女になってくれる存在じゃねーのか!?あの整然と楚々とした佇まいが!システムの一部となって完璧な調和を見せるあの行動が!俺の中の何かを突き動かしたというわけさ…。

…割と意味が分からなくなったが!

俺の手帳に求める手帳像というのは、要するにきちっと情報が整理されていて、きちっと管理できて、きちっと美しく調和しているべきものだ。そしてそれが現実には即さず、ひたすら挫折を続けてきたのが俺の手帳人生である。ついに巫女さんには俺は手が届かなかったのだ。俺が、俺のようなクズが巫女さんに手を伸ばそうなどと思い上がりも甚だしい感じだったのだ。たとえ彼女たちがバイトだったとしても、巫女システム駆動の彼女たちはまさに巫女さんなのである。

それで、トラベラーズノートである。

ずっと以前から、気にはなっていた。書店で、文具店で、雑貨屋さんで見かけるたびに、「こいつを使いこなしたら大変なことになるんじゃねーか…」というドキドキを感じていたものだ。しかし、買わなかった。俺はまだシステムの魔に憑りつかれていたからだ。このトラベラーズノートを完璧に美しく調和した使い方をするには、俺のレベルは未達である、という思いこみが、レジへ持っていく勇気を与えなかったのだ。

しかし今回は違った。

もともとは、「家計簿とアイディアノートと日記帳を買って来よう」と出かけて、3時間悩んで3冊決めたのだが、そこで疑念が巻き起こった。

「俺はまた、完璧を求めるがゆえに途中で使えなくなってしまうのではないか…?」

そこで俺は3冊をいったん戻し、喫茶コーナーに腰を落ち着け、考えることにした。俺は考えるときにアイディアノートにだらだら書いていくんだが、今回はそれを買って来ようとしていたわけで、久しぶりに完全に脳内で悩むことになった。

「こいつは金の無駄なんじゃないか…?」

「もう帰ろうぜ…」

「牛丼食べたい」

「火災保険のお金払わないとな…」

「牛丼だな…」

そして俺の心は決まり、未知の領域へ足を踏み入れることになった。

まぁ、8月27日まで、大丸藤井で全品20%オフのセールをやっていたというのも後押ししたんだけど。

家計簿も日記帳もアイディアノートも、一つにまとめられるのがトラベラーズノートだし、持っていて楽しいノートであるのは間違いないし、机の上に置いておくべきものでもない。考えれば考えるほど、俺のライフスタイルに合っていたと思った。

そして何より、トラベラーズノートのコンセプトが、俺の「心は几帳面、行動は大雑把」を補完してくれるということに気づいた。

トラベラーズノートは不完全であるゆえに、ユーザーの完全性を求める心を埋めてくれるともいえる。

つまり、俺が(結果的に)大雑把に使ってよれよれのぐだぐだになってしまったとしても、トラベラーズノートは「うん、それでいいよ。これが一番だよ」と言ってくれる頼もしいノートなのだ。今まだ俺はこのノートがナイスガイなのか麗しき女性なのか図りかねているが、いずれにしても、いかなる使い方にもグッとサムズアップをしてくれる存在であることは間違いない。

もちろん、機能や書き心地は良くない。なんせ大雑把な作りだ。

しかし、それ故に、俺自身に問題を持っていかなくて済むのだ。

「この手帳を使いこなせないのは俺のパワーが足りなかったからなのだ…」

「こういう手帳を使いこなしている人と俺との差はそんなに大きいのか…?」

みたいな自己嫌悪に陥ることはない。

「まぁ、そういうノートだからなこれは!」と開き直って汚い文字をドカドカ投入していく、そしてそれが「一番いい使い方」であると保証してくれる。そんな救済の女神なノートなのだろう。

