アラビア書道万年筆でシッダマートリカーが7000倍身近になる
前回の記事(↓)に引き続き…シッダマートリカーについて語ろう…!
そろそろ「シッダマートリカー」という単語にも聞き慣れ、生活の中に自然と溶け込むくらいの感覚にはなっている頃だろうと俺は確信しているが!
シッダマートリカーを知り、それが「普通に書けるものである」とわかった後は、もう普通にシッダマートリカーに接することができるようになる。
シッダマートリカーは、漢字のように文字を構成するパーツが共通していると同じ発音を含むというタイプの文字なので、「この文字のこの部分は他でも見たことあるなー」と気づいていけば、初めて見るシッダマートリカーでも「母音はaかな?」などと予想をしていくことができるのだ。
そのように見ていくと、シッダマートリカーがググっと身近になり、見る目ががらりと変わるのだ。
畢竟、それは人生が変わったことを意味する。
わずか数分~数十分シッダマートリカーについて学ぶだけで、日本文化の根幹をなす仏教について新たな視点を得られる。
これは大変な教養だぜ…!
しかもシッダマートリカーは文章としてではなく、文字単位で人の目に触れることから、入門するハードルは非常に低い。
好みの仏様をチョイスして、その仏のシッダマートリカーを書いてみるだけでも十分なのである。
そういうわけで、シッダマートリカーは「梵字」というハードルが高そうなところに置いておくのではなく、シッダマートリカー…かっこいい!くらいのライトさで入っていけばいいと思うのだ。
というわけで…俺も日々手帳やらなんやらに書きつけている。
俺は絵も描けないし、センスがあるわけでもない人間なので…
「手帳に梵字やルーン文字を書いている男」という個性を引き出したいというところだ!
まぁ手帳は人に見せないけれどもな…!
今回は、そのシッダマートリカーがより身近になる、万年筆型のアートペンを入手したので紹介をしようと思う。
シッダマートリカーに最適なアートペン
それがこれだ!
アラビア書道ペン!
もしくはイスラム書法ペン!
構造は万年筆と同様だけれど、その奇怪なペン先が圧倒的な違和感を俺の脳の中に撃ち込んでくる!
こちらはAliexpressで入手したのだけれども…完全にひとめぼれだったね…!
「金星オールメタル万年筆ゴシックアートペンアラビアペルシャ mijit 書道ブラックゴールデン 5 ミリメートル多機能先のギフト」
完全に意味が分からないが、言わんとしていることはなんとなくわかるというAliexpressあるあるな品名だ。
ちなみにこれを扱っている店舗はボビーの店ではない。無念。
中国もそうだけど、イスラム圏と言えば、それはもうかつては地球の文化を一身に担っていたといっても過言ではないくらい洗練された文明国だったわけだから、当然ながら書道、書法についても発達していたわけだよ。
すると当然、そのための筆記具というのがあったはず。
考えてみればこういうペンがあるのはごく自然のはずなのだが、「え、こんなのがあるんだ!?」と思ってしまう。
己の不明を嘆くばかりだな!
しかしともかく、今ここで認識したのだからあとは体験して楽しみ、その文化を肌で感じることだけだ!
さっそくこのアラビア書道ペンを見てみよう。
当然ながら俺はアラビア語は全く書けないから、そこはこのペンに申し訳ないが…!
まず外観。
黒いペンもあったのだが、俺の中でイスラームは金のイメージなので。
長さはパイロット社のカスタムシリーズとほぼ同じ140mm。
直径は10mmかな。
ペンとして、とても一般的なサイズだ。
ペンクリップはバネ構造になっていて、キャップの天冠あたりからぐっと開く。
おー、しっかりしてる。
このペンは持ち歩かないような気もするが、それはそれ。
嬉しいことに変わりはないのだ。
(追記:便利すぎてめっちゃ持ち歩くようになってしまった!)
ちなみにこれ、キャップをはめる場所にネジが切ってあるけれど、キャップは普通に勘合式である。パチっと止まる。
なぜネジ切ってあるのだろうか…。他の製品との共用なのかな。
ネジは深くないので、手に当たって痛いということはないと思う。
こちらがペン先。
ぐっとズーム。
本当これ、面白いでしょ。
パラレルペンを90度角度を変えた形。
パラレルペンでシッダマートリカーはもちろん楽しく書けるのだが、一般的な筆記姿勢ではなく、手を巻き込んだ形にしないと上手く書けないという欠点があった。
この角度でしかうまく書けないのだ。
でもこのアラビア書道ペンでは、
このように自然な角度で書ける!
俺がひとめぼれしたのは、「これならシッダマートリカーが自然な姿勢で書ける!」と思ったからだ!
最高だろう…?
こちらが裏。クール極まりないな…!
よく見ると、ペン先は一枚の板を折って作られていることがわかる。
なるほどそういう構造なのね。二枚の板を重ね合わせているパラレルペンとは構造が違ったのだ。
書いてみるとこういう感じ!
ごん太である。太い!
ペン先かっこいいからテンション上がる!
ちなみに、鉤状になっているペン先からうすうす気が付いた人も多いと思うけれど、
ペン先をひっくり返して逆側で書くことも可能。
一段階細い線が引ける。
便利!
両側とも、非常にスムーズな書き心地で、ひっかかったり紙を削るような感覚は全くない。
でも、ペン先を神紙に対して垂直に当てないとインクが出ないので、ちょっと慣れが必要。一瞬で慣れるし、早書きするようなペンでもないので、ここは気にならなかった。俺はね。
パラレルペンと違い、ペン先がしならない(板を折り曲げているから)のが特徴かな。
かなり道具然とした感じだ。
縦画。
これが細い!
素晴らしい細さ。これは両側どちらも幅は一緒。
この縦画の特長として、「直線を書くのが非常に楽」というのがある!
