クリスマスは、パンとワインと
クリスマス。
そう、季節はまさにメリークリスマス!
大人にとっては楽しくも忙しい時期であり、
子供にとっては「サンタは果たして実在するかどうか」「目で確認できないものは存在しないといいきれるのかどうか」という形而上学に初めて触れる、人生で最も大事な時期でもある…!
そう、安易に「サンタはいない」などといえるものではない…!
「サンタはいるのか否か」という問いを通じて、子供たちは大自然の、そして人生の神秘を目の当たりにし、今後の人生が唯物論に傾くのか、それとも神秘を神秘として受け止めることができるのかが決まる大いなる時期なのだ。
世のお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃんは…世界の成り立ちを子供に伝える神秘の代行者としてのミッションを果たすことができたのか!?
ぜひとも頑張ってほしいところだぜ…!
さてそれで、俺。
俺はこのクリスマスという神秘にどう立ち向かうのか!
急に小さい話になったが…!
あちこちで書いたかもしれないけど、俺はこのクリスマスイブは毎年一人でパン一個とワインだけ飲んで過ごすことにしている。もう10年、そのような過ごし方をしている。
しかし今年は…違った!
今年は、クリスマスを共に過ごせる存在が…
俺の食卓に来てくれたわけだよ!
パン
ワイン
そしてドリル。
何もおかしいところはない。
133Nのパワーを誇るインパクトドライバーの超威力でコルクに栓抜きを垂直に打ち込み…
そして最後に手で抜栓するッ!
な、なにッ!?
結局最後は手で抜くのか!?
俺はてっきり、ドリルのパワーでそのまま抜くのかと…ッ!
いやま、しかし、抜きやすいのは事実。
そして絵面が大変笑えるのも事実。
「コルクにねじ込むのが苦手な人ってそんなに多くないよな…?問題なのは抜くときだよな…?」
という根本的な問題に目をつむれば、極めて優秀なツールである。
これで一人のクリスマスも楽しく過ごせるよ!やったね!
…ネタに走るのに2000円はちょっと痛かったかなぁという問題にも俺は目を瞑るが!
あぁ、俺は瞑るね!
人間は…いつだって盲目さ…俺も…恋という名の…
いや、まぁよ!
それで、クリスマスになぜパン一個とワインで過ごすことになったのか。
せっかくだし、少し俺の話を聞いていってほしい。
今からおよそ10年前、俺が27歳くらいのころ。
俺は当時東京に住んでいて(ときわ荘のすぐそば)、朝8時から夜11時くらいまで仕事をしていた。
俺はプライベートがしっかりしてないと仕事もダメなタイプだから、当然、凄い消耗していった。それに、そこまでやって何か得られるものがあったかというとそうではなかったし。往々にしてそうだけれどね。
俺は北海道の出身だから、東京に冬はなかった。
秋が長く続き、いつの間にか梅の花が咲いている。東京はそんな場所だった。梅の花が見られたのは嬉しかったけれど、何か欠落したものを感じていた。雪の降る匂いを感じられなかったのは寂しかった。あ、豆腐売りとか屋台に遭遇したのは最高だったけどね!素晴らしかった。
長い秋も半ばになったある日、珍しく定時で帰ることができた。定時は…何時だっただろうか。17時?18時?19時?とにかく、早かった。お店が開いている時間だ。ご飯を食べることもできるし、買い物だってできる。素晴らしい時間。
最終のバスに乗れないことが度々あったので、俺は自転車で通勤していた。電車の3駅分。雪がないのでいつでも自転車で走ることができる。東京は素晴らしい世界だ。
その日は早い時間に上がれたし、自転車で疾走するのはやめて、押して歩くことにした。
東京は広いが俺の世界はとても狭い。
今まで知らなかったお店、場所、オブジェ、道、建物がたくさんあった。
あぁ、もっと早く気づいていればなぁとぼんやりと思った。
少し道の横にそれるだけで、無限の世界が広がっていたというのに。
あぁ、俺は何も見ていなかったんだな。こんなになんでもあるのに。
それで、いつもは通らない道を通ろうと考えた。
道に迷ってもいいな、と思った。迷うのは楽しい。
路地を通り、いくつかの橋を渡り、墓場をやり過ごしてもうまいこと迷うことができなかったその時、
クリスマスだなぁと理解した。
クリスマスだよ。クリスマスイブ。12月24日だ。だから早く帰れたのかもしれないな。
もちろんわかってはいたけれど。
しかし、このときは実感も何もあったものじゃない。疲れ果てていたし。長いアドベントの最終日という感覚だった。春分や秋分と同じように、なんとなく過ぎているもの。明後日にはお正月が始まる。そういうものだ。
でも唐突に理解した、あぁ、クリスマスが来る。クリスマスが終わる。
クリスマス、クリスマス、世間はクリスマスだが、俺は、今何のために歩いているのだ?
