武将の「名前」で楽しむ三国志 -主人公の蜀-

無双したりカードゲームになったり女体化したりと忙しい三国志の武将たち。

文醜」とかものすごいイカツイ名前でも美少女になったりするから面白い。

もうすっかり「そういう名前のもの」として、記号として受け入れられている感がある。まぁそれについていろいろと言いたくなる人も多いと思うけれども。

で、そんな彼らの名前。

彼らは漢字の国の人物たち。

ならば当然、その名前にも大変な意味が込められているはず!

しかも古代史の人物たちであるから、現代とは名前の重さも桁違いのはずだ。なんせ「字(あざな」なんてものがあったくらいだしね。

そういうわけで、主要な人物の中で「これは面白い」と思った「名前」を、まとめてみた。

 三国+後漢全部やるととんでもなく長くなりそうなので、今回は蜀の人。

個人的に見る傾向としては、主人公感の蜀、センスの呉、意外と地味な魏、という感想。そのほか、袁紹とかもすごく面白いよ。

主役になるべくしてなった蜀の人たち

劉備が建国した蜀漢三国志演義の主人公勢。

なぜ彼らが主人公なのか、という理由はいくつもあるけれど…

「名前」を見ればもう一目瞭然。

蜀のおなじみの4人の名前を見るだけで、「これはもう主人公だわ」と納得できる。

  劉備 玄徳

  関羽 雲長

  張飛 翼徳

  趙雲 子龍

もうお分かりだと思う。

「徳を備える」主君の下に、「羽、雲、翼、飛、龍」という、空や飛翔に関する名前を持った武将が並ぶ。これはもう主人公。まさに主人公。モータルコンバットのShujinkoは主人公じゃないから気を付けてくれ。

ちなみに張飛の本当の字は「益徳」なんだけど、三国志演義では「翼徳」に改められている。理由はもう、見ての通り。主人公勢の名前の意味を揃えたくなるのは作家の性。それに、趙雲よりも書く上の張飛が、名前的に趙雲にまけるわけにはいかない。これはもう、作劇上、仕方ない。

そして、彼らを補佐する軍師の異名は臥龍諸葛亮)と鳳雛ホウ統。できすぎている!まったく、やりすぎだぞ、羅貫中

蜀の五虎将軍の残りの二人の名前もまた見事なもの。

  黄忠 漢升

  馬超 孟起

黄忠は完全に主人公勢の名前。なんといっても蜀の建国の大義名分である「漢への忠義」を完全に体現している。これはもう、五虎将軍に入れない理由がない。派手な活躍シーンを入れない理由がない。一方で、不運の復讐鬼馬超さんは「蜀っぽいネーミング」ではない。この辺も、作中で蜀の臣下としての活躍がないことの隠喩になっていてとても良い(よくないけど!)。でも、「(乗り越える」と「(始まる」で、「俺を始まりとして、超えていけ」的な意味にも取れる。ゲーム的に言うと、序盤で死んでしまう歴戦の強者的なポジションになりそうだ(実際にそういう立ち位置でもある)。

そして、蜀漢の名前」として絶対に外すことができないのが、この二人。

  劉封 (字は伝わっていない)

  劉禅 公嗣

劉封って誰やねん、な人も多いと思うけど、彼は劉禅が生まれる直前に、劉備が養子として迎えた人。なんで後継ぎが誕生する直前に養子縁組なんかするんだよ!と突っ込みたくなるが…。作中でもきっちり突っ込まれている。後継者問題を新たに生みだすようなものだしね。

しかし、この二人の兄弟は、二人でなければならない理由がある。

史実なので理由も何もないけど、三国志演義の作者としては最高に「おいしい!」と思う理由がある。

この二人の「名」を並べてみると、「封禅(ほうぜん」になるからだ。

封禅というのは、中華皇帝が天と地と人に対して自らの即位を知らせる、いわば戴冠式である。これを行うことが皇帝の条件といえる。

つまり…

この二人の名前によって、「蜀漢が正当な漢の後継である」ことを内外に示したということ。そしてもう一つ、ものすごく重要なことは、劉備が「俺は皇帝になるぜ…?」と宣言したに等しいこと。つまり、「皇帝になるべくしてなったんですよ」という小説的なギミックと、「稀代の梟雄の野心の発露」という史実的な意味を併せ持った非常に良くできたネーミングなのだ!