フリーハンドで直線を引いても、そんなにブレ…まぁブレてはいるが!
そこは俺だからな!
…まぁなんというか、こう…と、とにかく楽に引ける!
なので、バレットジャーナルみたいにノートの枠線まで自分で引くようなノートの使い方をしている人にとっては、このペン一本あるといろんな使い方ができそうだ。
シッダマートリカーを書くもよし、罫線を引くもよし、カリグラフィーもよし、アラビア文字もよし、ラインマーカーとして使うもよし。しかも万年筆用のインクが入れられる(コンバーターは最初から入ってる)。
まさに万能。ペンケースに一本入れておきたくなるな!
これを手に入れてからというもの、すっかりペンケースの一軍に居座ってしまい、毎日何かしらの形でお世話になっている。
線を引いたり、装飾したり。
すると当然、手帳のどこかにシッダマートリカーを書きたくなるわけで。
まさにシナジー。俺にとってはうってつけだ。
直線を簡単に引けるので、ルーン文字とも相性がいい。
このペンは…長く「第二のペン」として俺を助けてくれるような気がするぜ…!
アラビア語も、勉強してみたくなってくるな…!
日本語、シッダマートリカー、ルーン文字、アラビア語というわけのわからない手帳になるが…楽しいじゃないか!
Aliexpressに抵抗がない万年筆野郎…人は、これを体験してみてほしいな!
たのしいよ!
とりあえず、ノータイムでシッダマートリカーだ。
人間というものは…その人生の中で「あぁ、梵字が書きたい…!」と思う瞬間が、脳の中に必ず訪れるようになっているものだ。
残念ながらな。
これは真理だ。
俺がそうだったし、俺の母親がそうだったし、そして君もそうだ。
そうだろう。
真理だからな…。
とはいえ、ここで梵字の持つ圧倒的なスピリチュアルパワーだとか、「梵字で般若心経を写経せよ。さすれば汝には永遠の幸せが即時絶対的決定のもとに約束されるのだ…!」と熱く語るつもりはない。安心してほしい。
俺が語りたいのは、人生に訪れる刹那、そう、「梵字かきてぇ…!」と思う普遍的な真理の話だ。数年に一度訪れる「なんか猛烈にマック食べたくなってきた…!」みたいな、そういうライトな話をしたい。
しかしとりあえず、梵字(ぼんじ)について少しばかり話す必要はありそうだ。
まずは、そこからいこう。
梵字はサンスクリット文字…とは微妙に違う
梵字と言えば、何やら呪術的なパゥワーがありそうな雰囲気がそこはかとなくしてくる。
記事冒頭の画像みたいなアレだ。
なんか怖いというイメージがあるかもしれない。
「サンスクリット語のことだよね」と知っている人もいると思う。
何となく見たことあるけど、あんまり突っ込んで調べたり聞いたりしたことがない、という人が大多数だろうと思う。
最初に言っておくと、梵字というのはあくまでも文字だ。漢字やひらがなと同じ、生活の中で使われている文字なのである。
だから、俺たちが「あ」という文字を見て「これは安心の『あ』だから、この文字を書いておけばきっと安全だよ!」と思うことはないように、梵字そのものを過剰にありがたがったり、怖がったりする必要はない。
(もちろん、書道家の書く「あ」に感動することもあるから、全く無味乾燥なものでもない。梵字は仏様を表す記号にもなっているので、梵字を通じて仏様を身近に感じるのも大いにOK。そのあたりのバランス感覚は持っておきたいね)
梵字がサンスクリット語というのも間違いではないのだけれど、ざっくりいうと「梵字はサンスクリット語の表記をする文字」と言える。
もともとサンスクリット語という言葉があって、それを書き記すために梵字がある、という感じだ。
例えば縄文弥生時代の日本人は日本語(の原型)をしゃべっていたが、文字はなかった。それで中国から漢字を借りてきて、「日本語を書き記す」ことができるようになった、というような話と同じだ。
なので、「梵字」と「サンスクリット語」は微妙に出自が異なるわけだな!
その梵字は、サンスクリット語で「シッダマートリカー」と呼ばれている。
「シッダマートリカー」は「完成された文字」という意味。
非常にかっこいい。「ぼんじかきてぇ!」よりも「シッダマートリカーを記すべき時が来たようだな…」とつぶやく方がぐっとくる層は確実にいるはずだ。
あぁ、俺もだ!
で、そのシッダマートリカーが仏教経典を記すのに使われ、三蔵法師が中国に持ち帰って「悉曇文字(しったんもじ)」と漢字に訳され、それを空海さんが日本に持ち帰ったというわけだ。
日本の高僧たちも、この悉曇文字の勉強をするらしい。
というか、世界的に悉曇文字を勉強してるのは日本のお坊さんくらい、という話も聞いたことがある。
なのでこの日本に生きる俺たちが、梵字…いやシッダマートリカーの資料を最も手に入れやすい環境にいることを改めて認識していこう。
シッダマートリカーは俺たちの手の届くところにあるのだ…!
シッダマートリカーに目覚めたら
そういうわけで、人間はシッダマートリカーに覚醒する瞬間(とき)がやってくるものだ。
人生に行き詰った時、コーヒーとローストビーフサンドウィッチを食べている瞬間、駅のトイレで用を足しているとき…
人間はシッダマートリカーを求めるものである。
「んなわけないだろw」と笑う人にも…この瞬間は訪れるのだ。
残念ながらな。
求め方は人それぞれだ。
超絶なスピリチュアルパワーを全身全霊で熱くアグレッシヴに求める人もいるし、
癒されたい人もいるし、
敬虔な想いから書きたくなる人もいる。
あるいは、恋人と通話していて何となく手持無沙汰で、手近にあった紙にシッダマートリカーを書きたくなる瞬間も訪れる。
海外のすごいカリグラフィー動画を見たときなんかにも、「いや…まだだ!俺たちにはシッダマートリカーがある…っ!」と心の底で対抗意識を燃やした人もいるだろう。
俺だ!