買ってきてよかった。

これからよろしく頼むぜ。

不愉快な言説を脳内でミュージカルに変換してしまうと健康に良い

ネットを眺めていると必ずぶち当たるのが、不愉快な煽り叩きにヘイトに差別。

ここ数年はこれがもう本当に嫌で、ネットで情報収集も積極的に行わなくなった。何かしらの意見表明を見れば、それに対するリプライも予想できるし、そのやりとりをまとめてさらに叩く、みたいな構造もさすがに食傷気味だ。

なるべくそういった流れに乗らずに別の角度から物を見ようとしているけれど、それはそれで結構体力を使う。なぜ俺は無理にこんなことをしているんだろうと思ったりもする。

これは健康に良くない。

そう思っていたところで、この「不愉快な言説をまとめてミュージカルにしてしまう」という方法を見つけた!

ネットを見ていると、「不愉快な言説には実はそんなにバリエーションが多くない」と気づく。差別なんかはその代表で、差別は個性的でないからこそ広がるのだが、大体もう、見たことのある口調で見たことのある主張が何度も何度も繰り返されている。表現を変え、新しいネタを仕入れているけれど、その根底に流れるリズムは同じだ。

つまり、「そういう主張をする人」は、「ああいう口調」で、「何度も同じ事を言っている」。これはキャラクターとして設定しやすい。そしてこれは、ミュージカルととても相性が良いのではないか!?

何か不快な言説があるとする。それがこちらに流れてくる。不幸にして、俺はそれを読んでしまったとする。

そのとき俺の脳内では即座に登場人物が立ち上がり、己の熱い主張を音楽に乗せて朗々と歌い上げはじめる。これは面白く、また笑えるしかっこいい。彼らはそういう役割なのだ。どんな役でも歌う。それがミュージカルだ。俺は観客か、それともステージの後ろで物言いたげにポーズを取っている出演者か。あるいは幕の後ろで出番を待つ次の歌い手か。そう考えるととても楽しい。

そしてこれは、不快な話に限ったことではない。

昨今「嘘松」と呼ばれる、「本当に体験したことなのか怪しい創作実話風の話」にも応用できる!

話の真偽は確かめようもないし、確かめようとする行為がすでに不毛だし。

ならば…

歌えば良いんじゃないかな!

開帳される圧倒的な武勇伝。朗々と歌い上げる登場人物。「さすがディオ!俺たちに出来ないことを平然とやってのけるッ!」と盛り上がる脇役たち。それも全部含めてミュージカルだ。むしろもっと盛り上がっても良いはず。次に出てくるのは「それは嘘だろ」と糾弾する一派だ。ハードな雰囲気。こいつはクールだ。両者にどういう曲を割り当てるべきか。服装はどんなものだろうか?髪型は?

 

この方法で脳内変換すると腹が立たなくなるのは、「意見」を「表現」にすることで、「お前に言っているんだ感」が薄れるからだろう。「お前」から「みんな」に対象が変わることで、物事を客観的に見られるようになるのではないだろうか。

そう考えると、ラップ、ヒップホップもそういう文脈と言えるかもしれない。

ワルい男たちがワルい話をする。これは悪い。

しかし、ワルい男たちがワルい話を韻を踏んでリズムとフロウに乗せて語る。これはクールになる。「悪い」から「悪い表現」にすることにより、相手に伝わる裾野が広がるのだろう。

 

しかし、このミュージカル変換法を試し初めて痛感しているのが、「俺…ミュージカルの引き出し狭いな!」ということだ…。

そもそも、ミュージカルはミュージカル映画くらいでしか見たことなくて、ガチのミュージカルはそんなに経験をしていないんだよね。

なので、これを機に、ひとつミュージカルに足を運んでみようと思っている。

おそらく、そこには圧倒的な表現が待っているに違いないのだ。

すべてのダイナモ使いに勇気を

栄光と凋落をその身に引き受け、今や「塗れぬ!殺れぬ!顧みられぬ!」という三重苦に苛まれるダイナモローラー。

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前作では圧倒的な塗り面積と長大な射程距離を備えるモンスター級のブキとして鳴らしていたのだが、度重なる下方修正と今作の調整がトドメとなりすっかりBorn to be mildな仕上がりになってしまった。