そして、この「封禅」を構成する兄弟のうち、兄が、死ぬ。他でもない、父親の命令によって、殺される。おそらくは後継者問題を解決するために。

小説的に見れば、ここで劉備は自らの未来を自分で摘み取ってしまったということになる。

「封禅」を自ら壊した劉備は、程なくして道半ばで倒れる。しかもその時、「息子が頼りなければ君が取って代わってくれ」と諸葛亮に遺言をして。劉備の字に使われた文字、「(暗い、ほのかに」は、彼と彼の国の未来を暗示していたのかもしれない。

となった劉禅は何を思っただろうか。劉禅が何を思ったのか、どういう人物だったのかはあまり語られていない。暗愚、無能といった評判が先行して、彼個人のことはうかがい知れない。彼は40年もの間、平和に蜀の地を統治していたというのに(魏の皇帝は平均5年、孫権でさえ23年)。劉禅はどういう人だったのだろうか。そして、伝わっていない劉封の字は、どういう意味の漢字だったのだろうか。

 

…と、いう感じに、名前の漢字を見るだけでロマンに浸ることができる。

他の国の武将たちにはあまり見られない、こういう「楽しいこじつけ」がはかどるのも蜀の人々の特徴だ。これはもう主役にするしかないよね。

 

で、最後はこの人。

  姜維 伯約

維と約で、「約束をつなぐ」という意味になり、これもまた、あまりのできすぎっぷりに拍手を送りたくなるのだ。

 

 

 

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ちなみにみんな大好き魏延さんは、「延」と「長」で同じ意味になるという割と一般的な…悪く言うとあんまり面白みのないかんじなので…すまない!(そんなに長いんなら諸葛亮の祈祷の邪魔するなよ!と突っ込みたくなるが!)

同じく「同義語型」で有名な人では張遼がいる。魏延は「延長」、張遼は「遼遠」。

字の「文」や「公」などはなんというか、日本で言うところの「よしお」「わるお」「ふつお」の「お」に相当するので、「意味」としては考えない。「伯」や「孟」は長男をあらわす文字なので、これも同様に。

エクスカリバーは本当に、本当にすごいんだという話

先日、「刀の鞘職人」に会った。

刀の鞘を作る職人。ちゃんと実在する。

考えてみれば当たり前だ。刀鍛冶がいて、研ぎ師がいて、それで刀が出来上がるわけじゃない。鍔職人もいるだろうし、目釘を作る人も多分いるだろう。刀身本体は長持ちしたとしても、それ以外は消耗品である。だから刀鍛冶よりも研ぎ師そのほか、周辺の職人のほうが仕事は多いくらいだったかもしれない。

それで、鞘である。

鞘に向いているのは朴(ホウ)の木で、これは緑がかった柔らかい木で、触るとしっとりとした触感がある。英名のポプラの方が有名だろうか。ホームセンターでも見かける、その世界ではメジャーな木だ。

刀の鞘というと漆塗りの鞘をイメージすると思うが、刀を保存するときには漆塗りでなく、無塗装の鞘にするらしい。無塗装だと湿度が適度に保たれ、刀が錆びにくいという。

そう、刀の天敵は錆だ。

ハガネの包丁やナイフを使ったことがある人はわかると思うけれど、とにかく錆びる。あっという間に錆びる。少しでも気を抜いたら錆びる。アウトドアナイフなら黒錆び加工なんかで対応できるけど、包丁や刀となるとそうはいかない。ダイレクトに水に接するのが包丁と刀だからだ。肉も魚も人体も、70%くらいは水であるからだ。

桜田門外の変で、その日天候が雪だったために井伊直弼を護衛していた侍は刀に袋をかぶせており、それによって応戦に手間取った…という話もある。護衛任務の者が袋をかけるほどに刀の湿度管理は大変だったわけだ。

剣は、水に弱い。

今でこそ俺たちは錆びない金属に囲まれているが、それ以前は武器に水分は厳禁であったはずだ。何せ管理が面倒だ。面倒なことは避ける。桜田門外の変の護衛のように。

そう考えると、すごいのはエクスカリバーだ。

アーサー王の剣。

エクスカリバーは本当に、すごい。

なぜなら、エクスカリバーは水の中から出てきた剣だからだ。

湖の中から、剣がぬっと出てくる。

たったこれだけの、ともすれば間抜けなシーンだが…このシーンは要するに「この剣は濡らしても全く問題ないんですよ?」というシーンなのではないか!?湖の乙女が授けたこのエクスカリバーは、その登場場面から全力で「これすごいよ?」と宣言しているのでは!?

エクスカリバーというと、岩に刺さった剣と湖の中から出てきた剣の二つの話があって混乱するのだが(二つは別物だとか、鍛えなおされたんだという説もある)、「真のエクスカリバー」とされるのは、湖の中から出てきた方だ。これは、「どっちがすごいか」という点からみると、とても単純に納得できる。

岩に突き刺さった剣よりも、湖の中から出てきた剣のほうがすごい。

剣を岩に刺す、というのは、わりとけっこう可能性がある現実的な光景だ。

しかし当時、「水に濡れても錆びない剣」というのは、それこそ魔法の剣だろう。

常識的に考えてあり得ない。筋力自慢の猛者ならば岩に剣は突き刺せるかもしれない。しかし、剣を錆びさせないことは誰にもできない(当時は)。

「水から出てきた」

それだけで圧倒的な魔力を感じさせただろう。登場シーン一発で「これはやべぇぜ…」と読者を慄かせている!(と思う)

