ラブライブのパネルの問題は記号的表現の認識の違いが原因だと思う

ラブライブ!サンシャイン!!」キャラクター・高海千歌が沼津のJAとコラボしたパネルが「性的である」として炎上した件について。

…と言うか、宇崎ちゃんのポスターとか、それ以前にもあった、いわゆる「公共の場に不適切」とされるアニメマンガ的な表現にかかるいろんな問題について、ちょっと考えを書いてみたいと思う。

思いついたときに書かないと忘れてしまうからね…!

 

「あの問題」には二つの視点がある

「あの問題」を一体なんと表現すればいいのか、ちょっとなかなかうまい表現が見つからないのだけれど…。

「不適切な公共掲示の問題」とか書いてもそれはそれで何か違う気がする。

ともあれ、まぁみんなご存じの「あの問題」(とそれにかかわる周辺の問題)には、実は視点が二つあるのがこじれる原因なのではないか、と思う。

「あの問題」にはフェミニズムがついて回ると思われるかもしれないが、おそらくフェミニズムはあんまり関係ないんじゃないかと思う。

「あの問題」はとかく「フェミだ」「お気持ちだ」「まなざしだ」とか、「性的搾取だ」「煽情的だ」「差別だ」と、攻撃力の高い言葉が飛び交う。それに釣られて、何となく「あの問題」を扱うには棘付き肩パットとかモヒカンとかスパイクアーマーとか装備して世紀末デスロードテンションで挑まねばならないような錯覚を起こしてしまう。

しかしそこまでせずとも、「あの問題」を解釈することは可能だと思う。そう信じさせてくれ。

 

で、ひとまず攻撃力の高いテンションからは少し遠ざかって、「アニメマンガ的なイラストを、人はどう見るのか」を考えてみたい。

最終的には、

「あの問題」を見る視点はおそらく二つある、その認識の違いが摩擦を起こしているのであって、どっちかを攻撃して撃退すれば解決と言う問題じゃない

という話をしようと思うのだ。

 

共通認識があるから、キャラクターたりえる

characterという英語は、「特徴」という意味のギリシャ語「kharakter」に由来する。また、kharakterから派生したkharasso(刻む)の意味も含むので、characterは「記号・特徴」のほかに「性質、その人の身分、刻印、形質、文字」など様々な意味をもつ。

原義を考えれば何となくニュアンスはわかると思う。「それそのものズバリではないけれど、それを表すもの」という言葉だ。イラストで描かれた人物や動物を「キャラクター」というのも、「いろんな特徴、要素を集めて形にしたもの」だからキャラクターなのだろう。

アニメやマンガに限らず、彫刻でも油彩でもなんでもそうだけど、「何かを創造しよう」と考えたとき、人間はまずはこの記号を想起するところから始める。

例えば、「かわいい女の子」「強いロボ」「世紀末の男」を描こうとしたら、現実にいる美人やグッとくるメカだとかヒューマンガス様をモデルにして、その要素を分解し、「俺はどの要素をかわいい/強い/世紀末と感じているのか」を整理する。

そしてその要素(記号)を再構成して、「キャラクター」を生み出すというわけだ。

トゲがあると強そうだ。ミニスカートはかわいい、青い色は男の子っぽい、バイクで荒野を疾走させよう、ロックンロールのアヤトラにしよう、など、自分の脳の中にある材料を使って描いていく。

そしてここで欠かせないのは、そのイメージは、その文化圏においてある程度みんなに共通している認識である必要があるということだろう。

さっきから「ヒューマンガス様」とか「ロックのアヤトラ」とか「世紀末デスロード」とか俺が書いているのが全く伝わらない人がいるように、みんなが共通して想起する要素でなければそれは記号として成立せず、自己満足の伝わらない何かになってしまう。

でも、マッドマックス界隈の人にはばっちり通じる。V8!V8!と突然言い出しても大丈夫なのだ。それが共通認識の面白さであり、危うさでもある。わからない人には通じない。白旗を挙げても逆に激しく攻撃される、そんなこともあるのだ。この宇宙のどこかの星系には。

 

小学校の頃、太陽を黄色く塗ったら「太陽は赤でしょ」と先生に言われた、みたいなのもこの記号の話になる。太陽は赤い、という共通の記号を使った方が、(まぁ一応)万人向けになるのだ。