自分は前作ではダイナモ一本でS+92までいき、平均はS+70~80というところだった。なのでまぁ下方修正されたと言っても立ち回りでどうにかなる範囲だろうし、いくら性能が落ちてもS位の実力はあろう…。と思っていたのだが、あまりの使用感の違いにビビってしまい、「もうダイナモはダメだ…」と儚く死んでいく滅びの快楽に身をゆだねたりもした。一週間前の事である。

しかし!

使っていくうちに、今作のダイナモという物がわかってきた気がするので、ここに書いておこうと思う。

もちろん、わずか二週間で絶望の快楽から希望の光明を見いだすという節操のない思考の変化が起きているレベルの俺なので、そんな参考にはならないかもしれないが…!

あと、現S帯の状況は体験してないので、あくまでもA帯までの話、もっと言えば、まだ立ちまわりが確立されていないC、B帯のダイナモ使い向けとして、聞いてみてほしい。

先ずは意識を切り替えよう

前作のダイナモと、今作のダイナモはそもそも全く異なる。

というのはみんな解ってはいるだろうけれど、なかなか慣れないもの。

俺もダイナモを使い始めてから、「これでキル取れないのか!?」「マジか!?」「これが届かないのか!?」「インクが消えるんだが?」「わかばダイナモを狩りに近づいてくる…!」と絶望しっぱなしだった。

何よりも、完全に舐められているのがハッキリわかるのが辛い。いやま、前作で暴れすぎたんだろというのは尤もなんだけど。バケツが、シューターが、ブラスターが、筆が、ローラーが、完全に「コイツはカモだぜ」と群がってくるのが何よりも辛かった。ダイナモ使いの心を折るのはたぶん、性能以上にこの状況にあるんじゃないだろうか。有名なダイナモ使いの動画を見ても、「ダイナモを舐めるな!」という気迫を終始感じた。そのくらいの気迫でなければならないようだった。それくらい、ダイナモは前作と今作で落差が大きい。

でも、いつまでもかつての性能を追い求めるわけにはいかない。

まずは落ち着いて、「ダイナモはメジャーブキではなくなった」というところをスタートラインにすべきだろう。前作のボールドの立ち位置と思った方が健康に良い。

ダイナモ教はその教義を、ボールド教やスクイックリン教に同じくしたのだ。

ダイナモの強みは?

圧倒的な塗り能力と、長大な射程距離。

というのは前作までのお話。

…と思いきや、やっぱり今作でもダイナモの強みはこの二つ。

まぁこれしかないんだからもう仕方が無いな!配られたカードで勝負するんだよ!

でも相当弱体化したとは言え、やはりこの両者はギリギリのところでダイナモを裏切ってはいない。チャージャーに匹敵する飛距離を誇る縦振りと、一度に塗れる面積はやはり健在だ。特に縦振りは、これからのダイナモアイデンティティとなるだろう。

ローラー使いなら当然だけれど、縦振りと横振りをとっさに切り替えられるように練習しておくといい。先にジャンプをしてから降るのが縦振り、先にショットをしてからジャンプするのが横振り。

ではどうやってキルを取る?活躍する?

まず、ダイナモは10キル取れれば上出来。15キル取れたらもうそのランク以上の実力を備えていると言って良いと思う。6キルとかでもそんなに卑下することじゃない。隣でヒッセンやマニューバー、ラピブラスシコラが20キル取っていても、ダイナモが同じ事を出来るわけではない。これはもう仕方ない。さらに、そんなに塗れる訳じゃないのでリザルト画面での存在感は限りなく薄い。それが今回のダイナモの宿命かもしれない。前作のジェットみたいな立ち位置かもしれない。

でも、それでもダイナモを握った以上は弱音は吐けない。

数字に表れぬ仕事をするのが今作のダイナモだと心に命じよう。記録が残らずとも、記憶に残らずとも、君の静かな活躍はダイナモ使いは理解する。少なくとも、ここに一人、ダイナモを応援する男はいる!大丈夫だ!

