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脳の中のマリー

アントワネット的なことを脳の中で

コンボイ司令官に教えてもらった、日米の「力」の違い

アイディア

 

日本人は、もしかすると、「本能主義」が強いのかなと、思っている。

闘争本能だとか、野生の勘だとか、厳しいトレーニングを積んだ体が勝手に反応する、みたいな話はいろんな媒体で目にする。スポーツ中継でも「最後は気持ちでしょうねぇ」という解説があったり。

もちろん俺はそれほど外国の事情に通じているわけではないから明確なことは言えないが、日本人は「本能」にかなり重きを置いているのではないかと、なにかにつけ思う。例えば創作における「覚醒、血統、才能」であったり、精神論にも通じるような気がしている。別にそれが悪いと言っているわけでなく、つながりがあるのではないかということだ。

「日本人は本能重視」について考えたきっかけは、コンボイ司令官だった。

俺が中学生の頃に、「ビーストウォーズ 超生命体トランスフォーマー」というアニメが放映された。コンボイ司令官らサイバトロンの戦士とメガトロン様率いるデストロンが未開の惑星で動物たちに変身しながら戦いを繰り広げるというストーリーなんだが、これが非常に面白かった。今にして思えば、演じた声優さんたちの悪ノリがちょっと過ぎる部分があるけれど、当時の俺達はそれも含めて最高に楽しんでいた。だからあれはあれでよいのだろう。

ちょうどこれを書いている今日、Youtubeタカラトミーチャンネルで配信が開始したらしい。何と言う奇遇!今年でビーストウォーズが20周年ということらしい。

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で、この作品で、コンボイ司令官はゴリラに変身する。

ゴリラだ!

なぜゴリラ!?どうしてゴリラ!?他に選択肢はなかったのか!?

メガトロンはティラノサウルスなのに!

もっとこう…ライオンとか、そういう選択肢はなかったのか!?と当時ものすごい混乱した。

このゴリラコンボイの衝撃は忘れがたく、コンボイを思い出すときは必ず「なぜゴリラなんだ…」と思索せずにいられなかった。

 

しかしそれから10年以上立って、ようやく閃いた。なぜ俺の、俺達のコンボイ司令官がゴリラなのか、やっとわかる時が来た。そしてそれをきっかけに、様々なことが腑に落ちた。まさに十数年越しのアハ体験。雌伏の時は長かったぞ!

ひらめきのきっかけは、アメコミのキャラクター、ゴリラ・グロッド

その圧倒的な佇まいに俺は万物の霊長の座を明け渡したわけなんだが、このゴリラ・グロッドを皮切りに、アメコミにはゴリラのキャラクターが多いことに気づく。

WikipediaにもGorillas in comicsという記事があるくらいに、ゴリラキャラがひしめいているのだ。そしてこのゴリラたちのキャラクター性を見ると、何気にどいつもこいつも頭がいい。このゴリラ・グロッドはGenius-level intellectを備えているとあり、つまりこれはアメコミ会で最も悪辣な頭脳を持つレックス・ルーサーと同程度の知性ということだ。すげぇ!

というかそもそも、アメコミに最初に登場したスーパーヴィラン(超能力を持つ悪役)は、何を隠そうゴリラだ。ウルトラ・ヒューマナイトという名で、悪の天才科学者が自らゴリラと化し、スーパーマンに襲いかかるわけだ。その登場は実に1939年。バットマンと同期だ。(レックス・ルーサーは1940年に登場)

悪のゴリラばかりでなく善のゴリラもいる。いずれも力と知性を兼ね備えた、まさに霊長としての威厳を感じさせるキャラクターたちだ。と思う。や、俺もすべてを確認したわけではないからな!

そういうわけで、コンボイ司令官がゴリラと化した背景が理解できた。

少なくともアメリカにおいては、ゴリラは「力と理性を兼ね備えた動物」という認識であるようだ。力と優しさ、そしていい考え知性を持つ司令官がゴリラに変身するのは自然な成り行きだ。

このゴリラ観から見ると、「キングコング」は「やべぇ怪物が現れたぜー!」というパニック映画であると同時に「ゴリラの悲劇」という見方もできるようになるし、「猿の惑星」も(ゴリラじゃないけど)ゴリラなら支配されてもしょうがねぇなという感覚が生まれてくる。「猿の惑星 創世記」で最高の活躍を見せてくれたゴリラへの愛着もより強まると言うものだ。

そんなゴリラコンボイの敵となるデストロン軍団は、これがまた見事に闘争本能に支配されている肉食な奴らばかりで俺の信頼はMAXなわけなんだけど、この図式からすると、「理性ある力」が正義側で、「本能のままに振るう力」が対立側となっている。他のアメリカの創作作品においても、「理性なき力」は悪とされることが多い。エイリアンは純然たる敵対者で、プレデターは味方になる(こともある)というのもそれだろう。

方や日本はどうか。日本では、「理性ある力」はそれほど評価されない。というより、「純粋な力」「人間などには制御しきれない力」が人気だ。

奇しくも先の「ビーストウォーズ」の後に日本で制作された「ビーストウォーズII 超生命体トランスフォーマー」では、コンボイ司令官はライオンに変身する。純粋な本能の力の象徴だ。

アメリカ制作:ゴリラ

日本制作:ライオン

という違いにはうならされた。これは、面白い!

このような違いの背景には、文化的な相違があるのだろう。本能を制する理性の輝きを重視するか、何者にも縛られない本能を重視するか。それは日本が天災の多い地域だったからかもしれない。また、アブラハムの宗教を生み出したユダヤ人が知性と理性を総動員しなければ生き残れなかったからかもしれない。

このことから、いくつもの事柄が腑に落ちた。

なぜ日本のキャラクターは少年少女なのか?

なぜアメコミヒーローに子供は大人なのか?

「ロリキャラがマッチョより強い」というのは、少女という「自然」への畏敬の念なんだろう。何も調整されていない、あるがままの存在としての少女に強大な力を見るのは日本においてはとても自然なことなのだ。対してアメリカでは、未熟な理性に強大な力を持たせるのは危険、と見ている。アメコミにもティーンのヒーローはいるけど、彼/彼女らは己の未熟さに悩んだり、未熟ゆえの失敗を繰り返して成長していく姿が主に描かれている。シャザムさんは結構ひどい扱いだぞ!

この両者の「力観」の違いは、どっちが良いというものではないだろう。悪くいえば、日本は力に対して無責任だし、アメリカは自然を力で支配しようとしていると言えてしまう。実際そう言われることも多い。しかし、いずれの態度も間違ってはいない。

キングコングは悲劇として描かれ、俺達に責任を意識させ、

ゴジラ人智を超えた災害として描かれる。(ゴジラがどんどん「いいやつ」になったのは自然な成り行きだと思う)

クジラやイルカの保護に関する様々な問題も、両者のスタンスの違いを考えると納得できてしまうのだ。