爽やかなハッピーエンドとして見る映画「ミッドサマー」

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( Midsommar | A24 )

 

映画「ミッドサマー」を見た。

いやぁ、すごい映画だった。

「北欧スウェーデンの小さな共同体を舞台とした閉鎖環境ホラー」

「随所にルーン文字が登場し、舞台装置の一つとなっている」

という情報だけで見に行ったのだけれども…。

閉鎖環境モノの常として、それはまぁ、おおよその展開は予想できていたが…

ショックはでかかったね!想像の上を行く!

うむ!

「北欧」というワードだけで見に行こうと思ったのなら、それはやめておいた方がいい。

ものすごいグロ描写が出てくるからだ。中盤差し掛かりのところで…近年まれにみるというか、ホラー映画でもそこまでやらないよ!?という見せ方をしてくるので、覚悟は必要だぜ。

しかもホラー映画のように薄暗い中で行われるのではない。真っ白な日差しの中で、暖かい眼差しとともに行われるのだ。

うーん。すごいな!

 

で、これからその衝撃が冷めないうちに感想を書いていこうと思うのが…

多分結構なネタバレは含むと思う。いや含むな!大量に!

もし、グロやショッキングなシーンにもめげず「それでもこの名作を見よう」と思った人は、見てから読んでほしい。(あ、大きな音で驚かすシーンはないよ)

そう、端的に言ってこの映画は名作だと思っている。

そして、これはハッピーエンドで終わる。

皮肉じゃなく、本当にハッピーエンドだ。

…と、俺は思う。

ともかく、見てよかった!

 

 

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あまりにも衝撃が大きかったので、エンドロールの暗闇の中ノートに走り書きしたのがこちら。よ、読めない部分もあるが!

暗闇の中でメモるには万年筆は向いてないな…。どこが筆記面かわからない。手で触るとインクが付くしな…。仕方ないので、わずかな光をペン先に反射させてだいたいアタリを付けて書いたのだが。

 

それは置いといて。

 

この映画はハッピーエンドだと、先に書いた。

それは最後に、主人公の笑顔で終わるから…というのもあるんだけど、この映画には明確な悪人は誰も登場しないというのもある。

こういった閉鎖環境モノでは、「ムラビトたちの論理」が「悪」として認識されがちだ。

それは例えば未開の地だったり、どうしようもない田舎者だったり、とんでもないカルト教団だったり、あるいは金持ちたちのサロン、秘密結社などなど…。

その枠内の論理が外の世界の倫理を無視し、巻き込まれる人は悲惨な目にあう。

この映画も大枠ではそれだ。とっても「野蛮な」風習を持つコミュニティに、「文明人」が巻き込まれ、命を落とす。

しかもこの映画は、凡百のホラー映画では太刀打ちできないほどの、全編ショックシーンと言えるほどの巧みな演出が観衆の脳の中を侵略する。踊っているだけで怖い。飲み物を渡されるだけで怖い。笑顔を向けられるだけで怖い。しかもそれが白昼の日差しの中で。(夜のシーンはほぼない。みんな夜は寝る村だからだ)

しかしよくよく考えてみると、行われていること自体は全部「善き事」だよなぁと思う。

72歳以上の老人が自殺するのは、作中で語られる通り。名誉と尊厳をもって命のサイクルを回すのである。やり方はショッキングという言葉では言い表せないほどだが…。

たしかに残酷極まるけど、じゃあ俺たちの国にあった切腹はどうなんだろう、とちょっと考える。切腹は何となく美しいイメージだけど「腹を自ら裂いて臓物を掴みだし、しばらくその状態で耐えてからやっと首を切り落とされる」という、やっていることは劇中のアレとあんまり変わらんのではないか?と思うわけだよ。

あと、コニーだったかな、ロンドンから来た小柄な女の子。あの子が「処刑」された方法も、あれはもしかすると…残酷なことではないのではないか?