と、いうところで、ダイナモの戦い方を考えて行こう。

まずは、一撃に頼るのはもうやめよう。

あらゆる角度、あらゆる状況から一撃で敵を葬ってきたダイナモの姿はアルバムの中にしまっておこう。もちろん、慣れればかつてのごときパワーの片鱗を取り戻せる。しかし、一足飛びにそこまで行くことはできない。

今のダイナモは、

  • 敵の退路を斬って追い詰める
  • 足場を奪って地味に確実に敵を下がらせる
  • トラップと床インクを駆使して総合ダメージで敵を倒す
  • 地形を把握して的確にハイパープレッサーを当てる
  • 段差を利用して不意打ちを浴びせる

戦略的に戦う知的な立ち回りが要求されるブキになったのだ。

前作がマッシヴゴリラなら、今作は逆三角形の魔術師。見せ筋をチラつかせながら狡猾に立ち回るギャップが魅力のゴリラソーサラーになるのだ。STRではない。INT極振りのオーガといったステ振りで挑む必要がある。そう、俺たちはカンペキなカラダから脱皮し、カンペキな頭脳を搭載してこのバトルに挑まなければならない。えいえんのカンペキな頭脳ヴァーイ/ヴォーイになるのだ。腹筋は必要だが。

それで具体的な戦い方は

塗れ!

倒せ!

さすれば、俺たちの勝利だッ!

…身もふたも無い感じになってしまうが。

しかし結果的にスプラトゥーンの基本に立ち返ることになる。今までは暴力的な威力と優秀なサブとスペシャルに守られていたが、ムキダシのボディとなってしまった今作ではごまかしは効かない。基本を極める他に道はないだろう。

スプラトゥーンの立ち回りはなかなか言語化できないのが難しいところだが、何とか文章にしてみたいと思う。

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ダイナモはトラップと縦振りで相当な防御力を発揮する

とにもかくにも状況判断

これは前作からそうなんだけど、ダイナモはチャージャー並みの状況判断が求められる。弾数が少ないので、一発の塗りで複数の効果を得られるよう、考えて塗らないといけない。今作は縦振りがある分、顕著だ。

開幕時は、道を作ると同時に壁を、段差を、台の上を一緒に塗る。戦闘中におそらく使うであろう壁を初期から塗っておく。壁を使わないローラーはBに上がれない。そして、戦闘中も常に追い詰められたDIOのごとく「逃走経路」を把握しながら戦う。ダイナモは倒されてはいけない。常に前線少し後ろに位置し、トラップと縦振りで牽制し続けなければならない。味方の状況を見て、下がるときは思い切って下がる。隠れるときは思いっきり隠れる。

ダイナモは自分で前線打開はできない。なので味方が前線を打開するサポートに徹したい。ダイナモの縦振りは脅威だ。はるか遠くから足元を塗られて混乱しない敵は(あまり)いない。今作では、インクのスリップダメージが非常に大きい。だから敵の足場を奪うのはそれだけで大きく貢献できている。

そして、常に相手がどう動くか予測すること。

正面にいた敵がインクに潜ったら、8割の確率で左右に回り込みながら近づいてくる。その時、どこに敵がいくか、どう自分を倒しに来るか、予測する。上手く予測できれば、イカニンジャをも倒すことができる。わからなければ、敵のインクを切っていく。退路、進路を分断する。敵の選択肢を奪っていく。トラップに誘導し、さらに選択肢を減らす。そしてこちらの選択肢を増やしていく。つまり、敵の退路を切りながら壁を塗るなど。そして常に敵の予測をはずす。

