ラスボスとしての般若心経

例えば、普段の生活や本、雑誌、ネットの記事などで「すべからく」という単語が登場したとき。

んんっ…と身構える人は結構いるはずだ。

「だ、大丈夫だよな?ちゃんと…やってくれるな…?」と、ドキドキしながら文末を待つときのあの感覚。

 もちろん、揚げ足をとろうというわけじゃない。むしろ身構える俺自身が嫌だ。でもやっぱり、どうしても、んんっ…と身構える俺が脳の中に存在している。

そういったものはほかにいくつかある。

的を得るとか、性悪説とか。(的を得る、は俺は正しいと思うけど)

般若心経もその一つだ。

やや強引な導入だけれども、般若心経について語ってみたいと思う。

とても長い話になるが、気が向いたら俺の話を聞いていってほしい。

 

 

 そもそも、「お経」ってなんだ?

ナンマイダーとしてのお経

俺たちが一般に「お経」というのは、仏教経典のことだ。いうまでもなく。ナンマイダーである。

ちなみにナンマイダーは仏教の真言マントラ)だ。釈迦如来、つまり俺たちのシッダールタ先生を示す呪文「ナウマク サンマンダー ボダナン バク(あまねく諸仏に帰命たてまつる)」である。それがいい加減に覚えられてナンマイダーとなったようだ。

細かいことを言えば、「ナウマク サンマンダー」で始まる真言は他の如来にもあるので確実とは言えないけど。

とりあえず、ナンマイダーは真言マントラ)ではあるけれども、微妙に「お経」とは違うものだ。

ナンマイダー以外に有名なものというとナムアミダブツもあるけれど、これもお経とは違う。これは阿弥陀仏に対する帰依を表明する名号で、マントラみたいなものと言える。

さらに言えば、ナンマイダーとナムアミダブツに並ぶ仏教三大「よく聞くけど意味が分からない言葉」の「ナンミョーホーレンゲキョー」もまた、お経とは微妙に違う。「南無妙法蓮華経」は、「妙法蓮華経に帰依します」という宣言なので、お経の題名(題目)を唱えていることになるからだ。

妙法蓮華経」は「法華経」のことで、ウグイスの鳴き声だったり、聖徳太子が「お前らこれを読め!」と勧めたり、清少納言さまが「お経って言ったらそれはもう法華経よねー」と推したり、源氏物語のテーマが法華経だったり。

法華経の題名が現在日本で最も唱えられている文言なのにはちゃんと歴史的な裏付けがある。

 

…いきなりわけのわからない話になってしまったが!

 

書物という意味でのお経

「お経」の「経」という文字は、手芸を趣味とする者には周知のとおり…「たて糸」のこと。紙のなかった古代では、紙の代わりに細い竹や木の板を糸で編んで竹簡や木簡にして文字を書いていたので、「たて糸」というのは「文書をまとめたもの」という意味も持つようになり、やがて「優れた書物」という意味にもなっていった。

「編集」や「冊」「巻」といった漢字は、竹簡木簡を表した言葉だ。「冊」はまんま竹簡木簡の形を模した漢字だね。

仏教経典以外に「経」が使われる書物は、古代中国の四書五経五経くらいのもの。ちなみに五経のほうが四書よりも格上で、四書のうちの一つ、論語儒教を学ぶ上での入門書、副読本という扱いだった。(その後、朱子によって四書の格がかなり上げられたが)

要するに、「これこそは偉大なる書物だぜ」というものが「経」と呼ばれるわけ。

聖書がバイブル(ギリシャ語で本という意味)と呼ばれるのと同じ経緯かもしれない。

 

悪霊をねじ伏せるホーリーパワーとしてのお経

さて、仏教の「経」というのは…端的に言えばシッダールタ先生や、偉大な先人たちによる「悟りに至るための参考書」だ。内容は物語だったり、たとえ話だったり、哲学的な問答集だったり、「シッダールタ先生はこんなことを言っていたぜ…」という思い出だったり、いろいろだ。

これを読んで悟りを得るためのヒントにしてくれよ、という熱い魂が吹き込まれている。それが仏教経典としてのお経だ。

なので、お経に退魔の力があるとかそういうことはない

…ないのだ。残念ながらな!

お経はあくまでも「善く生きるためのテキスト」だからな…!

受験用の参考書を読み上げて幽霊と戦うのはちょっとおかしいだろう。

 

 

…いやでも、幽霊に対して「ツァラトゥストラかく語りき」を読み聞かせるというシーンとかは逆にアリだな!

恐るべき怪異たる悪霊に、揺るがぬ超人思想をもって対決するニーチェの徒、とか普通にかっこいいかもしれん…!

そういう意味ではお経には退魔の力はあるのかもしれないな…!