しかもアーサー王物語の舞台はイングランド。霧の国だ。

霧の国の聖剣として、エクスカリバーに最もふさわしい属性は水ということだろう。水は金属に決してなじまない。金属は電気を纏い、炎もその身に宿すだろう。しかし水とは決して交わらない。だがエクスカリバーは水から生まれている。当時、水に触れても錆びない金属は黄金だけだったろう。エクスカリバーは黄金と同じ性質を持ち、なおかつ岩に突き刺さるほどの硬度を持つ。魔力を宿した剣として、この上ない性質を持っている。極めて現実的な背景を持つ魔剣なのではないか。

そう考えると、「金の斧」の話も似たような背景があったのかもしれないと思う。

木こりが斧を水の中に落とすというのは大失態のはずだ。スマホをトイレに落としたのと同じくらいの失態。修理に何日も待たなければならない。そのあいだ仕事はできないのだ。現代人と同じく、水没は生死にかかわる大問題。これはまずい。

しかし正直者のナイスガイは、「水に落ちても錆びない」金の斧を無事に獲得する。これはすごい。まさに神さまからの贈り物だ。正直者がiPhoneを水没させたら、ジョブズ神が流暢にプレゼンしながら防水仕様iPhoneをくれたようなものだ。これこそまさに最高の体験。それに対して嘘つき野郎は修理費を自費で払わねばならない。ジョブズ神も沈黙だ。全くざまぁみやがれといったところだぜ。

話は逸れたが、「水に濡れる魔剣」の話は他にも例がある。

東洋の水の国、我らが日本の妖刀・村雨だ。

南総里見八犬伝に登場するこの妖刀は、鞘から払えば霧が立ち込め、振れば剣先から露がほとばしり血糊を瞬時に洗い落とし切れ味を維持するという、抜けば玉散る魔性の剣である。

刀の手入れは昔も今も大変のはずだ。しかし村雨はそのような現実とは無縁の魔力を帯びている。突拍子もない演出より、しみじみとすごさを実感できる物のほうが「冷静に考えたらすごい」感がある。iPhoneに防水機能がつくばかりか、自動消毒機能が搭載されているようなものだ。…そこまでいくとちょっとガラパゴス感があるが。

霧の国の聖剣エクスカリバーと、水の国の妖刀村雨。両者の気候条件から考えると、「ありえないほどすごい剣」を描写するのに、水属性以上のものはなかったかもしれない。

しかもエクスカリバーの鞘には回復能力があるので、これもまた水属性っぽさに拍車をかけている。

今、水属性が熱い。俺の中で。

「的を射る」はあんまり「的を得て」いないんじゃないかと思う

「的を得る」と発言したら、光の速さで「的は射るもので、得るものではない」というコメントがキミに届く。

「的を得る」の誤用を正すのはお手軽なマウンティング方法になっているからかもしれない。気軽に「奴は無知だぜ」と宣言することができるからかも。

しかし、果たして「的を得る」のは間違っているのか、ずっとモヤモヤしている。いや、モヤモヤじゃなく。俺は間違ってないと思っている。全然いいと思っている。大いに使うべきとすら思っている!

以下に、その理由を3つ挙げてみる。多分、いろんな人が言ってるのと被るとは思うけど。

元ネタからして「得る」である

「的に矢を当てるという慣用表現」の元ネタは、あの男である。俺たちの誰もが知るあの男。弓術に人間の真実を見た男。弓術こそがエグゼクティブのやるべき武術であると確信を得た男。歴史に燦然とその名を残す…というかむしろ歴史を書き残した最初期の男、善なる人間とは何かを今もって俺たちに教え続けている不滅の男、今も数十億人に影響を及ぼし続けている偉大なるあの男が元ネタである。

孔丘先生です。孔子その人。

「なんでわるいことしちゃいけないの?」という素朴な疑問に、

「神が見ているからだよ」と答えるのでなく「自分がいやなことは他人にもしちゃいけないからだよ」と答えるのは、間違いなく孔丘先生の影響。

その孔丘先生の言葉に、こういうものがある。

 射有似乎君子 失諸正鵠 反求諸其身

弓術は君子の道に似ている。的の真ん中を外しても、それは誰のせいにもできない。自分の中に原因を求めるしかないのだ。(中庸 第十四章)

同様のことを、孔子の弟子の弟子の弟子…?である孟子も言っている。「仁ってのは弓術と同じだよ。隣の人が自分よりうまく当てたからってその人を恨むわけにはいかない。自分が精進しなければね」

意外に思われるかもしれないが、弓術は当時の儒者にとって必須だった。孔子の開いていた塾でも、弓術は必須科目だった。日本の武士が「弓馬の道」として弓術を尊んだのも、根底には儒学の影響があるのかもしれない。弓道は元をたどれば孔子に至るんじゃないか。

で、先ほどの孔丘先生のお言葉。「失諸正鵠」というのは、「的を外す」という意味。正鵠(せいこく)というのは、弓道の的のど真ん中の赤い丸のこと。孔丘先生は「正鵠を『失った』からといって…」と言っている。「失う」の反対語は「得る」である。だから、「正鵠を得る」の言葉がある。

