ハロウィーン、クリスマス、お葬式…無節操に見えるけど、実は中身は儒教で一貫している

ハロウィーンが過ぎ、クリスマスに向けて加速していく2017年。

最近ではクリスマスの前の準備期間である「アドベント待降節)」も徐々に商業イベントとして注目されるようになってきたね。そのうちアドベント期間中に食べるシュトーレンがコンビニで売られることになりそう。もうすでに売ってるかもしれないけど。

年末から年始にかけて、クリスマス-除夜の鐘-初詣とキリスト教、仏教、神道と3宗教にまたがるイベントをこなしていくのが俺たち日本人の習わしとなって久しい。これを「宗教に寛容」ととらえるか、「無節操」と感じるかはそれぞれだけど、いずれにしても表裏一体なものだろうと思う。

個人的には…日本人は寛容でもなく無節操というほどでもなく、ただ「無自覚」なのではないかと思う。

 

ここでひとつ考えてみてほしい。

「道徳やマナーを一言(短い言葉)で言いあらわすと?」

もちろん答えは無数にあると思うけど、「大多数が同意するような道徳」の中でトップに入るのは、

「自分がされて嫌なことは、他人にもしちゃだめ」

ではなないだろうか。

少なくとも間違ったことは言ってない。それにたぶん似たようなことは子供のころから聞かされてきているはず。

これの元ネタが何かというと…それはもちろん、あの偉大なる東洋の巨人。物理的な意味でも巨人(身長190cm)であるところの孔子、孔丘先生その人である。この人が何気なく放った一言が東アジアの道徳の基本になった。( 己の欲せざる所は人に施す勿れ)

そのほか、論語や大学には「当たり前すぎて今更感あふれる道徳の話」が満載で、おそらく俺たちが漢文の授業で眠りに落ちるのも、この圧倒的な「当たり前感」が原因の一つにはなっているはずだ。

当たり前すぎて新鮮味がない。

しかし逆に言えば、それほどまでに影響が強いともいえる。学校で習う以前からすでに知っているレベルで浸透している。

俺が思うところ、日本は相当な儒教国家だ。

儒教と聞くと、うぇーーーと思う人もいると思うのだけど、儒教を基準に日本の宗教観を見ると、かなりいろんな部分が納得できるものになると思う。

日本人は無節操でも特別に寛容でもない。儒教的なだけなのではないか。

例えば、祖先を大事にする考え方。

これは儒教的と言っていい。仏教も神道も、実はさほど祖先には気を配ってない。

仏教だとシッダールタ先生は「十無記」で「死後のことはわからない。わからないものは私は語らない。死後の世界があるかないか、それにかかわらず人間は現生で苦しんでいるだろう。私はその苦しみを取り除きたいのだよ」と、有名な毒矢のたとえで言っているし、神道では死は穢れなので、なるべく遠ざけたいものだ(イザナミねえさんのことを思い出すんだ!)。

「先祖を敬おうぜ!」というのは、実は儒教のメイン道徳だったりする。仏教じゃない。一周忌とかも、もとは儒教の葬儀形式だ。孔子の直弟子のレベルになると、孔子の葬儀の後6年間も喪に服したというツワモノが存在する。

また、儒教形式主義的なところも批判されはするけど、「内心でどう思っていようとも、形式をガチっと決めてそれに従えば、とりあえず物事は前に進む」という、精神的には後ろ向きかもしれないが物理的には前に進むという効果もある。もちろん孔丘先生は「衷心からそれを行うのが大事だ」と言っているけどね。弊害は多いけど、それを補って余りある恩恵があるのも確かだ。2000年前に官僚制を確立させた儒教のパワーは半端ではない。

そしてこの儒教「とりあえず形式を決める」「そういうことになってるなら、したほうがいい」「(他文化の)形式を尊重する」という部分が、まさに日本の各種宗教イベントに対する感覚なのではないかと思う。

クリスマスは、飾りつけをしてケーキを食べるらしいから、その形式を尊重する。

バレンタインは、意中の人にチョコレートを贈るらしいから、その形式を尊重する。

ハロウィーンは…

初詣は…

節分は…

葬式は…

それを企画した人が誰なのか、どういう意図があるかはさほど関係ない。

形式や様式を尊べば、「宗教に寛容な感じ」になってあんまり角が立たない!

いや、何かヤな感じに聞こえるかもしれないけど、俺はこの姿勢は悪くないと思っている!いきなり「どっちかに合わせろ!」とキビしい感じなるのでなく、「そういうものなんだね!」とポジティブに受け入れていく方式。これは別に悪くないでしょ?

結婚式はだいたいチャペル式、神前式、仏式(あんまり聞かないけど)からどれかを選択するけれど、そこに共通しているのは「何かしら儀式やったほうがおさまりがいいよね」という感覚で、これこそが儒教的感覚なのだと思っている。

(逆の「そんな儀式なんてくだらねぇ!俺は形式でなく、心から愛しているから儀式なんてものは必要ないんだよ!」という姿勢も「なんという仁義の士よ!」と儒教に回収されていくという恐ろしいスパイラルが待っている。儀式を基準に物事を考える点では、両者は同じだ。)

そして、その儒教的なものに無自覚だから「日本人は宗教に寛容」「日本人は無節操」と思ってしまう。でも実際は、儒教的な立場から他文化を尊重しているわけで、寛容というほど受け入れず、無節操というほど蔑ろにせず、ほどよい距離を保って尊重することができている。

儒教を悪く思う人は多いけど、この「ほどよく距離を保って尊重する」というのは儒教のおかげだろうと思う。

新しい文化が入ってきたとき、「なるほど、そういうものがあるのか、なら尊重しようね」となるのは儒教の利点かなと。

 

俺も近年までは、「なんと無節操な…」とか「節分に恵方巻とか正直どうよ…」と思っていたけれど、この「とりあえず儀式として取り込んで尊重する」という儒教的スタンスに気づいてからはあんまり嫌に思うこともなくなった。むしろ恵方ウェルカム!巻きずしは美味いからな…!

ボージョレヌーボーの解禁がまさに明日だけど…「そういうもの」として受け入れる準備は万全だぜ!

 

孔丘先生はとある儀式を行うとき、実際はその儀式について精通しているにもかかわらず、その儀式の専門家に一つひとつ「これはこの順番で正しいですか?」と確認しながら行い、専門家を尊重する姿勢を崩さなかったという。

…まぁちょっとこう、いやらしい感じがしなくもないが、その精神は素晴らしいものだろう。それにたぶん、孔丘先生なら本心から相手を尊重してたのだろうしな。

俺も、儒教のライトサイドを信奉する者として…他文化を尊重する精神を崩さないでいたいものだぜ。

 

儒教は悪い面がクローズアップされがちだけど、春秋戦国時代という暴力が支配するカオス極まる世紀末に、毅然として正論をもって立ち向かい、ついに勝利した男たちの物語でもあるので、悪い面ばかりでなく良い面にも目を向けてくれればな、と思う。

 確かに腐敗もしたし、正直それはどうよ?な面は多々あるけれど、その根本にある精神は間違いなく熱いからね!