「なぜ人を殺してはいけないか?」を、人類社会のジェネシックコードを用いて説明してみる
しばしば話題に挙がるこの問い。
時には酒の席で、時にはSNSで、掲示板で、それぞれの思うところの意見が飛び交う。
この問いを通じて、互いのうちの価値観がおぼろげに見えてきたり、あるいはあえて極論を投げ込んでその場を活性化させたりもする。何にしても、こういう話は楽しいものだ。喧嘩になるのは良くないが。
おそらく日本人なら、この問いに対する一般的な答えの内の一つに、
「自分がされたら嫌なことは、他人にやっちゃダメ」というのがあると思う。それが正しいかどうかは各人の思いがあるとしても、一般的であることはたぶん間違いない。
で、この考え方を一般的にしたのは、他ならぬあの古の賢者、身長190cmの巨漢、無職と勘違いされがちの男(だいたい晏子のせい)。孔子である。
「先生、それで結局のところ、一生をかけて追求すべき道徳とは一言で言えばどういう物なんです」
「そうだなぁ、まぁつまるところ、他人がいやがる事はやっちゃいけないってことだろうな」
これが故事成語「己の欲せざるところは人に施すことなかれ」で、孔丘先生が何となく言ったこの言葉が、アジア圏の「一般的」な道徳となったのだからこの人は凄い。
で、この価値観に対する反論「自分が殺されても良いと思ってる奴には無意味なんじゃないか」も、頷けるところがある。というのも、孔子はあくまでも「生涯を通じて己を律したいと思っている人」に対してこのコメントをしたわけで、これに対して「この場合はどうなんだ、あれはどうなんだ」と一般化して話をするようなものではなかったりする。なんせこの質問をした子貢という人は魯の国と斉の国の宰相を歴任した人で、ぶっちゃけ孔子よりも遙かに知名度が高かった。この子貢があちこちで「先生に比べれば私など木っ端ですよ」的な事を言っていたので、孔子の名が世に広まったとすら言われる。そういうレベルの人に対しての道徳指針なので、「一般的」ではあるけれども全てに適用できるものではないだろう。
それでは、何をもって「殺人はいけない」とするか。
神様やおてんとさまや呪いを持ち出して説明すべきだろうか?
いや、それでは一般化は出来ない。
俺たち人類には、宗教や道徳以前の、何か共通の「決まり事」が必要なのだ。信じる信じないだとか、環境や文化では揺るがない、何か、こう、鋼のごとく盤石な偉大な魔法のような何かが。
そこで登場するのがジョン・ロックである。
聞いたことがあると思う。たぶん中学か、高校の社会科系の授業で出てきた17世紀イギリスの痩身の男。この男が全てを作り出したというわけではもちろんないけれど、俺たち人類の「共通の決まり事」を作り出した人の一人であることには間違いない。
ジョン・ロックはまず、人間の一番基本的な、ベーシックな状態を考えた。
…何か話が面倒になってきているが、大丈夫だ!
人間にとって最も基本的な状態は、「一切が平等で、他人を害さず、自由と平等を維持して平和に共同生活を送っている状態」であると考えた。神、いわゆるゴッドはそういう風に俺たちを作ったし、また、俺たちが目指す理想の状態でもあるだろうからだ。
性善説の孟子あたりは「だよねー」と言いそうな感じだ。(「でもな…」と後に続くだろうけど)
で、人間は平等で、自由。
なのだが!ここで当然のごとく問題が生じる。
「俺の自由のためにアイツが邪魔なんだけど、排除していいのか?」ということである。
自分の自由と他人の自由は異なる。価値観は違う。それでも、平等である。ならば、必ず衝突が生じる。
ジョン・ロックは「そこで政府が必要になるのだ」と言う。つまり、政府というのは自然状態の人間たちの上にある物ではなく、自然状態の人間たちの様々な問題を調停する機関にすぎないと考えた。故に、政府は人民の承認が無ければ成り立たず、また人民の基本的な状態を壊してはいけないという制約も課された。
ここに、「人民が政府を選ぶ政治形態」が生まれ、「王が神に与えられた統治する権利をを行使して人民を治める政治形態」が否定されたわけだ。これは革新的というか、人類の定義そのものを変える偉業だったと俺は思う。この瞬間、旧人類は滅亡した!