当を得る、的を得る/射る、正鵠を得る、これは全部「あたった」という表現であり、その根底にいる孔丘先生が「正鵠を失したから~」と言ってるので別に「得る」でも問題ないと思うのである。

的中範囲の問題

「的を射る」は、あんまり「当たった感」がないと思う理由は、その的中範囲である。いや、これは俺の単なる感想になるのかもしれないが。

まず、先ほどの孔丘先生の言。孔丘先生は非常に要求レベルが高い。「正鵠を失した」と言っているように、弓術をやるなら的のど真ん中を狙うべきで、単に的のどこかに当たったというのは褒めるようなことじゃないと先生は言っている。ように感じる。身長2m超えの孔丘先生にそんなことを言われたら平伏するしかない。強い。

「正鵠」が最高得点だとするのなら、「的」は一歩ゆずる。孔丘先生的には十分な反省が必要なレベルだし、弓道の全国大会的にも反省ポイントになるんじゃなかろうか。

サッカーで例えるなら、「正鵠を得る」は「ゴールを決める」であり、「的を射る」は「シュートを打つ」くらいの範囲になるような気がしてくる。「的を射る」その心意気は買うけれども、できればもう少し的中範囲絞って正鵠を得ようぜ、と思う。あくまでも俺の中で、だが!

「的を射る」は的に当てるという意味も含むよ、ということならば、ぜひとも「的を得る」についても「当たりをゲットする」という意味も含めてほしいところ。

言葉の変遷

「まとをいる」よりも「まとをえる」のほうが言いやすい。ただそれだけの理由だ!

いや、それだけなんだけど、無視していいことじゃないと思うんだ。しかも「的を得る」には前述の孔丘先生のお墨付きもあるわけだし。

言葉は、基本的に言いやすいように変化していく。言いにくい表現は失われていくのが言語だ。

それでも正しい言い方、読み方に拘るべきという人ももちろん多いだろうけど、「新しい」を「あらたしい」とはもう誰も読まないことを少しだけ思い出してほしい。

英語的にも

英語話者がアーチェリーをやって的のど真ん中に的中させたら、「I got it !」というかもしれない。これは「やったぜ」くらいの意味だけど、「get」を「当たった」の意味で使う表現が英語にはある。ここの辞書の12番に書いてあるな。

だから「得る」でもいいんじゃねえかな!

という非常に乱暴な意見である。すまない。

そういうわけで

「的を得る」をそんなに目の敵にして攻撃しなくてもいいんじゃないかなぁ。

と思うんだよね。

的を得る/射るの応酬をみるにつけ、俺の脳の中に身長2.2mの孔丘先生が俺の肩に手を置き、圧倒的なオーラを醸し出しつつ「yajulよ、なぜ正鵠を狙わないのだ?」と胃にズシンとくる声で語る姿が再生されてしまうのだ。

 

 

 

 

 

 

メルカリには夢がない

もちろん、比喩ではなく、メルカリには夢が売っていないというそのままの意味で。

 

今朝がたこんな夢を見た。

悪い夢の話をこんなにも詳細に書こうと思ったのは、「悪い夢は人に話せ。いい夢は話すな」と言うし、実際誰かに話した方が気が楽になるから。また、「話す」は「離す」に通じるので、悪い夢は離し、いい夢は離さないという言霊的効果もあるのかもしれない。

いい夢、悪い夢、離す、離さないについて考えている中で、ふと思いついた。

(夢買いのことは、マンガ「応天の門」で知りました。面白いよ)

 こういう「夢買い」の習慣は、「離したがらない」いい夢を、対価を払って自分のものにするというある種、呪術のようなものだったのかもしれないなと。買われるから、離さない。離すなら、相応の対価をいただく。

これは何か、とても面白いことのように思う。

だから、夢を探してみた。

夢を買うために。

夢だけは誰にも奪えない心の翼だからこそ、説得し、交渉し、双方が納得のいく形で契約をし、夢を、買う!

奪えなくとも、夢は買えるッ!

探し物は、夢。見つけにくい夢。鞄の中にも、机の中にもない、見た人の頭の中にあって決して離さない夢。夢の中に行ってる場合じゃない。俺がほしいのはその夢なのだから!

というわけで、俺のバケツリストが更新されて、

「いつか夢を買う」

が、俺の夢の一つになりました。

メルカリには夢の出品は見当たらず、Twitterで「夢 見た」と検索してもヒットするのは離したい悪夢ばかり。

家族友人のいい夢はなるべく買いたくない。彼/彼女の夢はそのままにしておきたい。

となると、これは、人生の中でもトップクラスに難しい買い物になるのではなだろうか。「この夢買えよ」といわれるものではない。売りつけられるものではない。あくまでも、自分が探し、求め、見つけ、心からほしいと思うものを買うのだ。これほど幸せな買い物はあるだろうか。

 こんなに買い物が楽しみになったのは久しぶりだ。

いつか、俺は夢を買う。家よりも難易度の高い買い物だ。これは燃える。

…下手をうって猿夢など買わぬよう、注意しなければならないな!