あれは、ヴァイキング儀礼的な処刑法、「血の鷲」だと思う。要するに切腹と同じ、名誉ある処刑方法だ。どこの国にも貴人を殺す作法と言うのがあって、中国なら帯で首を絞める、モンゴルなら皮袋に入れて馬で踏み殺す、などがある(どれもこれも絶対嫌だが)。

血の鷲についてはwikipediaを参照してもらうとして(表現がグロいからね!)、コニーの遺体は貶められることなく、花で飾られ、両目にも花を挿されていた。あれは俺は「彼女の見る景色が花で満たされていますように」という敬意表現だったのではないかと見ている。

明らかな「罪人」であるマークやジョシュはそれはまぁ…それなりに殺され、遺体もそれなりに扱われるわけだが、コニーの場合はただ帰ろうとしただけなので、やはり敬意をもって生贄として遇されただけなのではないか。

 

…まぁ、もちろん俺もこういう目にあうのは絶対に嫌だし、上映中も頭を抱えたりして非常にキツかったので、あれらの「善き事」が良いことだとは思わない。

 

が、理はあると思うのだ。

 

あれらの「善き事」を見て、「うっわ、バカじゃないの、早く滅びろよ」と思うのは簡単だけど、簡単に切断処理するのは、それもまた嫌な感じがするのだ。

さっさと「俺の常識とは合わない、はいサヨウナラ」と切断してしまうのは、それはむしろ「(そういう人が想定する)彼ら」と何も変わらないことになりはしないか?

そういう意味で、あのコミュニティは「俺たち」の社会と相同的ですらあるのでは?と思う。

 

この映画で象徴的なのが、リズムと歌である。

あ、そうそう、劇中でもヨウヒッコ(タールハルパ?)が出てきてたね!あの音を聞いてすぐに「おぉ、来たか!」と思ったよ!

そう、この映画を象徴するものはリズムと歌。ハッと息を吐いたりする、原始のリズム。

見る前までは「ルーン文字でこの映画を読み解いてくれるぜ…!」とか息巻いてたんだけど、いや、違った。

ルーン文字は舞台装置というか、キャラクターを彩る記号でしかなくて、それよりもリズムと歌のほうが重要だ。

 

リズムと歌は、一人で行うものではない。

この映画におけるそれもそうであるように、「みんなで共有する体験」がリズムと歌なのだ。同じ歌を歌うとき、感情もまた共有される。古くから田植え歌があるように、意識、目的、魂の共有に歌は必須だ。

この映画で、主人公のダニーは歌と踊りを通じて感情をどんどん村人と共有していく。恋人のクリスチャンと意思の疎通がうまくいかなかったのと対照的だ。

そしてその共有が極まった時、彼女は魂の嗚咽をも共有してもらうことになる。それは彼女が完全に共同体の家族となった瞬間だった。

あの嗚咽のシーンを見たならば、彼女の最後の選択にもはや驚きはないだろう。いわば「最大のショックシーン」として用意されるべきラストのあの燃えるシーンは、観客である俺たちも「うん、そうなるよね」と淡々と納得して見ることになるのだ。彼女の嗚咽と少なからず同調しているがゆえに。クリスチャンには同情もするけれど、でもまぁ、仕方ないよね。と非常にドライな目で見ている自分に気づく。

 

そしてそのクリスチャン問題。

まぁぶっちゃけ、クリスチャンはダメ男だ。

でも、果たしてクリスチャンはダメ男と断じるだけでいいのだろうか?

映画冒頭で、ダニーが「(男から見て)面倒くさい女」と表現されるシーンが出てくる。そして、クリスチャンもまた「頼りがいのない男」とも描写される。

ダニーはクリスチャンを愛している。クリスチャンも愛しているが、重さを感じてもいる。クリスチャンはダニーに冷めているのではなく、もうちょっとそれより前の段階の、「俺が悪いんだ」の状態だ。改善の余地はあるが…正直だいぶ難しそうではある。

パートナーが「謝るよ」とか「悪かったよ」としか言わなくなると危険信号だからな!

まぁそういう状態で旅行に行ったのだから、そりゃまぁ二人にとってのハッピーエンドにはならないな、とだれしも予想はできるはず。

 

それにマヤちゃんはかわいいからね…。落ちるのも仕方ないね…。

 

でももしかすると、マヤちゃんの恋の魔法(物理)に陥落したクリスチャンが「ダメ男」と描写されるのはもしかすると製作者の良心であったのかもしれない。

どんなイケメンでも、理想の男でも、恋人と別れるときは別れるものだ。それはもう、仕方がない。そういうことは起こるのだ。人間は完璧超人ではないのだから。

だからクリスチャンを「ダメ男」と描くことは救いでもある。完璧なイケメンがあんなことになったら、だれも救われなさすぎるから。「ダメ男がああなるのも、まぁ自業自得だしな」という救いが俺たちに提供されているのだ。

しかしクリスチャンは結構がんばってもいる。いやまぁだいぶダメだけど。でもマヤちゃんになびいたのは薬の力であり、マヤちゃんの恋の魔法(物理)のせいでもあり、クリスチャン自身が人生に迷っていたこと、ダニーの不安定な状況、友人の相次ぐ失踪などが重なってのことだ。

おそらく、普段のクリスチャンは「いい男」なのであったろう。しかし状況がダメすぎた。そこにマヤちゃんの恋の魔法(物理)が炸裂したのだから、バッドステータス状態に追い打ちをかけられたようなものだ。

すまん、恋の魔法(物理)という言い回しが気に入ってしまってな!