「いや…そもそも太陽はシアンの光子を最も多く放出しているので、太陽は青く描くのが正しいはずだ…!」とか言ったって「いや、それは共通の認識じゃないから…」となる。

 

もちろん、この「共通の認識」は絶対に正しいものではない。共通認識は移ろうものだしね。昔は「青は女の子の色」「ピンクは男の子の色」だったって言っても今はあまり信じられないだろう。赤はキリストの色、青は聖母マリアの色で、赤系は男性の記号、青系は女性の記号だったのだ。不思議の国のアリスも青い色の服を着ているでしょ?ミッキーマウスは赤い服、ミニーマウスは青い服。昔のキャラクターの色を見ていくのも面白いかもしれない。

アーティストや芸術家は、この共通の認識を打破しようとしている人、と考えるとわかりやすいかもしれない。「みんなが想起するいつもの共通認識」を「いや、俺はこう表現する」と再定義する人。そう考えると、複雑な現代美術の鑑賞法もわかってくる。

偉人とは、万人の共通認識を変化せしめた人と言うことができるかもしれない。その人の登場以前以後で流れが完全に変わった人。どの分野においてもね。

 

色の話に戻るけど、イエス・キリストを描いた絵画があったら、とりあえずイエスさんの着ている服の色に注目するといい。だいたい赤い服を着ている。そして、逆にイエスさんが赤い服以外を着ているとなったら、おそらくそこには何らかの意図が潜んでいるとみて間違いない。それを調べるのも面白いと思う。

例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチイエス・キリストを描いた「救世主(サルバトール・ムンディ)」という絵がある。

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幽玄たる双眸にいろいろと持っていかれそうになるすさまじい絵だな…!

吸い込まれそうな両眼から、勇気をもっていったん目線を外し、このイエスさんの着ている服を見てみよう。

青である。

つまり、青い服を着せる特別な意味をダヴィンチは持たせたことになる。

実際、このダヴィンチの絵を基にして描かれた絵はたくさん残っているのだが、それらはいつもの赤い服を着たものが多い。

完全に青一色の服を着ているイエス・キリストは、極めて珍しいのである。

そして、この絵のイエスさんの胸元をよく見てみると…どことなく女性的な感じがする。何となく、乳房があるような気がしてくる。

「いや、これは逞しい漢の大胸筋だぜ…」と思う人ももちろんいると思うけど、青は女性の色ということも考えると、女性的な体つきをしているように見えるというのにも理路がある、と言えるだろう。

ダヴィンチの弟子はこの絵を基に、さらに女性的に描いているので、「何となく女性に見える」というのは共通認識に近いのではないだろうか。

しかしこの絵は本当に好きなんだよ。どこに焦点を合わせていいか混乱してくるのがすごい。「イエス・キリストを、見ようとすればするほど見えなくなる」と俺は解釈している。髭が生えているようにも、女性にも見える。顔の左と右が別人に見える、持っている水晶が全くレンズになっていない(ダヴィンチなら絶対にレンズになっていることに気づいてるはず)…などなど。この絵を前にした時、次々と想起するものがある。本当に素晴らしいな。いつかは実物を見てみたいと思うのだけれども。

 

さて、長々と書いてしまった。

 

そういうわけで、「あの問題」のポイントは、これら共通認識=記号になると思う。

共通認識=記号を、どのように扱い、どのように受け取るのか。

それが「あの問題」の問題であるはずだ。

フェミニズムは付随するものに過ぎない。コアはこの記号論であると思っている。

 

 

目的に合わせて記号を選択できているか

さて、「あの問題」を考えるにあたり、大いに参考になるのが先ほど書いた「太陽を赤く塗らせようとする先生」の話。むしろこれで全部片付くかもしれない。

(学校の先生たちを揶揄する意図はないよ!)

黄色い太陽、是か非か。

これはなかなか深い。

まずは各論を整理しよう

 ・太陽は赤と相場が決まっているから、正しい表現で描くべき!

 ・実際黄色く見えるんだから黄色が正しい!子供の感性を奪うな!

 ・太陽は青なんだよ!青く塗れ!それが正しいからな!SUN IS BLUE!