だが、書けない。
…なぜだ?
こんなにもシッダマートリカーを求めているというのに…!
この恐るべき理不尽に身を焦がしたことは誰にだってあるはずだ。
そして、そこであきらめ、また人生の澱の中にシッダマートリカーへの情熱が沈んでいく…。
俺たちはいったい何度これを繰り返したことか…。
うまいことしか言えない呪いにかかった詩人ゲーテは、人生の要素は以下の二つだと言っている。
「やりたいけど、やれない」「やれるけど、やりたくない」
くっ…このゲーテ野郎…!反論しづらいことしか言わねぇ!
どうなってるんだこのオッサンは…!誰かこいつを止めろ!俺がもたねぇ!
そんなゲーテに負けてはいられない。
いつまでもシッダマートリカーをあこがれの存在に置いておくのはゲーテのオッサンの掌中のままだ。
これは危険だ。
俺たちは決意をもってシッダマートリカーに挑まねばならない。
では、シッダマートリカーを書いてみよう
…という話にはならないのだが!
すまん。
シッダマートリカーの書き方を語り始めると割と大変だし、すでに書き方はあちこちにあるのでそちらを参考にしてもらうとして…。
例えば以下のサイトとかね!
やはり、90~00年代のwebは熱いな!
で、やっぱりシッダマートリカーを書くにあたっての一番の障害は、「筆記用具がない」ことだと思う。
ボールペンではそれっぽくならないし、かといって筆ペンも扱いが難しい。
ゲーテのオッサンに抗って「書こう!!」と決意しても、「じゃあ、どうやって?」という厚い厚い壁がそびえ立ってしまう。
これは危険だ。
そういうわけで、ここでシッダマートリカーを書くための筆記用具を紹介しようと思う。
こちら。国産筆記具メーカーのパイロット社がカリグラフィー用に出している、パラレルペン。
大きめの文具店にはだいたい売ってると思う。
このパラレルペンを使うと、こんな感じにシッダマートリカーを書けるようになる!
これが…俺たちが求めていたシッダマートリカーだろう…?
いや、俺はまだまだ下手だけれども、それでもこのように、それっぽく書くことができる!
そして、とりあえずはそれっぽいだけでも十二分に満足することができる…!
このパラレルペンは字幅がたくさんそろっているし、インクカートリッジもそこそこの色があるし、付けペン的にも使えるので、シッダマートリカーを書く以外にも用途は広い。ラインマーカーとしてつかうのもいい。
お勧めするぜ!
ちなみに、こういうペンを使ってシッダマートリカーを書くのは古来から行われてきたことで、このパラレルペンのような幅広の筆のことを「朴筆(ぼくひつ)」という。
このパラレルペンでシッダマートリカーを書くときは、ペン先を巻き込むようにして持つといい。ちょっと疲れるけど、何文字も書くものでもないからね。
そしてこれがあれば、超おしゃれなカフエーで最高におしゃれなノートを広げながら人生の深い闇にため息をつくその瞬間に、さっとシッダマートリカーと書きつけることができるのだ。
シッダマートリカー自体にパワーがあるのかはわからない。
でも「シッダマートリカーを書けてしまう自分」に、ちょっとフフッとなる。
それが人生の豊かさというやつの一端に、繋がっているような気がしてくるのだ。
多くの人は、シッダマートリカーを実際に書こうとは思わないだろう。
だからこそ、シッダマートリカーを書いてみる価値がありはしないか…?
長い人生の刹那の一瞬をシッダマートリカーで埋めてみるのもいいかもしれない。
俺たちには、やれるわけだし。
ボビーって…誰なんだ…?謎の「ボビーカスタム アーキテクトニブ」を体験した
万年筆の話である。
そして、今から俺が語るのは、ボビーの話だ。
ボビーというのはつまり、ボブであり、時にはバーティーであり、バートであったりロブであったりする英語の名前のことだ。そしてそれらはすなわち「ロバート」の愛称である。
「ロバート」と聞けばなんかちょっと知的な長身男性が思い浮かぶのは俺だけだろうか。
そして「ボビー」となると屈強なタフガイしか思い浮かばない。
これは危険だ。
名前のイメージに惑わされてレッテルを貼りそうになってしまう。
ボビーについて語るには、まずこの先入観から捨て去らねばならない。
ボビーとの出会い
正確に言えば、俺はボビーとは出会っていない。
…当たり前だが!
まずは経緯を話そう。いきなりボビーとか言われても全く分からないからな…!
先日…この恐るべきコロナ禍の中で、俺はついに海外通販に手を出してしまった。
Aliexpressである。説明は省くけれども、「中国の楽天」と思ってもらえればそれで大丈夫だ。大きなオンラインモールがあって、そこにいろんなお店が出店している。
で、何せ安い。
凄まじい安さだぞ!
Tシャツが234円とかで売っている…。
まぁ、「ペラッペラだぞ!」とかレビューに書いてあるので「だろうな…」という感はあるが、それでもこの膨大な商品の山から宝を探すのは楽しいものだ。
で、とりあえず何を探そうか?お決まりの中華スマホなどでも巡ってみようか?と思ったのだが、別にスマホに困っていないのでさほどモチベーションもわかない。
もっとこう…妖しくてなおかつテンションが上がる商品はないか…?