英語の発音や、日本語の滑舌に悩むその前に

自分がどのくらい口を開けているか、鏡の中の人物に問いかけてみましょう。

あぁ自分は滑舌が悪いなぁだとか、「いい声」がほしいなぁだとか、英語の発音が苦手だなぁと思っている人(8割以上の人がそうでしょう!)がまず最初にすべきは、外郎売りでも朗読でもスピーチトレーニングでもフォニックスでもなく、口の開け方です。

滑舌やスピーチトレーニングの本では、まず間違いなく最初に正しい口の開け方が図解されますが、英語の発音に関して「まずは口を大きく開けましょう」と教えているのはなかなか見ません。しかし、それこそが最も大切なこと。

 発音というのは要するに、「口と舌の型」ということです。空手なんかの型稽古と全く同じなわけですね。正しい口の形で、正しい舌の動かし型をすれば絶対に発音できます。そして滑舌というのは、「素早く正しい型ができるか」ということで、要するに筋トレです。

この型稽古と筋トレをやれば、誰だって正しい発音と滑舌は手に入ります。ある程度のクセは残ってしまうにしても。

そういうわけで、発音の型稽古と滑舌の筋トレをするために絶対に必要なのが、「口を大きく開けること」ですね。大きく開けた口がすなわち、型稽古の道場となり、筋トレのフィールドとなるわけです。舌が自由に動かせる範囲が広くなればなるほど、正しい発音が出来るようになる可能性が上がるんです。PCで言えばメモリです。メモリの少ないPCはいかに高性能なCPUを擁していても性能は発揮できないということです。料理で言えば、1人分の煮物を作るよりも6人分を作った方がおいしく、失敗せず出来ますよね。口を開けないで上手く発音するのは、1人分の煮物を何とかしておいしく作ろうと奮闘するような物です。縛りプレイも結構ですが、効率はきわめて悪く、おいしくありません。

腹話術を考えてみるとわかりやすいでしょう。腹話術は高等技術です。なぜ高等技術なのかというと、口の形を制限するからです。口をほぼ使わず、舌と口腔で音を出す。これは相当な縛りプレイです。口を大きく開けないと言うことは、腹話術のように難易度を自ら上げる行為です。初心者がいきなり高等技術に挑んでも、挫折が待ち受けているだけです。

個人的には、口を開けることに抵抗があるのはマンガなんかの影響もあったかなーと思っています。マンガのキャラクターって、あまり口を開けませんよね。開けていたとしても、「そういうキャラ」か、「そういう場面」に限られます。そういうふうに、「あまり口を開けない方がかっこいいのではないか」と静かに刷り込まれ、「口を開けること=顔が崩れること」とどこかで思い込んでしまったのではないかな、と思い返したりします。

そういう呪縛が心のどこかにあるのは、おそらく俺だけではないはずです。口を開けるのが恥ずかしい、歯を見せるのが嫌だ、顔が崩れる気がする…。鏡の前での自分のベストの顔は、口は開けていませんしね。

しかし実際のところ、口を開けるのは魅力的でありこそすれ、不格好ではないです。人の前で口を開けっ放しにしておくわけでなし、喋っているときに口を大きく開けてもなんら問題はありません。「口を開けるのはみっともない」と思ってしまう場面って、「不必要な場面で口を開けている」ときだけですからね。

現代における最高のイケメン、いや伊達男の一人である、マイケル・ファスベンダーを見てみましょう。「誰それ?」という人は「X-men ファーストジェネレーション」でも見てきて下さい。マグニートー役の人です。…アメコミが苦手な人は「SHAME」を。…この人、すばらしいイケメンなのに、キャリアがなかなか刺激的で…素直に万人にお勧めできる作品が少ないのですよね。「SHAME」はセックス依存症の役ですし。いや、名作ですが。あとはアンドロイドとか筋肉ムッキムキのスパルタン野郎とかスティーブ・ジョブズとか。とかく紹介に困る人です。すばらしい役者さんなのですが!X-Menの映画はあまり好みではないですが、この人がかっこいいと言うだけで見る価値を見いだせますからね。

で、このマイケル・ファスベンダーの最高にセクシーな表情が、「歯を見せて笑う」表情な訳ですよ。だいぶ脱線してきていますが、何とか「口を開ける」に関連させて参りたく。彼は「あはは」と笑うのでなく、クッとはにかむというか、犬歯をみせる笑い方をするんですよ。「サメの笑顔」と言われます。彼がサメの笑顔を見せたとき、俺は必ず一時停止してぐっとガッツポーズをするわけですよ。全く、最高だぜ。

……

口を開けるのが恥ずかしいと一瞬でも思ってしまったら、これからはこのファスベンダーの笑顔を思い出すといいでしょう。口を開けても大丈夫だ!かっこいい!ファスベンダーには到底及ばずとも!方向性は間違ってない!と信じる!のが大事!じゃないかなと思う。

