脳の中のマリー

アントワネット的なことを脳の中で

話したいことの1割も話せていない人は、「小説のように話しているから」かもしれない

話したいことを上手く伝えられない。

最高におもしろい体験なのに、言葉にすると全くつまらない。

伝えたいことの1割も語れていない。

どうにかしておもしろさを伝えようといろいろ表現を工夫してみるけれど、やっぱりつまらない。相手のしらける顔に、あるいは博愛の表情に、さらに焦ってしまう。表現が上手くないのは語彙が足りない(と思っている)から、もっと凝った言い回しをしようとしてさらに話が難解に難解に。自分から始めた会話のはずなのに、出口が見えない。

そしてついに、「結局どういう話なの?」という死刑宣告を受け、「いや、そんなたいした話じゃないんだけど…」と屈してしまう。 

そんな経験がある人はたくさんいると思う。

先日、友人にこのような悩みを打ち明けたら、

「どうせあれでしょう。うまいこと言ってやろうとしてるんでしょう?」

「yajulくんは小説を書くように話してるんだよ」

と言われた。

つまり、自分の話は以下のような順序を踏んでいる。

  • 背景描写
  • 伏線
  • クライマックス
  • エピローグ

だから、

「集中して最後まで聞くととってもおもしろい。けれど聞き逃したり、何かわからないことが出てくるとおいて行かれちゃう」

 ということに、なってしまう。

また、最後のエピローグの余韻を重視するので、オチがものすごく説明不足だと。それまでの伏線をちゃんと理解していると、最後のオチで考えて、あぁなるほどとなって最高のエンディングを迎えられるんだけど、残念ながら人は他人の話をそこまで熱心に聞かない。だから俺の話は、話してるほうも話されるほうも不完全燃焼になってしまう。

これは俺だけでなく、小説や映画など長い話を好む人に陥りがちなコミュニケーションの罠ではないかと思う。子供の頃から上記の流れこそが「おはなし」だと信じてきたので、それを「話」にも適用してしまう。storyとconversationは別物であるのに、ついつい混同してしまう。

小説的な話し方がクセになっている人は、「なんだかよくわからないけどすごいね、きみって頭いいんだね」と反応されることが多い。皮肉で言われているのでなく、純粋に言われている。余計につらい。なぜなら、本来はもっとうまく、"小説のように"相手に感動を与えることができるはずだから。そう思ってしまう。

あるいは、コンテキスト(前提となる文脈)が一致する相手とだけ打ち解ける場合もある。よく似たバックグラウンド、よく似た嗜好、同じ体験、前提を共有できている相手と話すのはとっても楽。こういう相手こそ自分が求めていた会話相手なんだ!と思い込んでしまう。そういう相手と話すのは楽だけど、実のところ本当に一致しているわけではないので、ささいな違いが気になって気になって、最終的に大きくこじれることも少なくない。しかも、一歩踏み間違えると、他者を値踏みして「頭がいい/悪い」で人をふるいにかける恐ろしいこともやってしまう。

またさらに、小説的会話術の使い手は聞き役に回った時もうまくいかない。

いや、本当にうまくいかないんだよ。

なぜなら、聞き役に回った時にも「うまい言い回し/鋭い質問」を考えてしまうから。そしてそれに固執してしまうから。

だから、その質問を思いついた時点でその人の中で時間は止まる。

相手がそのあと何を話していたとしても、その「うまい質問」を温めるあまり、続きが耳に入ってこなくなっちゃう。

質疑応答で頓珍漢な質問をする人だとか、それまでの話の中にきちんと答えがあるのに勝ち誇ったように質問をしちゃうとか、そういう風になってしまう。心当たりがありすぎて胸が痛い!

だから、まず、会話と「おはなし」は別のものだと認識を。

そして会話においては、1割伝われば十分と考えて。

思いついたことを全部言っちゃだめ。

ひらめきは生まれるに任せて、忘れるに任せて。

うまいことはまた思いつく。

そう自分に言い聞かせつつ。

 

 

…っていう風に会話するとだめだからな!

ちゃんと「そういうところに気を付けないとね」って言わなきゃだめだ!

 ポエミーにぼかして会話を終わらせるのは美しいけどあんまりよくないぞ!

わかってるのか、俺よ!