と思った時に、やはりこれは万年筆ではないか、と思ったわけだよ。
中華万年筆。
危険な香りである。
いや、まぁ俺はすでに何本か所有しているし、最近はamazonへの進出も著しく、意外と名の通った存在になりつつあるのだが。
そういうわけで中華万年筆の本場では一体何があるのかと考え、日夜検索していた。
ぶっちゃけて言えば中華万年筆はだいたい何かのパクリだったりするのだが…中華万年筆界隈においては、わけのわからんニセモノがひたすら跋扈しているというわけではなく、「出自のはっきりしているちゃんとしたパクリ商品がある」というような感じだ。
なんだよそれ…と思われるかもしれないが…。
デザインはものすごいパクリではあるけれど、ちゃんと独自のブランド名を名乗っているというか…。
ロゴを「ROREX」みたいにするのではなく、あくまで独自のブランドを名乗りつつ、製品は大いにパクっている、みたいな。
罪の重さは変わらないかもしれないが、なんというか、こう、うーん、「そのブランドを見ればすぐにコピーとわかる」という点では一抹の擁護の点が見つかるのでは…というか…
まぁ、この辺の是非についてはここでは語らないでおこう。
もちろん、ごく少数だけどパクリではなくオリジナルを作っているところもある。
それにまぁ、日本の国産万年筆だってドイツのモンブランのパクリでしょみたいな話にもなりそうでちょっと、こう、大変な話になっちゃうからね!
ボビーの話に戻ろう。
そう、俺はボビーの話をしたいんだ。
これは長い話になる。
そのうえ、たいして実りのある情報はない。
すまない…。
で、Aliexpressで「ちゃんとしたパクリ製品」の海の中をかき分けていると、なんだかところどころに「ボビー」という名前がある。
最初は、Aliexpress特有の訳しきれていない怪しげな日本語なのかと思ってスルーしていた。
しかし、何か気になる。
ボビーはボビーのはずだ。英語でBobbyだ。何かを誤訳してボビーになることはないだろう。
ということは、製品名に「Bobby」と書かれているということだ。
ボビーって誰なんだよ…。
俺もそこそこ中華万年筆に詳しい男だが、「ボビー」は知らねぇ!
ボビーってブランドなのか!?
そ、そのブランド名でイケると思ったのか!?
誰だよボビー!
気が付けば、寝ても覚めても「ボビーって誰だよ…」と考えてしまっていた。
俺は脳の中をボビーに支配されてしまったのだ。
ボビーの扱う製品は
何となく、今更「君の名は」に寄せてボビーを語りたくなったけれども、ボビーはすでに明確にボビーなので、名を尋ねる必要はない。ボビーって最初から名乗ってるだろ!と言われて終わりだ。
ボビーであることはよくわかっている。
その中身が知りたいのだ。
だから「ボビーの名は」とか、そういうバカなことを考えても結局は「ボビーって誰だよ」にしかならない。
すまん。
で、ボビー製品をつぶさに見ていくと….
どうやらボビーは会社名やブランド名ではなく、「ボビーなる人物がカスタムした万年筆」であることは分かった。
万年筆は古い製品なので、さほど技術力は要しない…というと怒られてしまいそうだが、ボールペンよりは加工が簡単なのは間違いない。
だから、万年筆をハンドメイドする人とか、改造する人とかは結構たくさんいる。
どうやらボビーは万年筆をカスタムしている職人の名であるということまでは分かった。
ボビー捜索
ボビーがカスタムした万年筆のことはいくつかのフォーラムで語られていたが、何者なのかという情報はなかなかつかめなかった。
そもそも、Aliexpressにボビーカスタムを出品している人がボビー本人なのかわからない。Etsyにもボビーカスタムは出品されているのだが、出店している店舗の名前が違うのだ。
となれば、ボビーなる人物は表に出ず、闇の万年筆業界に潜んでいて、そこからボビーカスタムが細々と出荷されているのかもしれない。
あるいは、万年筆をカスタムせしめんとする謎の秘密結社が存在して、彼らがカスタムしたものが総じて「ボビー」という名を冠しているのかもしれない。
謎が謎を呼び、ついに俺の精神が月刊ムーの境地にまで達したとき、ふとしたきっかけからボビーの足跡を見つけることに…
というか、ボビー本人が「私がボビーです」って言ってるのをダイレクトに見た!
…すごいあっさり解決しちゃった…。
謎ってのは…そういうもんだよな…。
ボビー、その真実
真実も何もない。
ボビーはボビーで、ボビーと名乗って万年筆をカスタムしていた気のいい青年ボビーだった。
それだけだ。
しかし俺にとっては逸れこそが求めていたもの!
ついにボビーとの邂逅である。
一体どういう経緯で俺はボビーを見つけ出したのか…!
普通にYoutubeで検索したら、思いっきりいたじゃねーか!
BOBBY PEN!!!
なんか想像以上に好青年だった!
屈強なタフガイを想像していて申し訳なかった…!
…でもこれは本当にボビー本人なのか?
全然別人だったら?
まだ完全に喜ぶには早い…!
と当然の疑問がわいたので、しばらくYoutubeでボビー周りの情報を探ることに。
で、この動画のコメント欄で、ついにこの青年がボビーその人であることが明らかとなった!
そのコメント欄でのやり取りがこちら。
あ、俺は一切登場しないです。当たり前だけど。
これで、この青年がボビー本人であることとインスタのIDがわかり、インスタからEtsyに出している店舗名、Aliexpressに出している店舗名がわかった。なんで店舗名を一貫させないんだボビー…。
そのボビーがYoutubeに挙げている動画がこちら。
確かにニブのカスタムをしている。
終わってみれば何のことはないが、ボビーはボビーであり、ボビーとして活動し、ボビーがボビーカスタムを作り、ボビーが売っているということまでわかった。
何か満ち溢れたものを心に感じながら、俺はAkiexpressでボビーカスタム建築家ニブを注文したのである。
建築家ニブってなんだよ…
万年筆の各パーツには当然ながら名前があり、「ニブ」というのはペン先のことだ。いわば万年筆の心臓部であり、万年筆を万年筆たらしめているアレのことだ。
で、そのニブの形状によって、「太字ニブ」とか、「クロスエンペラーニブ」とか、そういう名前がついたりしている。万年筆マニアたちはだいたいこのニブにこだわる。そういうわけで、ニブをカスタムするボビーのような職人に需要が生まれるというわけなんだが…。
建築家ニブってなんだよ…。
え、なに、ステッドラーみたいな、製図用という感じの?とか思ってしまうよな。
でも本当に、建築家ニブってのがあったらしいぜ…!