2秒間の隙に命をかける

ダイナモは振りかぶってから1,2秒のラグがある。なのでダイナモで敵を倒すということは、敵に1,2秒の隙を作りだすことにある。隙をつくれたら、ダイナモの勝ち。作れなかったら、負け。なのであらゆる手段を用いて隙を作ろう。

壁を使って相手の上を飛び越したり、追い詰められたふりをして誘いこんだり。

俺は時に、普通に歩いて敵陣に入ることがある。塗れば音と色でバレるが、大体のイカは「ダイナモが普通に歩いてくる」とは思っていない。特にホッケの開幕時は、むしろてくてく歩いていった方が裏取りしやすかったりする。リスクはあるが、敵の隙は作れる。(さすがにS+級になると失敗するけどね)

トラップは強い

今回はインクを踏んだ時のダメージがとっても大きい。だから相手の足場を奪うクイックボムやトラップ、アメフラシが非常に強い。ダイナモは一撃を失ったけど、トラップとインクダメージと振りのダメージでの三段構えで十分に敵を倒すことができる。

debuffをまき散らす狡猾なマッチョ呪術師の気分で戦おう。

大仰な振りはブラフ。本命は貴様の足元だ!かかったなアホがッ!(ガッシィ‼)

…と、ダイアーさんのようにかっこよくいければいいんだが。そういう気持ちで戦っていくと充実感も増すし、健康にいい。

トラップは積極的に使っていこう。敵の経路だけでなく、前線少し後ろとかにおいておくと、敵の侵攻を遅らせることができる。トラップにかかった敵は一目散に逃げて行く。それで十分な効果だ。

ハイパープレッサーは十分に使える

何かと嫌われるハイパープレッサー。弱い、クソ、ゴミ、いらねぇ、メガホン返せ。

…しかし思い出してほしい。まさに前作のメガホンレーザーも、最初期にはゴミ扱いだったことを。

そして新規の人も思い起こしてほしい。サーモンランのタワーのウザさを。

タワーのハイパープレッサーがなぜあんなに強いのか。

それは言うまでもなく、正確なエイムがあるから。つまり、俺たちも、正確なエイムがあればそれでいいということになる。まずはマップの構造を熟知して、敵が潜みそうな場所、敵が必ず通る場所、敵の進軍を塞げる位置を把握しよう。サンポ大事!

そうすれば、一発のプレッサーで2キル持っていくことも可能だ。ヤグラならもっと有用。十分に使える。大丈夫だ。

おそらくプレッサーはステージへの理解が進んでいくと強くなっていくスペシャルだ。今は使えない、ゴミ、といわれていても、そのうち徐々に価値が上がっていくと思っている。すべては使い手次第ではあるので、お手軽なスペシャルじゃない。でも、その分、使っていて楽しいものになると思う。

マッシヴ呪術師の必殺の闇属性ビームという心持ちで、ハイパープレッサーを放ってみてほしい。闇属性というのはクセがあるものだし。今の俺たちにおいて他に闇属性はいない。ゾンビから転生したリッチのごとく、変幻自在の戦いを展開していこうじゃないか。

最後に

今後、ダイナモは強化されるかもしれない。

きっと強化されると思う。どういう形でかはわからないけれど。

失われたSTRを取り戻すかもしれないし、よりINTが重要な感じになるかもしれない。闇属性が強化される可能性もある。

その時に「あの苦難の時代をこいつ一本で乗り切ってきたぜ…」と不敵に笑えたなら、きっと腕前は一段階も二段階も上がっていることと思う。

ダイナモ使いに今を乗り切る勇気を!