 

でも、女性側の視点からすると、やはりクリスチャンはダメである。

「いてほしいときにいない」という描写が何度もされるように、やはり根本的なところで、クリスチャンとダニーは合わないのだ。ダニーのほうが無理をして、頑張って合わせよう合わせようとしていたのだろうと予想もできる。そんな中で両親と妹のことがあり、彼氏との微妙な距離感があり、迷っており、勉強もうまくいっておらず、突然の旅行で不安定になっているときに、クリスチャンのアレを見てしまったらもうたまらない。

だから最後のダニーのあの選択、そしてあの笑顔は必然のものだ。

そして必然であるクリスチャンとの別れと並行して、彼女が失われた家族を取り戻すストーリーも進んでいく。

歌と踊りによって共同体に家族として受け入れられ、嗚咽を共有し、そして両親までもが帰ってくる。自分を愛してくれる男性もいる。なによりも、この村ではみんなが感情を共有してくれるのだ。

嗚咽も、喘ぎ声までもが歌として、リズムとして共有される。悲しいときは思い切り泣く。それを許してくれるどころか、みんな一体になってくれる。

正直、嗚咽のシーンは俺も混ざりたいと思ってしまいましたよ!

…喘ぎ声のシーンも…。なんか…すまん…!

 

この村は、実は俺たちの社会と相同的なのでは、と先に書いたけれども、この嗚咽(と喘ぎ声)の共有のシーンなどはまさにそれだ。

こんなことを言うのも陳腐だけれども…SNSはまさに感情の共有なのではないだろうか?

クリスチャンとマヤちゃんたちが嬌声を共有している中、別の場所でダニーが嗚咽を共有している。

この共有の場の分離は、実にSNS的だ。

あるところではみんながめちゃくちゃ怒っていて、別の場ではめちゃくちゃ喜んでいる。同じものを見ているのに、それぞれ分離して感情が共有されている

そして、ホルガ村の場合は村の中で統一的な「善き事」が存在する分、むしろこっちの社会よりも、より「幸せ」なのではないかと思うのだ。

 

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ホルガ村では、彼女の悲しみを全員が共有してくれるのである。

それは「気持ち悪い」とも思うだろうが、本人にとっては紛れもなく救いであり、幸せなことだろうと思う。

 

いやぁ、すごい映画だった。

 

そうそう、最後にルーン文字について触れておこう!

この作品におけるルーン文字と神話は監督さんが専門家と相談しながら、独自の解釈でキャラクターに記号的に当てはめたそうなので、ルーン文字の意味とかルーン魔術とかはそんな厳密に見ないほうがいい気がしている。

 

特に、魔術的なルーンね。

この映画のあまりのショッキングさに、不吉な魔術と結びつけたくなるけれども…

ホルガ村の人たちは善意で行動しているし、その信仰もやはり善なるものが基本になっているので、邪悪なルーンなどはない。むしろあったら世界観がおかしくなる。

ルーン文字についてはあくまでも舞台設定として、そんなに固執するようなものではないような気もする。

ただ、ルーン文字である以上は意味を持つわけなので、知っているとより楽しめる…のは多分そうだと思う。

 

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例えばこのルーン。

「お食事会」のテーブルがこれだったね!

これはOthila。オーザルとかオシラとかオセルとか読まれるけど。

これは分離や遺産という意味だ。

ダニーにとっては、これまでの社会と分離すること、また旧来の知人友人彼氏との分離を意味するともとれる。

そしてもちろん食事会の主賓であるあの二人の現世からの分離。

そして、このOthilaはサイクルルーンの一つでもあるので、巡りめぐる命や人生のなかで訪れる分離の時、と解釈もできる。

先祖たちからの大いなる遺産を受け取ってきたのがホルガ村でもある。そして遺産を正しく残そうともしている。

 

分離は悪いことばかりではない。

そして、本人にとっての幸せが、世間一般に認められる「幸せ」と乖離していることも、多々あるものだ。

この映画は、そういうことに気づかせてくれる。

ショッキングすぎる映像と、恋の魔法(物理)とともに。