つまりはアーキテクトニブ
Aliexpress一流の謎翻訳によって「Architect nib」が「建築家ニブ」とされてしまったようだ。
それならば検索に結構ヒットする。
様々な情報を統合すると、
アーキテクトニブというのは、万年筆の軸方向に長くペンポイントを調整することで、
・縦画は細く
・横画は太く
・左払いは太く
・右払いは細く
なる特徴を持っているとのことだ。
ラインマーカーを思い浮かべてほしい。
ラインマーカーのペン先は角ばっているから、ペンの持ち方によって極端に細くなったり太くなったりする。それの万年筆版みたいな感じだ。
万年筆の場合はペンの持ち方は変えられないから、常に固定されたラインマーカーのような書き味になるわけだ。
万年筆で言う「スタブニブ」の90度回転バージョンといおうか。
なんでこんなことをするのかというと、これは日本の万年筆メーカー「セーラー」の「長刀研ぎ(なぎなたとぎ)ニブ」のインスパイアという説もあるし、アラビア文字を書くためのペンから派生したものだという説もあった。どちらなのかは俺にはわからないけれども。
いずれにしても、これは面白そうだな!
そういうわけで、ボビーカスタム建築家ニブを体験した
ボビー捜索を通じ、完全にボビーファンになった俺は、ボビーカスタムの到着を心待ちにしていた。
人間は、長く追い求めたものに心を奪われるものである。
心を奪われたから長く追い求めるのか、
「長く追い求めたのだから、これは素晴らしいのだ」という認知バイアスが俺にそうさせるのかはわからない。
ともかく…俺はボビーを…ボビーカスタム建築家ニブを…求めているッ!
Aliexpressの恐るべき配達制度に翻弄されつつも、俺は到着を待った。
実に3週間。
割と早い方かもしれない。
そういうわけで…手に入れたのがこれだ!
実に貧相な文字でボビーに申し訳ないが、ボビー本人の字も割と…かなり…親しみの持てる字なので、そこは大丈夫だな!
見ただけだとあまりわからないかもしれないけど、これがかなりクセのある書き味でね!
慣れるまでは「かっこいい文字」を書くのが大変だ。
多分これ、行書を書くとかなりいい感じになるのではなかろうか。
俺はセーラー社の「長刀研ぎ」などはとても買えない(5万円くらいする!)ので、何とも言えないところだけれども…持っている人の情報をいろいろ見ていくと、このアーキテクトペンと似た要素がかなりあるんじゃないかと思われる。
長刀研ぎというか、これは同じくセーラー社の「クロスミュージック」に似ているのかな。(こちらは8万円だ!手ごわい!!)
もちろん、セーラー社のペンは金を使っているし、装飾も美しいのでその値段は妥当なところだけれどもね。
しかし俺は…この物語を通じて…ボビーのHuge Fanと化してしまったので…
俺はこのボビー建築家ニブを楽しく使っていくことにしようと思う!
多分、この話は全然意味のない話だと思うし、ここまで読んでくれる人はまずいないとは思うけれども…
ボビーの正体を知れたことがことのほか嬉しくてね…!
ついついこうして…書いてしまったというわけだよ…!
爽やかなハッピーエンドとして見る映画「ミッドサマー」
( Midsommar | A24 )
映画「ミッドサマー」を見た。
いやぁ、すごい映画だった。
「北欧スウェーデンの小さな共同体を舞台とした閉鎖環境ホラー」
「随所にルーン文字が登場し、舞台装置の一つとなっている」
という情報だけで見に行ったのだけれども…。
閉鎖環境モノの常として、それはまぁ、おおよその展開は予想できていたが…
ショックはでかかったね!想像の上を行く!
うむ!
「北欧」というワードだけで見に行こうと思ったのなら、それはやめておいた方がいい。
ものすごいグロ描写が出てくるからだ。中盤差し掛かりのところで…近年まれにみるというか、ホラー映画でもそこまでやらないよ!?という見せ方をしてくるので、覚悟は必要だぜ。
しかもホラー映画のように薄暗い中で行われるのではない。真っ白な日差しの中で、暖かい眼差しとともに行われるのだ。
うーん。すごいな!
で、これからその衝撃が冷めないうちに感想を書いていこうと思うのが…
多分結構なネタバレは含むと思う。いや含むな!大量に!
もし、グロやショッキングなシーンにもめげず「それでもこの名作を見よう」と思った人は、見てから読んでほしい。(あ、大きな音で驚かすシーンはないよ)
そう、端的に言ってこの映画は名作だと思っている。
そして、これはハッピーエンドで終わる。
皮肉じゃなく、本当にハッピーエンドだ。
…と、俺は思う。
ともかく、見てよかった!