 

と、とりあえず、お経というのは「すぐれた書物」であるよ、ということを押さえてほしいと思う。

 

猿と河童と豚と馬を引き連れて西域を練り歩く偉大な男のお経

ちなみに、「お経」のことをサンスクリット語では「スートラ」と呼ぶのだけど、「スートラ」もまた「糸」という意味だったりする。

この「スートラ」を「経」と訳した古代中国の賢人のセンスは半端ではない。

般若心経を漢字に翻訳したのは、あの三蔵法師なのだけれども、インドではすでに廃れていた仏教の経典をまとめ、仏教を保存したのが三蔵法師という男といえるかもしれない。というか、「三蔵」という尊称が「経典を修めた者」という意味だしね。誤解されるけれど、「玄奘」が彼の法名で、「三蔵」は敬称というか、異名なのだ。

西遊記ではピーチ姫みたいな役どころだけど、実際のところの玄奘三蔵は妖怪や魔物をワンパンで圧倒できるくらいの知の巨人であったことは間違いない。

あれ…お経ってやっぱり退魔の力があるんじゃないか…?

 

三国志マニアのためのお経

玄奘三蔵の本名は「陳褘」で、三国志マニアには有名な「陳羣」の子孫である。知的エリートなのも納得だ!

 

翻訳物としてのお経

玄奘三蔵を含む中国の偉大なる僧侶たちのおかげで俺たちはシッダールタ先生の教えを今も学ぶことができるのだけれども、一つ注意したいところがある。

それは、どうあがいても翻訳物は翻訳者の意図が紛れ込んでしまうということだ。

最近はサンスクリット語からの直接翻訳の経典がたくさん出てきているけど、世にあるお経は基本的に「漢文翻訳版のお経」なので、シッダールタ先生の意図したニュアンスが正確に再現できているとは限らないといえる。

…こう、なかなか難しいところだけれども!

というのも、「仏教における女性の扱い」が結構問題になっているからだ。

「人間である以上、差別や区別など存在しない」と言い切ったシッダールタ先生が、「女性は仏になれないからねー」とか言うだろうか?

古代中国の儒教では明確に男女に差をつけているが、サンスクリット語のお経から漢文に翻訳される際に、儒教的価値観が入り込んで、「女性は仏になれない」という言葉が付け加えられたのではないか、という説もある。

俺はシッダールタ先生のファンなので、「儒教的価値観戦犯説」をちょっと推したい。

 

ちなみに、法華経が大人気になった大きな理由の一つとして、「女性でも成仏できるよ!」と言ったのもあるかもしれない。清少納言さまはこの辺に惹かれていそうだな!

法華経の中で「龍族の8歳の女の子」という、ちょっと盛り過ぎの属性の女の子が見事に成仏する章があって、人間でもない、大人でもない、男性でもない存在が成仏できることを示した意義は非常に大きい。まぁ、一回男子に変身してからの成仏なのは男尊女卑の時代にはこれが限界かと思わされてしまうけれどもね。

(あ、でもシッダールタ先生の弟子の女性たちは普通に悟りまくってるので、大丈夫だ!)

 

それで、般若心経ってなんだ?

前置きが長くなり過ぎたけれども、ここからが本題。般若心経(はんにゃしんぎょう)である。

最も短いお経・般若心経

はんにゃ~は~ら~みった~…で始まる般若心経。

これは本文部分が漢字266文字という、仏教経典の中でも破格の短さの経典である。

Twitterの2ツイートに収まる仏教の神髄がここにあるのだ…!

原文のサンスクリット語ではもうちょっと長いのだけど、それでもA4一枚に十分収まる。その短さと深遠な教えにより、今では写経の定番として愛されている。

写経するたびに三蔵法師の偉大さをかみしめたいところだな!

 

オイラーの等式としての般若心経 ~ 短い ≠ わかりやすい ~

しかし、「最も短いお経」だから「最もわかりやすい」わけではない。

概して、短くスマートで美しい定理というのは、その背景に膨大な知識が要求されるものだ。

例えば、数学で「最も美しい公式」とも呼ばれるオイラーの等式がある。

e^{iπ} + 1 = 0

この数式の意味は置くとして…。

「学生の頃は数学苦手だったけど、ちょっと勉強してみようかなー」

という人が、

「とりあえず簡単そうだし、オイラーの等式勉強しよう」

とはならないはずだ!

上記の公式は、有名な定数e,i,π,1,0だけを使った圧倒的な完成美を誇る人類の叡智なんだけど、前提知識がないとこれが何を意味するのか、何に役立っているのか、よくわからないはずだ。

少なくとも…俺はこの公式の意味を理解している自信はないな!はっはは!