 

 

 

 

スプラトゥーン2はマニューバーを基準として調整されている、と考えるとしっくりくる。

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発売から一週間経ち、評価が固まってきた感もあるスプラトゥーン2

わずか一週間の間にブキ追加2種、第一回フェスの発表、そしてバランス調整が早くも入るなど、イカ研究所の気合も感じられる本作。

個人的に驚きだったのは、「なぜこういうバランス調整をしたのか」を運営がTwitter上で明かしたことだったかな、と思う。

 こう言ったバランス調整の意図を発表する運営はなかなか珍しいと個人的に思うし、任天堂はなおさらこう言うことはしないイメージだったので、この件は驚くとともに、相当神経使ってるんだなとも思える。

なにせSwitchを爆発的に普及させるキラータイトルだし、ここで変なことをやってしまうと早々に飽きられかねない。俺自身も割と結構、ハラハラしながら見守っている。初心者の人、ちゃんと楽しめてるかなぁ、とか、いらぬことを。いや、これは本当に面白いゲームなので、恐れることなく飛び込んできてほしいという確信はあるんだが!それでも、ちょっと、一抹の不安はあった。

その不安というのは、前作のプレイヤーの少なからず感じているところの「過剰なバランス調整によって爽快感やブキの個性が失われているんじゃないか」という部分。

多く聞かれるのは、

  • チャージャーがポジションをとれない
  • 対チャージャー要素が多すぎてまともに戦えない
  • リッターとダイナモ、ノヴァの露骨な弱体化
  • ローラーがキルをとれない、塗れない

というところかと思う。

正直俺もこの調整にはかなり苦しめられている。今まで人速ダイナモをずっと使ってきた俺も、さすがにこの「塗れぬ!殺れぬ!顧みられぬ!」という三重苦に加えて敵味方双方から浴びせられる「ダイナモなんて使ってるんじゃねぇよ…」という冷ややかな視線には相当なダメージを負っている。チャージャーも、ダイナモも、「負ければ戦犯、勝っても評価されない」という苦しい状況に、己の腕と愛を試されている。(この辺、言いたいことはいっぱいあるけれど…)

と、愛するダイナモを破壊された悔しさを存分に発露したいのはやまやまなのだけど、ここで冷静に「スプラトゥーン2は何を基準にバランス調整されているんだ?」と考えてみた。すると、いろんなことが分かってきた。

 

おそらく、というか言うまでもなく、スプラトゥーン2の主役はマニューバーだろう。パッケージに一番大きく描かれているのもマニューバーのガールだし。

そこで、マニューバーを中心に据えてバランスを考えてみる。

まず、前作の世界に現状のマニューバーを放り込んだらどうなるか。…答えは言うまでもなく、とても強武器には食い込めない。スライドがあったとしても、シャープマーカーくらいの存在感に落ち着くはずだ。キル能力が強いわけでなく、塗り特化というわけでもないが、機動力という強みはある。

このマニューバーをバランス調整の中心に据えて考えると、まず、天敵が見えてくる。

ローラーだ。横に広い一撃を持つローラーはマニューバーの天敵として立ちふさがる。圧倒的な射程と塗り能力を持つダイナモ、一瞬で足場を奪うクイックボムを持つカーボン、必殺のダイオウイカを秘めるロラコラ、いずれもマニューバーには重い相手だ。また、特筆すべき塗り能力を持ち機動力もあるパブロも苦手な相手といえる。そこで、ローラーはマニューバーが相手にできる性能に落ち着くことになる。強力な振り攻撃は射程が減り、マニューバーのスライドが有利に働きつつローラーに機動力を与える縦振りを追加。ダイナモの横振りとカーボンの縦振りの確殺範囲はマニューバーの射程より少し短い。「マニューバーが対抗できる範囲」に各ローラーの性能が調整されていると考えることもできる。ダイナモとヴァリアブルの縦振りが遅いので、縦振り見てから前方スライドで距離を詰めて始末することも可能だ。パブロがスプリンクラーを失ったのも、塗りが強すぎるブキになってしまうからかもしれない。