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万年筆のフォルカン(FA)を使い続けて気づいたことを書いてみる。
(文字に特に意味はないです)
「大学に合格した*1んだし、万年筆を買ってくれ!」
と、両親に謎のお願いをしてから20年、万年筆を使い続けてきたのだが。
その最初に買ってもらった万年筆はすごくよくて、10年くらいその万年筆を使い続けたあと、他の万年筆を少しづつ試すようになって今に至る。
それでここ1年くらいずっと使い続けているのがこの万年筆。
ただ万年筆、と一口に言っても、いろいろと種類がある。
俺たち人類の祖・アダム父さんのお仕事が「全てのものに名前を付けること」であったように、人類が認識するすべての物には名前が付けられている。
この万年筆もそう。ちゃんと個体に名前がついている。
そういうわけで、この万年筆の名前は…「カスタムヘリテイジ912」だ。
フォルカンじゃないのかよ!?と思われるかもしれないが、一つ説明をさせてくれ。
万年筆は基本的には、製造会社と、全体のフォルムを指す名前と、万年筆の命ともいえるペン先の種類、この3つの名前を総合して呼ばれる。
まぁ車みたいなもの。大まかな車体と、ターボ付きとかそういうオプションで名前に変化があるような感じだ。
「アーマードコア」シリーズで、カラサワと呼ぶかWH04HL-KRSWと呼ぶか、みたいなものだな!…伝わらないな!
それで、この万年筆の名前は
Pilot カスタムヘリテイジ912 FA(フォルカン)
と言うことになる。Pilot社の、カスタムヘリテイジ912という本体に、FA(フォルカン)というペン先がくっついていますよ、と言うことがわかるわけだ。
さらに、Pilot社の製品についている3ケタの番号は、創業何周年かと価格帯も含んでいるのでわかりやすい。912の場合は「創業91周年に製造開始された、2万円台の万年筆ですよ」という感じだ。835なら83周年の5万円台の、という感じ。た、高いが!
それでこのフォルカンというペン先(ニブとも呼ばれる)の最大の特徴は、左右に大きく切り欠きが入っていることだ。これによってペン先がガツンと軽量化され、文字を書くと見事にしなる。そのしなりが素晴らしい線の変化を生み、まるで毛筆のような筆記が可能となる。
まさしく漢字を書くのに最適な万年筆と言うわけだ。
こちら、両方とも同じこの万年筆で書いた文字だけど、左は力を抜いて書いた文字で、右はしなりを活かして書いた文字。
上手い下手はともかくとして…なるほど毛筆の味わい、と言うことがよくわかると思う。
ペン先を大胆に削った結果、このような文字幅の変化を生み出せるようになったのだ。
このような万年筆を出している会社は数少ない。と言うかほぼない。俺の知る限り海外にもう一社あるのだが…そちらは俺は体験していないので何とも言えない。
とはいえ、Pilot社のようなメジャーな会社がこのような変なペン先を出しているのは凄いな!
…できれば、もっと軸を選ばせてほしいのだが…。
まぁ、万年筆の書き味、と言うことは置いておくとしても、
「切り欠き」「軽量化」「改造」「ほかの人とは違うモノを」みたいなものを求める、かつてのミニ四駆マニアならば、このフォルカンの魅力の一端は確実に理解してもらえるはずだ!
ピンバイスで穴あけまくったり…したよな!ハイパーダッシュモーターはうちの近所ではレギュレーション違反だった。
アバンテJrとかかっこよかったよね…!
俺はサンダードラゴンでした。
(文字に特に意味はない)
で、このフォルカン、
(特殊なペン先を使っている万年筆の場合は、単にそのペン先の名前で呼ばれることが多い)
しなりを活かして、大胆に文字幅を変化させてパワフルに書いていき…たいところなのだが。
先のミニ四駆の話のように、軽量化とか改造をしまくったら、必然的に耐久力は落ちるのだ。ミニヨンファイターとかそれでよく壊してたよね…。
ファイターは俺たちの心のヒーローであるので、その体を張った教えを無碍にしてはならない。
このフォルカンを手に入れたときはそれはもうテンションのままにグワっとペン先をひらいて使っていたんだけど…やはりそこでミニヨンファイターの姿が脳の中に浮かぶわけだよ…!
このままでは…壊れるな!
というわけで、それからは紙の表面をなでるように、そっと払うように書くようになった。
…まぁそれで字が上手くなるわけじゃないのが人生の辛さだけども!
で、そこで気が付いたことがあった。
このフォルカンの「毛筆の書き味」というのは、もちろん文字幅の変化と言うこともあるだろうけど、紙の表面を払うように書くという点もあるんじゃないだろうか?
通常の万年筆のように、紙にインクをのせていくような書き方とはちょっと違う、ひっかくというか…。インクを残す、ではなく、跡をつける、みたいな感じがするね。
そういうわけで、フォルカンを使うときは無理にペン先を開く書き方をしなくても、十二分にフォルカンの面白さを体験することは可能だ!