 

般若心経もこのオイラーの等式と同じ。

短いからこそ前提知識が要求されるものだ。

般若心経はそもそも、大般若経という仏教哲学の奥義を詰め込んだ600巻に及ぶ「経」の「心髄」を抜き出したものだ。大般若経すら理解していない俺たちには、相当にハードルが高いと言わざるを得ない。

高校数学でヒーヒー言ってる俺たちがいきなりオイラー先生に挑んだとしても、「いやー、美しいね、すごいね!!」としか言えないように、軽い気持ちで般若心経を開いても「何かすごい…精神が研ぎ澄まされていく…気がしてきたぜ!!」という以上のものは生まれないと思うのだ。

もちろん、「何となくすごいと思う」のは素晴らしいことだし、写経もガンガンやっていいし、どんどん挑みかかるのが俺たちの使命なんだけど、

「とりあえず般若心経~」みたいな安い気持ちでは向き合えないし、

「般若心経を理解した!」とは簡単に言えないと思うんだよ。

 

大乗仏教の経典としての般若心経

仏教もそのほかの宗教と同じく、いろんな宗派に分かれている。というか、仏教ほど宗派が分かれている宗教は他にない。と思う。

分裂の根本は、シッダールタ先生が涅槃に入ってから100年後に起きた。

シッダールタ先生は「教祖」ではなく「教師」だったので、「この教えを絶対としなさい」みたいなことを言う人ではなかった。それが分裂の原因かもしれない。

シッダールタ先生は「私が至ったこの悟りの境地を、みんなにも体感してほしい」というタイプの人だったから、例えばAさんに対しては右に行きなさいと言い、Bさんに対しては左に行きなさいという。それは弟子の特性や性格に応じて教え方を変えるシッダールタ先生一流の教育理念によるもので大変すばらしいんだけど…その方法が体系化できないという大いなる問題が残った。

なんせシッダールタ先生は涅槃に入るその直前にも「いいかい、自分自身を明りにして、この世の理を信じて頑張って修行しなさい」と言い残す人だったし、「私の死後は、戒律をいくつかなくしてもかまわない」と言う人だった。「こういうことを守りなさい」と言ってくれれば簡単だったのだが、人類史上最強の教師であるシッダールタ先生はそんなことはしないというわけだ。

あくまでも悟りは自分自身で見出すべきという人だったので、「こうすればあなたも如来!誰でもできる簡単修行!」みたいなものはなかった。

仏教は度が過ぎた苦行も否定するし、かといってゆるふわでもない。その匙加減は非常に難しく、「どのくらいが一番いいのか」を判断する明確な基準がないのはかなり難しい。

そういうわけで…「塩とかお金を貯蔵しておくのはOKなの?ダメなの?」という、なんとも、こう…切実な生活上の問題から、仏教は二つの宗派に割れるのである。

たぶんシッダールタ先生がいてくれても、「その時その時臨機応変で」みたいな対応になるはずだから、いずれはどこかでこういう問題にぶち当たる。

にしても、原因が塩とかお金というのはちょっと…と思わなくもないが、単純な問題ゆえに事態は深刻だ。

ここで、あくまでも戒律に厳格にいこうとする上座部仏教と、戒律を緩く解釈して大衆の支持を得ようとする大乗仏教の二つに分かれた。これが根本分裂と言われる。

 

そして般若心経は、大乗仏教の方の経典。ちなみに日本は大乗仏教。タイやミャンマーなどは上座部仏教チベット大乗仏教のうちの密教という部類。真言宗はこの密教系だ。

上座部仏教大乗仏教の大きな違いは何かというと、前者は「自分が悟りに至る道を突き進む」というもので、後者は「教えをみんなに理解してもらい、みんなで頑張ろう」というようなテンションの違いがある。…ちょっと語弊がありそうだけど。

大乗仏教は「大衆のための宗教」という側面を持ったから、大日如来とか、観音菩薩とか、お地蔵様とか、毘沙門天とか、いろんな仏様や天部など、多神教的な様々なキャラクターが創出されることになった。

上座部仏教にはそういったものはない。自分が悟るためにすべきことをする。孤高な戦いなのである。

般若心経は、そういった背景を持つお経である。

 

達人のための般若心経

自分一人が悟ればいいという利己的な態度でなく、あまねく衆生を救済しての仏教である、という大乗仏教の主張(上座部仏教への意見、あるいは攻撃?)のように、大乗仏教は悟りに至るまでの道筋を様々に思案した。

大乗仏教内の宗派の分裂というのは、「悟るためにどういう方法があるか」という方法論での分裂と思えばいいと思う。ある人は禅をやり、ある人は山に分け入り、ある人はものすごい勉強したり。

そういうわけで、様々な「お経」が書かれた。圧倒的な参考書の山である。

そして、その参考書の一つの集大成となったのが先述の大般若経600巻、そして、その心髄を抜き出した般若心経である。

有名な「色即是空」にしても、仏教哲学「空(くう)」を理解していないと本当の意味は分からない。そういった背景知識がないと、「エッチなことを想像してみたけど、結局これって妄想なんだよな…」という、思春期男子的な迷走をすることになってしまう。

