脳の中のマリー

アントワネット的なことを脳の中で

千利休の役割と朝鮮出兵 それと、秀吉が好きになってきたこと

千利休とは何者で、何をして、なぜ処刑され、なぜそのあと秀吉が「暴走」したのか。

千利休といえば安土桃山時代を語るに絶対に外せない人物だ。というかそもそも「桃山」である伏見城のしつらえは利休好みに作られたので、彼こそが桃山文化とも言える。

しかし、千利休という人は何なのかはとてもわかりにくい。茶道の祖ということも、秀吉のアドバイザーということも、豪商であることも知られているが、いまいちそれら要素が有機的に繋がらないという人は多いんじゃないだろうか。

そんな千利休という人物について、個人的に腑に落ちる流れが見えたので、書いておこうと思う。もちろんこれは俺の推測であるので、確かな証拠があるわけではないのだが。

 

戦国時代後期に必要とされたもの

戦国時代の最終盤、信長が倒れ、秀吉がその後をまとめた時期に最も必要とされたのは、「戦国時代の後に必要となる統治のシステム」だ。これは日本の戦国時代に限らず、中国の春秋戦国時代項羽と劉邦の戦い、三国時代フランス革命後のナポレオンの台頭にも同じことが言えるけど、群雄割拠が収まるときは次なる統治のシステムが作り上げられる。あるいは逆に、そのようなシステムを備えた国が強国となっていくということでもあるだろう。

日本の戦国時代では、信長がそれを大いにやっていた。なので、秀吉は統治システムの多くを信長から流用しているはずだ。そうでなければ治まらない。

そして、日本の武家社会の統治システムの最大の問題は、「敵がいなくなったら武士はやることがない」ということだ。この欠陥が露呈したのが元寇だ。元の襲来を追い払った=功績を上げたのに、褒美(土地)がもらえない。防衛戦ゆえ、新たに土地を獲得できたわけではないので、褒美は出せない。武士の不満は高まり、結果的に鎌倉幕府が倒れる遠因になった。

続く室町幕府もこの問題を解決できていない。というか、室町時代で「よく統治されていた」のは三代足利義満の時代くらいなもので、後はひたすら混迷のるつぼだ。最終的に応仁の乱という形になって、室町幕府は破綻する。というか、室町幕府は内乱、反乱を平定することでその権力を維持してきたように見える。かろうじてコントロールされた戦国時代のようなものだ。反乱に勝てなくなったら、それが統治システムの終焉だ。

つまり、武家社会の「統治のシステム」のノウハウ蓄積が、ほぼ無い。鎌倉幕府崩壊から建武の新政の失敗、室町幕府のコントロール不足を経て応仁の乱から100年以上。ようやく「統治」が見えてきたというのが戦国時代後期。

これは半端でなく重要な時代だ。

隣の中国を見ても、安定した統治システムが作られるまで数百年はザラにかかる。あちらは三国時代〜隋、唐まで300年かかっている。日本もおよそ300年。ヨーロッパも、ローマ帝国が分裂してから神聖ローマ帝国ができるまで300年くらいかかっている(神聖ローマ帝国の是非はともかくとして)。おそらく、統治システムの刷新にはそれだけ時間と失敗をかける必要があるのだろう。

 

秀吉が選択した統治システム

では、信長の時代を経て秀吉が「全国を治める統治システム」として採用したのは何だろう。

…多分これは俺ごときが手を出せる問題ではないのだが!

おそらく秀吉は、「戦がなくなった後の武士たちへの褒美システム」に、茶の湯を使おうとしたのではないか。信長の時代から徐々に「茶道具の価値」が重視され始め、最終的に「国(領土)<名茶器」ということにもなった。茶道具の方が国よりもよっぽどいい。戦争よりも茶の湯で大成したい。古今伝授を始め、文化的な素養こそが大名の格を決める重要な要素である。という革新的としか言いようがない価値転換が起きた。

この間まで戦に明け暮れていた荒武者たちが、侘び寂びあふれる庵の中で居住まいを正して茶を飲む。そしてそれが戦よりも上位の価値になっている。戦場では勇猛で鳴らした男、いや漢たちが、故事や料理を身につけんと各地の師に弟子入りしている。

これはすごい。

や、確かに平安時代では恋で政治をしていた(部分があった)わけだし、そういう素地はあったのかもしれないが、この価値転換の破壊力たるや!

信長も秀吉も極めて優れた統治者だ。間違いなく、茶の湯を統治に利用しただろう。あるいは、意図的に茶の湯を権威づけたろう。茶の湯は経済と密接なつながりがある。茶の湯を嚆矢として、領土から経済に報酬システムを転換していこうと考えたのではないか。

千利休は、統治のための権威として、秀吉に侍っていたのだろう。秀吉が積極的に茶の湯を広め、利休を信頼して権威付けをし(当然利休本人の能力あればこそ)、それを諸大名に見せつけることで統治のシステムを内外に示す。刀狩りで農民の反乱を封じ、大名の私闘を禁じて反乱の芽を潰し、茶の湯を使って武士の価値観を転換する。

そういうことだったのではないだろうか。

 

茶の湯システム崩壊と、朝鮮出兵

しかし、やはり茶の湯バブルも長くは持たない。

千利休は処罰され、茶の湯ブームは露と消えた。

時を同じくして、秀吉の「暴走」が始まる。朝鮮(明)への出兵だ。

…のだが、茶の湯が統治システムであったと仮定すると、この朝鮮出兵は割と普通の、まっとうな政策だと思えてくる。戦争がまっとうだ言いたいのでなく、そういう流れになるのは不可避だよな、とね。

つまり、茶の湯を使った褒美システムが破綻したので、旧来の領土獲得路線に戻さざるを得なくなった」のだろう。

秀吉の個人的な領土野心だとか、ボケてきたとか、家庭の問題で頭がおかしくなったとか、そういうことがメインではないような気がする。

千利休が処刑されたのは、おそらく利休と茶の湯の権威が秀吉のそれを脅かし始めたからだろう。統治のシステムとして使っていたはずの茶の湯が、秀吉の権力に迫り始めた。秀吉が権力の象徴として作り上げた黄金茶室を、利休という権威が否定したことはその好例だろうと思う。これは利休だからこうなったのでなく、利休以外でも必ずこうなる。だからこそ、秀吉は茶の湯システムそのものを諦めざるを得なくなった。

権威と価値を利用した統治に失敗した秀吉は、権力を維持する方法を新たに作らねばならない。

そして、最もわかりやすい価値、「土地」に立ち戻った。戻らざるを得なかった。

明を攻略し、その攻略の過程で得た地を褒美として、武家のシステムを延命させる。

華麗に価値転換を成し遂げた秀吉にとっては大きな大きな後退なのではなかったか。

そう考えると、今際の際に家康に涙ながらに「秀頼を頼む」と言い残したその涙の訳も、以下のの辞世の句も、より重たく感じられるのではないだろうか。

露と落ち 露と消えにしわが身かな 浪速のことも 夢のまた夢

その後、「武家の統治システム完全版」を成し遂げた家康の辞世は、こうである。

嬉しやと 再び醒めて一眠り 浮世の夢は 暁の空

夢を追い、夢に追いつけなかった秀吉と、「もっかい寝て夢の続き見るか!」と二度寝する家康。

道半ばで倒れた者と、それらの積み重ねの末に成し遂げた者の対比がされていると思うのは俺だけではないはずだ。

 

何か、秀吉がとても好きになってきたぞ!