それに、フォルカンを使い続けるなかで筆圧が劇的に下がったので、どうしても筆圧をかけてしまうという人への矯正用の一本としてもいいかもしれない。
いずれにしても…「変なモノ」「俺だけのモノ」を求める向きにはとても魅力的な万年筆であることは、確かだ。
人によっては強烈に合わないけれども。
ただそれはともかく、Pilot社にはぜひとも軸を…もっと軸を選ばせてくれ…と、お願いしたいところではある。
*1:昔は「大学合格祝いに万年筆」が定番だった。俺の世代ではもうそういうことはなかったけどね。なぜ万年筆が贈られたのかというと、昔はボールペンの質が悪かったので、「消えない文字を書けるのは万年筆だけ」だったからだ。公文書を書く年齢になったら、万年筆が必要になったというわけ。もちろん普通の水性インクでは水で流れてしまうので、鉄イオンの入った古典インクと言うものを使う必要があった。履歴書なんかで「黒または青のインクで書いてください」とあるけど、あれはこの古典インクが黒と青だったから。古典インクの青は時間とともに黒くなる。なので、現代で青インクで公文書を書く意味はほとんどない。ボールペンで充分。あと昔の事務員の人が腕カバーを付けているのも、万年筆のインクがワイシャツにうつらないようにするため。
自民党の問題は、そもそも自民党が万人向けの政党ではなかったからなんじゃないかな、という話
昨今の自民党の政治について、
いろいろ言いたいこととか、あーーーーーもうっ!!っていうのはあるけれど、とりあえずそれはひとまず置いておくとして。
たぶん近年の自民党のいろいろな問題というのは、そもそも自民党が万人向けの政党ではなかったというところに原因があるのではないかな。
と。
ふと、電撃的に思い当たったわけだよ。
自民党は民主主義を理解していない!とか、
無能だ!とか、
邪悪だ!と言う話ではなくて…
自民党が想定している支持者と全然違う層が支持してしまったから起きたバグなんじゃないかな。
今回、コロナウィルスの件で全国の小中学校に休校の要請をしたけれど、それによって生活が成り立たなくなる家庭というのは、自民党の想定する支持者ではなかったということなんじゃないか。
これまでの自民党の政策についての「どうしてそうなるんだ?」という感覚は…「政治」という舞台だから理解できないわけで、市場として理解すると結構筋が通る。
例えば、年収400万の人がロレックスが欲しいと思っても、その人はロレックスの想定顧客じゃない。当然本体は100万単位でお金がかかるし、メンテナンスも10万単位。さらには1本だけ所有するという想定もなくて、何本か所有して場面に応じて使い分けてもらう、というのがロレックスの想定するお客さんの姿だろう。
自民党もそれと同じで、「自民党の想定する顧客」と、「実際の顧客」の層に盛大にズレがあるので大変にバグるのではないか。
政治なのだから、自民党側が国民の実態に寄り添うべき!というのが理想ではあるのだが…どうもこれについては、そうではないようだ。
だから自民党の人も「なんでこんなに俺たちの論理が通じないの」と困惑しているかもしれない。自分たちは自分たちの顧客に向けて頑張っているのに、なぜこんなに文句を言われるのかわからない。そんな感じはしてくる。
それが昨今の自民党の強弁につながっていってしまってるんじゃないか。
ロレックスの例でいうと、ロレックスを買えない人が「買わせろ!」と言っても、「いやー、それは無理です。すみません」となるしかないように、自民党に「こっちに合わせろ!」と言っても「いやー、それは無理です。すみません」となる。
ロレックスやパテックフィリップの主要顧客は年収1億以上の人、みたいなもので。
そもそもレイヤーが異なってしまっているので双方に論理が通じない。
なので、どう頑張っても、最終的には「年収400万ではロレックスを持てない/持つ意味がない」ということに気づく勇気を持つしかない。
もちろん、気合いを入れてお金を貯め、夢だったロレックスを買うのは素晴らしいことだ。でも、それは万人に強制していいことじゃない。
年収1000万以上で資産運用も十全で、妻には家にいてもらって夫は外でバリバリ稼ぐ、という人ならロレックスも自民党もぴったりなのだが、その半分以下の収入の人はその生活をまねできないし、逆にまねてしまっては危険だ。
つまるところ、現状はそういうことのような気がする。
「身の丈に合った生活」をするというのは、結構な勇気が必要なことだ。
しかし、背伸びをしてはいつか破たんする。コロナで収入が1か月なくなるとか、そういう事態になった時に破たんしてしまう。
ただ、これは自民党が絶対悪だからか、と言うとちょっと違うと思う。
ものすごい極論をすれば、自民党が完全に邪悪で、国民の生き血を吸わんとイルミナティばりの策謀を日夜巡らしている悪の組織だったとしても、別にそれは問題はない。まぁ明らかな犯罪行為をしたらアウトだけど。
なんといってもここは言論、思想の自由が保障された国だから、そういう思想をもって活動してもまぁ、うん、それはそれで、大丈夫なのだ。
だけど、本質的に万人向けじゃない政党が多数をとると、少数派向けの政治を多数に向けてやってしまうので、現実との齟齬がものすごい勢いで出てくる。
貴族と平民で例えるとするなら、
・貴族は平民を保護し宥めすかしておく
・平民は貴族に従いながらもその庇護を受ける
という相互依存の関係であるのが長続きするのだが…。
ここで平民が貴族を全面的に支持してしまうと、途端にすべてのバランスが崩れるわけだ。
平民が貴族に完全に従ってしまうと、貴族には平民を保護する必要がなくなるので、貴族は貴族の為だけに生きていても問題なくなる。「ナメたことやってると平民が反乱を起こす」という意識は、貴族にとっても平民にとっても重要だ。
この相互依存の形が崩れたのが、現在の自民党と国民と言うことになるだろうか。
まぁ、近代国家に身分は存在しないので、総理大臣だろうが非正規労働者だろうが完全に対等で、単に役割と責任が違うだけで上下などあり得ない、というのがこの社会の本当の姿のはずなんだけども。それはどうやら理想らしいのでね…。
まぁ長々と書いてみたけれど、昨今の自民党の政治についてのモヤモヤが晴れた(なんか嫌な感じになっちゃったけど)ので、とりあえずはよしとするよ。
結局のところ、背伸びせずに自分が求めるものを見据え、それを実行できるよう力を尽くすという勇気は、なかなか持てないものなのだ。
こればっかりは、誰かに罵倒されたりして湧いてくるものではないので、難しいところだね。
善悪ではない、根本的なすれ違うがあるんだと思う。
「俺たちの世界ではこれが普通なのに」と思うことは日常でもたくさんある。
正社員と非正規雇用者では見る景色が全く違うし、
男性と女性では世界がまるで違う。
身長の5cmの差が価値観を全く変えることもあるし、
体重2kgの差が深刻な断絶を生むこともある。
眉毛の位置が5mm変だからといじめられたりする。
残念ながら。
勇気の問題だけれど、万人に勇気は備わらない。
ラブライブのパネルの問題は記号的表現の認識の違いが原因だと思う
「ラブライブ!サンシャイン!!」キャラクター・高海千歌が沼津のJAとコラボしたパネルが「性的である」として炎上した件について。
…と言うか、宇崎ちゃんのポスターとか、それ以前にもあった、いわゆる「公共の場に不適切」とされるアニメマンガ的な表現にかかるいろんな問題について、ちょっと考えを書いてみたいと思う。
思いついたときに書かないと忘れてしまうからね…!