次に、チャージャー。射程が短く、塗るために身を晒すマニューバーはチャージャーの格好の餌食になる。チャージャーの調整は他に様々な理由があるのだろうけれども、弾速の低下などは「遠くの相手を狙いにくい」という点でマニューバーに有利に働く。チャージのタイミングを計ってスライドでかわすこともできる。そのほかアメフラシやミサイル、アーマーなど、定点チャージャーに対抗する手段は数多く用意されている。チャージャーはその代わりチャージキープを得たが、それはつまり中距離の殴り合いに参戦しなければならないとも言える。シューター、マニューバーの土俵に降りて行かざるを得なくなった。ローラーや後述のノヴァに比べて、チャージャーはデメリットに対してメリットが少ない。現在のチャージャーは苦しいだろうと思う。(そんな中で元S+のチャージャーたちの異常なエイム力には脱帽しっぱなしだぜ…)

その他、地味なところで、ノヴァブラスターもマニューバーの天敵となる。近距離でスライドしながら戦うマニューバーに対して、ノヴァの近距離攻撃力は脅威。というわけで(なのかどうかはわからないが)、ノヴァは微妙に射程が長くなり、、ジャンプ撃ちの精度が落ちた。微妙に射程が伸びたのは利点だが、スライドで超近距離まで詰めることのできるマニューバー相手には不利になる。なかなか面白い調整といえる。

また、追加予定の傘型の武器、シェルターもマニューバーのいいライバルとなるよう調整されていると見る。シェルターはショットガン型のブキなので、マニューバーと射程が被る。そして傘を展開して防御もできるが、背面はがら空きとなってしまう。ここで、防御のシェルターと回避のマニューバーの近距離ガチ戦闘が起こる可能性が出てくる、というか多分狙ってやっていると思う。まだ傘は追加されていないのでヒーローモードで使うだけなのだが、マニューバーといい勝負ができそうな具合に見えた。

 

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そのほか、爆風系もスライドでぎりぎり逃れられる範囲に納まっているような気もする。スーパーチャクチの確殺範囲は1.5本、マニューバーのスライドは1本。普通にやりあっている状況なら、スライド一回で範囲から逃れることができる。ガチホコショットの爆風もこのくらい。

 

と、こう言う感じで、マニューバーを基準にしてスプラトゥーン2を見てみるといろいろな部分が納得できることがわかった。もちろん、イカ研究所がそういう意図でやったのかどうかはわからないけれど、少なくとも俺個人はこれが納得のいく調整理由だと感じている。

ゲームスピードが前作に比べてとても速く感じるのも、マニューバー基準の結果なのかもしれないなぁ、とかね。

いずれにしてもスプラトゥーン2はまだまだ始まったばかりで、これからどのようにゲームバランスが変化していくのか、ライブ感覚で楽しんでいきたい。

 

 

自分の遺伝子を変化させて、理想の人生を手に入れる

・・・などという話は、センスオブワンダーにインセインをひとしずく加えたようなもので、「お前はいったい何を言っているんだ」と思われるかもしれない。

でも、「遺伝子は変わらない」というのは一面では正しいけど、完全にその通りというわけではなくなっている。。

まずはこのTEDを見てほしい。

見る暇が無いならこちらの翻訳を読んでみてほしい。

きっと常識がガラガラと崩れゆくと思う。

リッカルドサバティーニ: ゲノムを読んで人間を作る方法

www.ted.com

機械学習によって、遺伝子からその人の顔つき、身長、体重を逆算できる」

しかも現時点で、身長は5cmの精度、体重は8kgの精度で。

今後さらに技術が発展したら、犯行現場に残された犯人のDNAからかなり正確な犯人像を出力できるようになるだろう。驚くべき未来に、もうすでに俺たちは足を踏み入れているのだ。

身長と体重が遺伝子から逆算できるということはつまり、成長にともなって、自分の遺伝子が変化しているということになる。もし、受精した瞬間から遺伝子が全く変化しないのであれば、今現在の自分の身長体重を逆算できるはずがないから。

つまり、遺伝子は変えられる。俺たちは遺伝子の乗り物でも、奴隷でもなく、遺伝子に対してある程度、対抗し得る存在なのかもではないか。

と、ぼんやりと思っていたところでこの本を読んだ。

 