 

発音、滑舌の前に、口を大きく開けることを意識して。

口を開けるのに抵抗があるならファスベンダーを。

大げさに口を開けても、周りはそれと気づかない物ですよ。

声も大きくなるし、表情筋を鍛えられてたるみやしわの予防になりますし、脳にも良い影響がありますよ。

気がついたときにでも、実践してみてはいかがでしょうか。

 

 

 

話したいことの1割も話せていない人は、「小説のように話しているから」かもしれない

話したいことを上手く伝えられない。

最高におもしろい体験なのに、言葉にすると全くつまらない。

伝えたいことの1割も語れていない。

どうにかしておもしろさを伝えようといろいろ表現を工夫してみるけれど、やっぱりつまらない。相手のしらける顔に、あるいは博愛の表情に、さらに焦ってしまう。表現が上手くないのは語彙が足りない(と思っている)から、もっと凝った言い回しをしようとしてさらに話が難解に難解に。自分から始めた会話のはずなのに、出口が見えない。

そしてついに、「結局どういう話なの?」という死刑宣告を受け、「いや、そんなたいした話じゃないんだけど…」と屈してしまう。 

そんな経験がある人はたくさんいると思う。

先日、友人にこのような悩みを打ち明けたら、

「どうせあれでしょう。うまいこと言ってやろうとしてるんでしょう?」

「yajulくんは小説を書くように話してるんだよ」

と言われた。

つまり、自分の話は以下のような順序を踏んでいる。

  • 背景描写
  • 伏線
  • クライマックス
  • エピローグ

だから、

「集中して最後まで聞くととってもおもしろい。けれど聞き逃したり、何かわからないことが出てくるとおいて行かれちゃう」

 ということに、なってしまう。

また、最後のエピローグの余韻を重視するので、オチがものすごく説明不足だと。それまでの伏線をちゃんと理解していると、最後のオチで考えて、あぁなるほどとなって最高のエンディングを迎えられるんだけど、残念ながら人は他人の話をそこまで熱心に聞かない。だから俺の話は、話してるほうも話されるほうも不完全燃焼になってしまう。

これは俺だけでなく、小説や映画など長い話を好む人に陥りがちなコミュニケーションの罠ではないかと思う。子供の頃から上記の流れこそが「おはなし」だと信じてきたので、それを「話」にも適用してしまう。storyとconversationは別物であるのに、ついつい混同してしまう。

小説的な話し方がクセになっている人は、「なんだかよくわからないけどすごいね、きみって頭いいんだね」と反応されることが多い。皮肉で言われているのでなく、純粋に言われている。余計につらい。なぜなら、本来はもっとうまく、"小説のように"相手に感動を与えることができるはずだから。そう思ってしまう。

あるいは、コンテキスト(前提となる文脈)が一致する相手とだけ打ち解ける場合もある。よく似たバックグラウンド、よく似た嗜好、同じ体験、前提を共有できている相手と話すのはとっても楽。こういう相手こそ自分が求めていた会話相手なんだ!と思い込んでしまう。そういう相手と話すのは楽だけど、実のところ本当に一致しているわけではないので、ささいな違いが気になって気になって、最終的に大きくこじれることも少なくない。しかも、一歩踏み間違えると、他者を値踏みして「頭がいい/悪い」で人をふるいにかける恐ろしいこともやってしまう。

またさらに、小説的会話術の使い手は聞き役に回った時もうまくいかない。

いや、本当にうまくいかないんだよ。

なぜなら、聞き役に回った時にも「うまい言い回し/鋭い質問」を考えてしまうから。そしてそれに固執してしまうから。

だから、その質問を思いついた時点でその人の中で時間は止まる。

相手がそのあと何を話していたとしても、その「うまい質問」を温めるあまり、続きが耳に入ってこなくなっちゃう。

質疑応答で頓珍漢な質問をする人だとか、それまでの話の中にきちんと答えがあるのに勝ち誇ったように質問をしちゃうとか、そういう風になってしまう。心当たりがありすぎて胸が痛い!

だから、まず、会話と「おはなし」は別のものだと認識を。

そして会話においては、1割伝われば十分と考えて。

思いついたことを全部言っちゃだめ。

ひらめきは生まれるに任せて、忘れるに任せて。

うまいことはまた思いつく。

そう自分に言い聞かせつつ。

 

 

…っていう風に会話するとだめだからな!

ちゃんと「そういうところに気を付けないとね」って言わなきゃだめだ!

 ポエミーにぼかして会話を終わらせるのは美しいけどあんまりよくないぞ!

わかってるのか、俺よ!