であるので、般若心経に対するときは「これの本当の意味は俺は体感理解していない」というスタンスで接するのが良いように思う。

般若心経はおそらく、修行を最後まで終えた者にのみ読むことが許された奥義書的な位置づけだ。生半可な理解はマイナスの結果となる。

「辛い世の中の一服の清涼剤となるありがたいお経」ではない

むしろ、

「ほほう…ついにここまで来たか…!お前が如来となれるかどうか…この般若心経が最後の試練を与えてくれようッ!」

みたいなバトルマンガ的展開のお経なので、決してゆるくはない。ベリーハードだ。ともすれば、精神が崩壊しかねないマストダイな境地へ至るための最後の登竜門。

それが般若心経であると俺は思うのだ。

 

危険な般若心経

般若心経は非常に危険な経典だ。

…般若が怖い鬼だから、というような話ではなくな!

仏教経典で言う「般若」は、サンスクリット語で「プラジュニャー」という。

三蔵法師が「プラジュニャー」の音をそのまま当て字にして漢字に直したものだ。

プラジュニャー→ぷらゅにゃー→ぱんにゃー→はんにゃ→般若…ッ!

ここが三蔵法師のすごいところで、彼はいわゆる「外来語をそのままの音で取り入れた」のである。無理に漢字に直してしまうと欠落する意味が出てくる。

この「プラジュニャー」という言葉は「智慧」と訳してしまうと本来の意味を損なう可能性があるから、あえて言語の音をそのまま輸入したのだろう。たぶんだけど!

現代の日本人が欧米で生まれた概念をそのままカタカナで輸入するような感じだ。

 

で、その般若心経がなぜ危険なのかというと…

 

一見すると、シッダールタ先生の教えを全否定しているから!

 

シッダールタ先生が「これが基本にして奥義だよ!」といった教えの中に、「四諦(したい)」と、「八正道」がある。

これについてはいろいろと本や解説サイトなどを見てもらうとして…。

般若心経は、「そんなものはない」と断ずるのである!

また、「色即是空、空即是色」と有名な言葉を言ったかと思えばいきなり「空なんてものはない」「色なんてものはない」と切り捨ててしまう。

「そんなものはない」それが般若心経。

般若心経の中盤位に、やたらと「無」という漢字がでてくる。なんといっても、266文字中21文字が「無」なのである!

これは、「無になりなさい…」ではなく、「そんなものはない」の連続なのだ。

今まで「こういうことなのである」と教わってきたものを、「そんなものはない」と破壊していく、攻撃力の高いお経なのだ。強い。だからこそ危険。

 

そして、シッダールタ先生は「呪文なんか唱えても無意味だよ。やめなさい」と言ってくれたが…般若心経は「最後にこの呪文を唱えろ!」と言うのである!

ぎゃーてーぎゃーてはらぎゃーてー…、がそれだ。

シッダールタ先生や彼の弟子たちが説いたことを「そんなものはない」と破壊していくのである。真逆のことを言っているお経に読めてしまう。

 

なので、俺たちのような初学者未満の徒にとって、般若心経は危険なお経以外の何物でもない。

例えば、親鸞上人の書いた「歎異抄」が「初学者に読ませると危険だから」と封印されていたのもこれと同じ理由だと思われる。「歎異抄」には「悪人正機」という教えがある。これは前提知識がないと、「悪人こそが救われるらしいから、どんどん悪をやっていこうぜ…!?」みたいな解釈をされてしまう可能性がある。きちんと浄土真宗の理路を学べば納得の展開なのだが、曲解や誤解の可能性が非常に大きい。

 

破から離に至る般若心経

 要するに、般若心経は守破離の破であり、離に至る道を示してくれているお経と言える。

守破離は歌舞伎の世阿弥が出展だけど、同じく歌舞伎役者の18代中村勘三郎が「若い人はなんでも型破りをしたがるが、型を知らなければそれは形無し」と言ったように、四諦や八正道、「空」の概念への理解と実践がおぼつかない俺たちには、般若心経はまだまだ早いということになるだろう。

 

般若心経は素晴らしいお経だが、素晴らしいゆえに安易な取り扱いはできないように思う。

安易に取り扱ってはいけないし、かといって過剰に祭り上げて権威化しすぎるのもよくない。

シッダールタ先生の言う「中道」の態度で、この危険なお経に接するべきなのではないかと思う!

 

 

…ふわっとした結論になったけれども!

 

というか、とりあえず仏教とか、シッダールタ先生の熱い言葉を知りたいなら、「スッタニパータ」とかそのあたりがいいと思うんだよね!

 

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