 …例のごとく、「やりたい邦題」なタイトルになっているのだが、原題はInheritance(継承)。俺たちは何を遺伝子によって継承するのかを、遺伝学者さんが非常に多くの例を挙げて説明してくれている。

その例示が圧巻で、遺伝学者にかかれば、ほんのちょっとした体の形質の違いから、「この人はこれこれの遺伝子障害があるな」とわかるのだという。まつげが二重の人はこう、親指が外側に90度曲がる人はこう、手相がこれこれの人はこう…。コレを読むときは、是非鏡を手元に置いて読んでほしい。もしかすると、様々な「遺伝子のエラー」に気がつくかもしれない。そして、それらエラーのいくつかは「見た目」でしかわからないというのも面白い。

この本を読んで様々な衝撃を受けたんだけど、一番はこの「見た目でしか判断できない、遺伝子のエラー」だったかもしれない。

というのも、つまりこれって、「人相見」や「手相占い」に通じるからだ。

「見た目」で判断する遺伝子のエラーがある。そしてそのエラーを持っている人(エラーのない人なんか居ないけどね)は、これこれの病気にかかりやすいとわかっている。ならば、「人相見」や「手相占い」は、遺伝学的にそんなおかしな事はしてないって言うことになる。手相と人相を見て、「あんたはこの病気になるから気をつけなさい」みたいに偉そうに言われたとして、それは単なる当てずっぽうでなく、それが数万、数十万の「見た目と病気の関係性」の蓄積の結果だとしたら、それはそれで信をおけるものなのかもしれない。(いんちきが9割にせよ)

中医学(漢方や鍼灸)は、「とりあえずひたすら試してみて良い結果を蓄積する」という、半ば力業で成り立っている医学だ。そもそも、始祖の神農その人(神だけど)からして、「あらゆる草を舐めてその効能を確かめた」力業の人(神)なのだから。

俺の中で、中医学と最新西洋医学がうっすらと重なった瞬間かもしれない。もちろん、全てを鵜呑みにすることは危険にせよ、人の人相、手相をひたすら観察し続けたデータというのはそうそう軽んじていい物ではない気がしてきた。

また、この本の中で、腸内細菌によって行動や思考が支配された例などもあって、これは先日出版された心を操る寄生生物 : 感情から文化・社会までにも通ずる話かと思う。

中医学には『脳』の概念は最初はなかった。腸や内臓によって思考や性格が影響されると考えられていて、それももしかして一面の正しさはあるのかもしれない)

さて、ずいぶんと脱線したけど、遺伝子の変化を自分で起こせるかという話だが。

…残念ながら、遺伝子を自らの意思で書き換えることは出来ない。

お前…タイトル…と思われたかもしれないが、その、なんだ、最新科学の話って、案外こういう、夢を見させておいて結論は地味なところに落ち着くっていうパターンがあってな…。

しかし重要なのは、これこそがこの本の最も重要な点だが、「遺伝子ではなく、『遺伝子の発現度合い』が重要なんだ」ということ。

蜂の幼虫にロイヤルゼリーを与えれば、遺伝子の中の「女王バチスイッチ」がONになり、与えられた蜂の幼虫は全員女王バチになる。遺伝子は設計図だが、その設計通りにコトを運ぶかどうかは、まだ俺たちに選択肢が残されている。大いに。

遺伝子は変化しない。しかし変化したかのごとく見せるのは可能だし、今までの俺では発現させられなかった遺伝子、かっこよく言えば秘めたる力を解放することは出来る。

いじめられた記憶は遺伝子を覆い、戦う力を奮い立たせる能力を封印してしまう。遺伝子に変化はないが、そこにシールを貼ることは出来る。出来てしまう。無意識のうちに。

遺伝子の可能性は有限だが、その有限は極めて広い。有限の中に無限を見いだすのは可能なはずだ。