だいぶ攻撃力高く書いてしまったので、もっと整理しよう。

 ・多くの人の共通認識に合わせて、伝わりやすいように描くべき

 ・共通認識が正しいとは限らない、現実に即した表現を模索すべきだ

 ・共通認識など知ったことか!俺は俺の道を行く!青く塗れッ!SUN IS BLUE!(共通認識に振り回されず、より厳密な表現、オリジナリティのある表現をすべき)

SUN IS BLUE的な過激派はどこにでもいるけれども…!

この3つの主張は、どれが正しいということはない。

どれか一つだけにしてしまうと困ったことになってしまうからだ。

具体的には、

  ・多くの人の共通認識に合わせて、伝わりやすいように描くべき

    →人種差別などの表現が是正されにくくなってしまう

  ・共通認識が正しいとは限らない、現実に即した表現を模索すべきだ 

    →看板や標識など、変わりにくい共通認識が必要とされる場合がある

  ・共通認識に振り回されず、より厳密な表現、オリジナリティのある表現をすべき

    →一つひとつ解釈していかねばならないので、見る側のコストが大きい

となる。まぁ当たり前のことではあるのだけれど。

だから、「太陽を赤く塗らせる先生」は、「とりあえず、万人に伝わる表現をすることを学びなさい」と教えているのかもしれない。だったらそう言ってくれ!と言うのは置いといて。

デザインは基本的には太陽を赤く塗るジャンルだと思っている。かつて話題になった、セブンイレブンのテプラだらけのコーヒーメーカーの例もある。格好悪くても、HotとかIceではなく「あったか~い」「つめた~い」のほうがいいこともある。太陽を赤く塗ったほうがいいことも、多いのだ。

出来ればかっこいいデザインのほうがいいけど、でも「まずは分かりやすく、そのうえでかっこいい、両者の合理的なラインを模索する」のが一番だと思うのだ。

 

標識、案内表示、説明書のように、万人に通じる記号を重視するか

芸術表現のように記号に囚われず独自の表現をするか

これはそれぞれ対立するものでは決してない。ただ用いるフィールドが違うだけだ

「あの問題」も、正しいか正しくないかではなく、用いる場所と用い方を間違ったと考えるべきと思う。

それに人間はだれしも、共通認識を無意識的に使い分けている。

赤い太陽、黄色い太陽、青い太陽を使い分けて俺たちは生活しているのだ。

イラストを記号としてみるオタクたち

オタク…と一言でまとめるのは良くないと思うのだが…ほかに適切な表現が思い浮かばなかった。

つまり、アニメ・マンガ的表現に慣れ親しんだ人たちのことだ。だから狭義のオタクよりももっと層が広い。

言うまでもなくアニメマンガ的なイラストは記号で出来上がっているので、「この記号はかわいさを示す」とか意識しなくても「あ、かわいいな」とか「こいつは悪そう」「裏切りそう」とか何となくわかる。アニメマンガ的な表現内の記号に詳しいのがオタクと言えるだろう。

このオタク的な人たち(悪い意味はないぞ!)は、「あの問題」に対してはどちらかと言うと「問題ないのになぜ排除するのか」という反応を示す人が多いように見受けられる。

オタク的な人は、無意識的に記号を認識するので、それら記号が現実存在に直接影響を及ぼすという意識は希薄だ。

変な言い回しになったけど、つまり、極端なミニスカートの女の子のイラストが好きでも、現実存在としてのスカートが極端に短い女の子を求めているわけではない。

もちろん下劣な例外はどこにでもいるけどね!それを言ったらキリがないから!

アニメマンガ的表現では、「めっちゃ肌が露出した格好をしているのに超恥ずかしがり屋」という首をかしげる存在もたまに登場する。あるいは、「すごい極端に短いスカート履いてるのに清純」とか。

でもそれは記号的に考えると、「かわいさを表す記号」と、「そのキャラクターの性格」はちょっと別なのだ。もちろん、両者の表現が一致するのはウェルカムだけど、「かわいさを表す記号→露出多め」それ自体にそんなに突っ込まない。

「まぁ、そういうもんだ」という共通認識が、オタク間ではあるからだ。

なので、「アニメと現実を一緒にするな」という主張がオタクの側から出てくるのは自然だし、その延長で「あの問題」も、

「記号表現として楽しんでいるのに、なぜそれを現実存在にあてはめるのか」

という反応になる。

「太陽を赤く塗ってるからと言って、本当に赤く見えてるわけじゃないことくらいわかれよな」

ということかもしれない。

 