急に家に帰りたくなって全力疾走した。多分道はあっている。このままではまずい。クリスマスだぞ?
そしてしばらく走ると、教会の前に出た。カトリックの。 俺がイメージする教会とは全然違う、堅牢な建物だった。掲示板の前に止まり、様子をうかがってみる。どうやら、まさにクリスマスイブのミサの前だったらしい。
ここで俺は考えた。
道に迷うこともできずに狭い世界から出られない俺にも、門戸は開かれているのだろうか?
そもそも、部外者の俺が入ってもいいのか?
大丈夫なのか?
それとなく入り口に近づいてみる。誰でも入れる、参加できるという知識はあったけれど、実際に行動に移すのは別の話だ。逡巡しながらも、多分俺はここに入るだろうな、と確信していた。
『誰でもご自由にお入りください』
俺は入る。
受け付けなどは特になかった。入り口に誰もいない。
『ご自由にお座りください』
俺は座る。
相当早かったらしい。俺のほかに座っている人はいない。
『ご自由にお持ちください』
ミサの進行と、聖歌の歌詞が書いている。
時間まで俺は待つ。
徐々に人が増えてきて、すごく緊張する。
俺は…やっぱりここにいたらまずいんじゃないか…?
とりあえず最後尾の端に座ったけれども…
バレるんじゃないか…?
そんな気持ちがした。何もやましいことはないのだが。
時間になり、席はおおよそ埋まった。
ミサが始まる寸前に、俺の隣にスーツを着た、颯爽としたお姉さんが座った。
当然ながらこのお姉さんとは何もない。何かあっても困る。
進行と歌詞が書いた紙を渡しただけだ。でもなぜか妙に覚えている。
ミサは厳粛に進んだけれど、やはり俺の中で場違い感はぬぐいきれなかった。
それは異教徒感ということではなく、それもあったかもしれないけど、結局のところ、「あぁ、こんなにみんなが真剣に祈っている場所に、フワフワしてるだけの俺はふさわしくないんだろうなぁ」という人生についての場違い感である。
俺は、適合していない。社会にも、自分自身にも。
ミサをぼんやりと眺めていて、自分の人生、存在を肯定してくれる存在がある、というのはとても勇気を得られるものだよな、あぁ、そうだな、と思った。
そしてキリスト教は、「人間の一番重い罰をイエスが贖ってくれたから、あとはもう死ぬほどの罰などありはしない。ただ悔い改めるのみだ」という熱い宗教なんだな、と理解した。
俺は信徒ではないけれど、今でもイエス・キリストその人とそのロジックには尊敬しかない。
この後一般の人も参加できる簡単な立食パーティがあったんだけど、さすがにそこまで参加するわけにもいかないから、足早にその場を去った。ほかの人が聖堂から出ないうちに、ひっそりとその場を後にしようとした。
速足で聖堂を出て入り口を抜け、ドアに手をかけたとき、立食パーティの準備をしていた女性が駆けてきて、俺の手にパンを一個、握らせてくれた。
「メリークリスマス!」
俺は立ち止まることができず(立ち止まったらいろいろあふれるような気がした)、
歩きながらパンを持った手を挙げて
「ありがとうございます、メリークリスマス!」
そういってそのまま自転車に乗り、手に持ったパンを見て涙を流しながら家に向かった。
途中で安いワインを買い、人生で最高のパンを食べてクリスマスを過ごした。
パンをもらって家に帰って食べて寝るまでが一瞬のことのような気がして、今でもそのあたりは曖昧にしか思いだせない。最高のパンだったことは間違いないけれど、どんなパンだったのかはおぼろげなままだ。
しかし、パンは覚えている。
彼女の声も覚えている。
あの人に対して言うように、メリークリスマス、と誰に対しても言っていきたいと思う。
今も、またこれからも。
メリークリスマス!