頭を良くするための小説の読み方

頭のいい人は小説を読まない。

仕事ができる人は小説にうつつを抜かしたりなんかしない。

そんなイメージは漠然と、ありますね。ネットなんかで話題になる「あたまがよくなる本」はたいてい哲学書、学術書、ビジネス自己啓発…そこに小説が入る余地がないように感じます。小説を読むにしても、古今の名著やトクベツな書に限られる。

そんなイメージが私の脳を支配してしまい、

娯楽小説など読んでいる暇はない…己の真の能力に目覚めたいなら今すぐに○○を…!

なんていう風に思ってしまうものです。それは私だけではないでしょう。実際には、読む人は読むし読まない人は読まないというだけなんですが。そして、「娯楽小説が何より好きな自分はかくのごとく能力を開花させられないのだ…無念…残念…!」と悲劇に酔いながら娯楽に耽溺する「私」を正当化するわけです。

しかしこれはあまりにもよくない。

かといって小説は面白いし大好きだし、離れがたい。

じゃあどうしよう。

要するに、小説を読みながら頭が良くなる/仕事ができるようになる方法があればいいわけです。

 

ここでは、「頭のいい人/仕事のできる人」を、「シミュレーションに長けた人」とします。頭のよさや仕事の能力には様々な尺度がありますが、シミュレーションがしっかりできる人は間違いなく「できる人」の十分条件を満たしているはずですから。

逆に、「できない人」を考えるとわかりやすいかもしれませんね。本番になって「あぁ、あれ持ってくればよかった…」「あれ調べてくればよかった…」と、要するに準備不足に陥りがちな人、チャンスをつかみ損ねる人、スマートに事を運べない人、です。まさに私。

しかし、そんな私も、この方法で本を読むことによって、かなり改善されてきました。おまけに日常の観察力、記憶力が上がり…と、なかなか喜ばしい成果がありました。

 

さて、その方法は、「文章を読んで、その場面を想像すること」です。

あたりまえじゃねーか!

という声がありそうですが、大丈夫です。この想像はあなたの想像の上を行く想像方法です。たぶん。

まず、普段本を読んでいて、どういう想像をしているでしょう?

例えば、「二人は幸せなキスをした」という文章を読んだとして、何を想像していますか?キスをする二人の男女を想像できた人は素晴らしいです。たいていの場合は、「幸せなキスをするというぼんやりしたイメージ」しか想像していません。人によっては、活字を想像して終わりという場合さえあり得ます。これは普段文章を読み慣れている人に多いのですが、想像やイメージよりも活字のほうが迷いなく状況を把握できるので、頭の中でそのまま文字を想像して終わらせるわけです。これは優れた手法ですが、慣れてしまえば流れ作業になるので、あまり脳のパワーを消費しません。30kgダンベルでガッチガチに鍛えたハイパワーなボディを擁しながら普段はせいぜい5kgの重さのものをもって生活してるようなものです。楽ですが、それだけです。

想像力はシミュレーション能力に直結します。そして想像力は観察力とも密接にかかわっています。

さぁ、先入観と慣れを捨てて、改めて「二人は幸せなキスをした」という文章、いや、場面に向き合いましょう。一度この画面から目をそらし、本気で二人のキスを想像するのです。容赦なく、徹底的に。

二人は男女なのか?どういう服装をしている?髪型は?色は?場所は?どちらが背が高い?手はどの位置にある?キスはどちらからした?ソフトキス?ディープキス?どちらがどれだけ首をかしげている?鼻と鼻の位置関係は?目は?

可能な限り詳細に想像するわけです。想像の中で二人から視線を外し、また二人に戻しても、そこで二人は同じようにキスをしていますか?ぼんやりとしたイメージになってはいませんか?明確に、正確に、自信をもって二人の姿を描写できていますか?

これは相当きついです。人によっては、この時点で目の周りから後頭部にかけてジーンとしびれてきているはずです。知能テストに全力で取り組んだ時のような刺激が脳に与えられているわけです。

さて、想像はここに終わりません。

次は二人のうち、どちらかの中に入っていきましょう。中に入り、感覚を共有するわけです。

まずは指先に集中し、相手の背中に手をまわします。えろいですね。でも大丈夫。幸せなキスなのですから。えろくはありません。人間の手というのは、神に与えられた超高性能センサーです。人間の手は、触れた瞬間に対象の温度、密度、重さ、材質、滑らかさ、大きさを把握することができます。熟練の職人さんと全く同じ機能があなたの手にも備わっているのですから。

触ってみましたか?実際に手をわきわきさせても良いです。むしろしましょう。怪しいですか?大丈夫ですよ。きっと。

せっかくの幸せなキスなのですから、おっかなびっくり触れるのではなく、愛しい相手の肌を感じましょう。どうせ想像なんですから、服は脱いでもらいましょう。他人の肌というのは、なかなか触れる機会がない物体の一つです。これまでの人生経験を余すところなくフル回転させ、肌の感触を想像してください。

骨の位置は?皮下脂肪はどのくらい?筋肉はついている?内臓を感じる?体温は?吹き出物はある?湿っている?乾いている?触った瞬間の反応は?手の位置を変えるとどうなる?