という感じの話が、教科書に出てくる「王権神授説」だとか「社会契約論」とか「憲法」あたりの話だ。歴史の授業はもっと、こう、壮大な感じでやっても良いんじゃないかな。まさしく歴史が変わった瞬間なんだしさ。
それで、このジョン・ロックの話がなんなのかというと、この話が、まさに「人権」の話だからだ。
ざっくり言えば、「どうして殺人しちゃいけないの?」という問いには「人権があるからさ」でICHI-GEKIで終わるんだぜという話になるのだが、それは説明がないと納得しがたい。
そもそも、まず「人権」というもののイメージが悪い。
まぁ人によるだろうけれども…こう、人権という盾にスパイクを着けてシールドバッシュを仕掛けてくるメイン盾なパラディンの話が結構あるからかもしれない。
この辺は宗教と同じように、繊細な取り扱いが必要だが。
しかし、人権そのものについて改めて考えてみるのは決して悪いことではないはずだ。
人権というものは、ある意味で力技だ。
「人間には生まれながらの人権がある!これは決して侵されないし、誰にも奪われないし、誰かに与えてもらったものでもない!」
──ということに、しよう!
という大魔法なのである。この世界を、俺たちを、人類を、社会を決定する、これが崩れたらもうどうしようもない、ジェネシックコードということに、する!
勇気を持って、こういう物だと、決める!みんなで!その方が絶対に便利だから!
…というのが人権である。…反発はありそうだが。しかし、この人権こそが人間が長い歴史の中で編み出した超必殺技であって、これがなければ現在の社会は成立しない。
人権は、先のジョン・ロックが定義した自然権を参照するとわかりやすい。人間は、生まれながらに自らの生命と健康と自由と財産に対する権利を持つ。それは他人が奪うことを許さない。そして、もし、お互いのこの権利がぶつかり合ったら、どちらかの権利は譲歩しなければならない。話がうまくいかなかったら、政府がそれを調停する。その調停の基準が「公共の福祉」だ。日本国憲法に書いてあるところの。「公共の福祉」というのは、人権と人権がぶつかったときに、どちらの人権を優先し、どちらに譲歩してもらうかという基準のこと。ふわっとした言い方だが、コトが人権に関わる以上、ふわっとした言い方にならざるを得ないというのもあるだろう。
人権と人権がぶつかったときには、「公共の福祉」に照らして政府が調停する。これが俺たちの世界を形作る根底のルールだ。
「なぜ人を殺してはいけないの?」
「君には他人の人権を停止する権利はないからだよ」
ということになる。他人に危害を加える自由は、他人の人権を停止してまでやるべきことではない、ということだ。
この世の中の問題は、全てこの人権を元にして裁定されている。
例えば、無人島で二人きりになって、どちらか一方を食わねば二人とも死ぬ、という極限状態の場合。両者の生きる権利は侵せないが、どちらかしか選べないとなれば、片方の人権停止はやむをえないとなり、罪には問われない。
また、死刑制度についてもよくわかる。
単なる調停者に過ぎない政府が、主権者である国民の人権を停止する権利があるのか?という問題。
「こいつは放っておくと、どんどん他人の人権を停止して回るぞ。こいつには更正の余地はない。やむを得ないがこいつの人権を停止するのが、最も良い」というのが死刑制度賛成派。
「こいつはどうしようもないが、人権を停止する権利は誰にもない。他人の人権を停止しないように監視を付けることしかできないだろう」というのが反対派ということになる。
人権という物の性質を考えれば、どちらにも理があると思う。
人を罰し、押さえつけるのは簡単だが、それを安易にやってしまうと俺たちの世界そのものが崩れてしまうのだ。ファンタジー的に考えれば、世界の法則が乱れて崩壊してしまう感じだ。割と結構、深刻なことなんだぜこれ。
と、長々と書いてしまったのだが。
ちょうどこの間、友人の子供のがこの「なぜ人を殺したのがダメなのか期」に突入したという話を聞いたので、せっかくの機会だからとここに書いてみた。
もし彼に「なぜ人を殺してはいけないの?」と問われたならば、
「…この世界が崩壊するからだ…!」
と、俺は答えていきたいと思う。腕の辺りを押さえて脂汗を流しつつ。
それにしてもあれだよね。高校の頃の「倫理」の授業(今もあるのかな?)とか、問題回答形式で教えてほしかったよね。ズラズラと偉人の思想を並べるんじゃなくてさ。
俺たちの直面する問題は、大体過去の偉人が冴えた回答をしてくれているのだから。
「はい、今日の授業は、『実は私は水槽に浮かんでいる脳みそで、この現実は夢なんじゃないか』についてです」
…ワクワクしてくるだろう!?
そこで『ゴゴゴゴゴ…』と圧倒的な感じでデカルト、カント、ブッダ、荘子とかの偉大すぎる賢者たちが教師の背後に浮かび上がるわけだよ!
これはもう…たまらないな!