オタクたちは、イラストで描かれたキャラクターを見たときに、実は「そのものを見ている」のではなく、「そういうものを見ている」のである。

赤く塗られた丸いものを「おぉ、太陽だな」と見ているわけで、実際に黄色だったりSUN IS BLUEだったりすることを重視していないのだ。

フィールドが違うのである。

この、記号的な表現をどう見るか、という話題で最近面白いものがあったので紹介しておくよ!

togetter.comこのまとめの中でも「現実にピンクだよ派」と「表現技法で、実際は茶髪くらいだよ派」がいるので、「オタク的な人たち」とひとまとめにしてはいけないんだけど、そこは斟酌していただくとして…!

 

ちなみに、マンガは誰だって読めるんだから万人に共通するものだ、と思われるかもしれないが、それは違う。マンガを読めない人もいる。分厚い難解な専門書をすさまじい速度で読んでいく人が、マンガ一冊を読破できなかったという話もあるし、最近の子供は漫画が読めない、なんていう記事も見たことがある。

マンガ・アニメ的な表現は、あくまでも子供のころから慣れ親しんでいるから通じるに過ぎない儚い表現であると認識してもいいくらいだろう。

 

 

そしてもう一方の、んーと、難しいな…オタク的な人に対する人たちもいる。

記号的表現と言っても、例えばピカソキュビズム的なところまで抽象化されていないから、どうしても現実存在との関連性が見えてしまう。

 

現実存在---------------------------------------------------------------------ピカソ的な抽象芸術

       ↑

   アニメマンガはこの辺?

 

こんな感じで。

キュビズムの手法でものすっごいえっちな絵を描いても、「けしからん!」とはならない(なれない)。抽象度が高すぎて現実存在とのつながりを感じないからだ。

また手塚治虫などの時代のマンガ表現を今読めば、そんなに現実との関連は見出されないと思う。現代のアニメマンガの表現は手塚時代よりもより現実存在に近づいているので、どうにも「記号的表現だ」と切り離しにくい。

「あの問題」で問題になったイラストはいずれも現実に存在するもの―女性の乳房とか制服のプリーツスカートだとか―なので、より関連性を感じられるというのもあるかもしれない。

これが例えばスーパー戦隊とかウルトラマンのような恰好をしていたら、批判は少ないんじゃないかな。

ウルトラの母とか完全に性的だと思うんだけど、それはまぁ現実存在とは相当遠いからね…!

 

結局、用いる場にふさわしい表現を選択すればいいという結論に

なるしかないと思うんだよね…!

 

オタク的表現が好きな人は、もうちょっとオタク的な人たち以外との共通認識も意識する。

好きじゃない人も、過度に現実とアニメマンガ表現をリンクさせ過ぎない。

 

双方の歩み寄りしか解決はないと思うのだ。

 

ただ個人的に思うのは、アニメ・マンガ的な表現が一般に浸透してきたからこそ、より表現に気を付けるのは重要だと思っている。

今までの表現方法を変化させ、より広い共通認識を得られるようにしていくといいと思う。

「かわいい」という記号を、より時代にマッチさせていく勇気を持った方がいいのかもしれない。

 

映画「山猫」の有名なセリフ

We must change to remain the same.

変わらずに生き残るためには、自ら変わらねばならない。

にあるように、時代が変化を要請するのなら、自ら変わったほうが絶対にいいと思うからだ。

戦争になってしまった結果変わっても、それは間違いなく遺恨を残す。それは歴史が証明している。

 

そして変化しなければなのはアニメマンガ的な表現が好きじゃない人もそう。

かつてロックンロールやパンクが一般化したように、変化を見届け、促し、歩み寄り、受け入れてほしいと思う。

攻撃的な言動では、いかに正しくとも共通認識にはならないと思うから。

 

 

 

 

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SUN IS BLUE!に反論するとしたら、

「宇宙空間の太陽はそうだとしても、人間の目に映る可視光線には限界があるし、地球の大気の影響で赤や緑にもなるよ。それも事実には違いないよ」という感じかな?