そろそろ問題に気が付き始めているはずです。

そう、「そんなに細かく意識して触ったことがなかった」という情報不足です。キスの相手が筋肉ほとばしるマッチョガイであったとしたら、なかなか感触を想像するのは難しい。手近なマッチョに頼んで筋肉の感触を確かめさせてもらう必要があるかもしれません。また、二人の服装を想像するとき、服飾に対しての理解の浅さを痛感するかもしれません。

こういう経験をしていくと、普段の観察力がめきめきと上がっていくわけです。日々、マッチョ…マッチョはいないのか…と目を光らせて生活することになり、ついにマッチョを見つけたとき、マッチョの生態を余すところなく記憶することになるでしょう。自ら求めた知識は、必ず自分の血肉になるのです。

空間記憶は観察力と不可分ですからね。

ジョジョ4部に登場する岸部露伴先生の「味も見ておこう」というのは圧倒的に正しいのです。いやさすがに本当に食べるまではいかずとも、「食べたらどうなのか」という探求心は想像力を高める最高のエッセンスでしょう。

さて、再び二人のところに戻ります。相変わらずキスをしていますね。さっき想像したのと同じ二人ですか?大丈夫ですか?すでに相当なパワーを消費しているでしょうが、もう少しです。大丈夫ですね?大丈夫ですよね。

次は嗅覚です。今までと比べるととても易しいですね。キスする相手の匂いを想像するだけですから。

しかし、やはりここも容赦なく想像していきます。

人間は生物ですから、いい匂いばかりではありません。「幸せなキス」というイメージに引かれて、自分に都合のいい匂いを想像してしまってはいませんか。ふわっとしたいい感じのニオイ…などという想像は明日にしましょう。今は、今この時ばかりは、キスをしている相手の生身の肉体と対峙すべき時です。

幸せなキスをしている二人は、その前まで何をしていましたか?風呂上がりでいきなり幸せなキスに至るという場面は少ないでしょう。二人はそれまでに何らかの行動をしていて、その行動の結果、幸せなキスをする運びとなったわけですね。つまり、シャンプーやリンスの匂い以外の香りもあるはずです。要するに汗の匂いです。だんだんと危険な領域に入ってきました。まだ大丈夫です。

汗の匂いは個人差があります。他人の汗のにおいをどのくらい想像できますか?クサい?いやいや、今は幸せなキスをしているのです。「客観的に言えばそりゃクサいけど、愛する人なんだから全く気にならない」という境地で向き合うのです。二人がそれまで怪物とバトルをしていたのなら、汗の匂いがしないなんてことはあり得ないですね。

汗だけではありません。残念ながら、口臭すらも徹底的に想像していきます。相当にハードになってきましたが、きっちりと口臭予防をしていただいているという想像でも全く問題はないです。では、どういう口臭予防をやっているんでしょう?そこまで掘り下げていきましょう。口臭に気を遣いすぎて逆にミントの匂いがきつい、とか、こいつキスする気満々だったんじゃねーのか疑惑という場合もありますね。しかしあくまで幸せなキスですから、相手の落ち度は幸せのパワーで中和していきましょう。想像後の私たちの心身の健康のために。

そして次は音、味…と想像のハンマーをふるっていくわけですが、さすがに全部書いていくと大変な長さになってしまいますね。

もちろん、何でもかんでもここまで想像しなきゃいけないというわけではないです。小説の文章一つひとつに対してこれをやっていくと、1冊読むのに半年かかりかねません。それはそれで素晴らしい読書体験だとは思いますが、苦痛が勝るはずです。小説の中の印象的なシーンから始めていくといいですね。

想像をするとき、カメラは固定ではありません。360度、あらゆる角度から想像していきます。想像の二人の向こう側に回ってみて、矛盾なく成立するか試してみましょう。

それと、まずこれは最初のうちは全然できません。想像を固定化させるのは想像以上のパワーが必要です。そもそも、昨日の夕食が何だったかすらあやしい我々には、それだけハードルが高いのです。ですから、いきなり完璧を目指すのでなく、たまにトライしてみる、くらいの気持ちでいたほうがいいですね。

前述のように、この想像をやると、まず自分の知識不足を痛感します。そして、自分がどれほど「なんとなくのイメージ」に助けられてきたのか、あるいは誤魔化されてきたのかを知ることになります。この衝撃的な気付きは、普段どのくらいの知識を見落としてきたのかのバロメータともなります。そこに気づいたあなたは、世界の見え方が変わるかもしれません。

私はこれを続けたおかげで、人の顔を見るのが苦にならなくなりました。以前は人の顔を見るのが恥ずかしいやら辛いやらで難しかったのですが、「この人のような人物を再現するためには今ここではっきりと見ておかねば…」と、恥とか言ってる場合じゃねえという危機感を持てるようになりましたから。

お気に入りの場面を深く味わうためにも、空間記憶力を拡充するためにも、シミュレーション力を上げるためにも、岸部露伴の境地に入門するためにも、この想像、試してみてはいかがでしょうか。