「あの問題」には二つの視点がある
「あの問題」を一体なんと表現すればいいのか、ちょっとなかなかうまい表現が見つからないのだけれど…。
「不適切な公共掲示の問題」とか書いてもそれはそれで何か違う気がする。
ともあれ、まぁみんなご存じの「あの問題」(とそれにかかわる周辺の問題)には、実は視点が二つあるのがこじれる原因なのではないか、と思う。
「あの問題」にはフェミニズムがついて回ると思われるかもしれないが、おそらくフェミニズムはあんまり関係ないんじゃないかと思う。
「あの問題」はとかく「フェミだ」「お気持ちだ」「まなざしだ」とか、「性的搾取だ」「煽情的だ」「差別だ」と、攻撃力の高い言葉が飛び交う。それに釣られて、何となく「あの問題」を扱うには棘付き肩パットとかモヒカンとかスパイクアーマーとか装備して世紀末デスロードテンションで挑まねばならないような錯覚を起こしてしまう。
しかしそこまでせずとも、「あの問題」を解釈することは可能だと思う。そう信じさせてくれ。
で、ひとまず攻撃力の高いテンションからは少し遠ざかって、「アニメマンガ的なイラストを、人はどう見るのか」を考えてみたい。
最終的には、
「あの問題」を見る視点はおそらく二つある、その認識の違いが摩擦を起こしているのであって、どっちかを攻撃して撃退すれば解決と言う問題じゃない
という話をしようと思うのだ。
共通認識があるから、キャラクターたりえる
characterという英語は、「特徴」という意味のギリシャ語「kharakter」に由来する。また、kharakterから派生したkharasso(刻む)の意味も含むので、characterは「記号・特徴」のほかに「性質、その人の身分、刻印、形質、文字」など様々な意味をもつ。
原義を考えれば何となくニュアンスはわかると思う。「それそのものズバリではないけれど、それを表すもの」という言葉だ。イラストで描かれた人物や動物を「キャラクター」というのも、「いろんな特徴、要素を集めて形にしたもの」だからキャラクターなのだろう。
アニメやマンガに限らず、彫刻でも油彩でもなんでもそうだけど、「何かを創造しよう」と考えたとき、人間はまずはこの記号を想起するところから始める。
例えば、「かわいい女の子」「強いロボ」「世紀末の男」を描こうとしたら、現実にいる美人やグッとくるメカだとかヒューマンガス様をモデルにして、その要素を分解し、「俺はどの要素をかわいい/強い/世紀末と感じているのか」を整理する。
そしてその要素(記号)を再構成して、「キャラクター」を生み出すというわけだ。
トゲがあると強そうだ。ミニスカートはかわいい、青い色は男の子っぽい、バイクで荒野を疾走させよう、ロックンロールのアヤトラにしよう、など、自分の脳の中にある材料を使って描いていく。
そしてここで欠かせないのは、そのイメージは、その文化圏においてある程度みんなに共通している認識である必要があるということだろう。
さっきから「ヒューマンガス様」とか「ロックのアヤトラ」とか「世紀末デスロード」とか俺が書いているのが全く伝わらない人がいるように、みんなが共通して想起する要素でなければそれは記号として成立せず、自己満足の伝わらない何かになってしまう。
でも、マッドマックス界隈の人にはばっちり通じる。V8!V8!と突然言い出しても大丈夫なのだ。それが共通認識の面白さであり、危うさでもある。わからない人には通じない。白旗を挙げても逆に激しく攻撃される、そんなこともあるのだ。この宇宙のどこかの星系には。
小学校の頃、太陽を黄色く塗ったら「太陽は赤でしょ」と先生に言われた、みたいなのもこの記号の話になる。太陽は赤い、という共通の記号を使った方が、(まぁ一応)万人向けになるのだ。
「いや…そもそも太陽はシアンの光子を最も多く放出しているので、太陽は青く描くのが正しいはずだ…!」とか言ったって「いや、それは共通の認識じゃないから…」となる。
もちろん、この「共通の認識」は絶対に正しいものではない。共通認識は移ろうものだしね。昔は「青は女の子の色」「ピンクは男の子の色」だったって言っても今はあまり信じられないだろう。赤はキリストの色、青は聖母マリアの色で、赤系は男性の記号、青系は女性の記号だったのだ。不思議の国のアリスも青い色の服を着ているでしょ?ミッキーマウスは赤い服、ミニーマウスは青い服。昔のキャラクターの色を見ていくのも面白いかもしれない。
アーティストや芸術家は、この共通の認識を打破しようとしている人、と考えるとわかりやすいかもしれない。「みんなが想起するいつもの共通認識」を「いや、俺はこう表現する」と再定義する人。そう考えると、複雑な現代美術の鑑賞法もわかってくる。
偉人とは、万人の共通認識を変化せしめた人と言うことができるかもしれない。その人の登場以前以後で流れが完全に変わった人。どの分野においてもね。
色の話に戻るけど、イエス・キリストを描いた絵画があったら、とりあえずイエスさんの着ている服の色に注目するといい。だいたい赤い服を着ている。そして、逆にイエスさんが赤い服以外を着ているとなったら、おそらくそこには何らかの意図が潜んでいるとみて間違いない。それを調べるのも面白いと思う。
例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチがイエス・キリストを描いた「救世主(サルバトール・ムンディ)」という絵がある。
幽玄たる双眸にいろいろと持っていかれそうになるすさまじい絵だな…!
吸い込まれそうな両眼から、勇気をもっていったん目線を外し、このイエスさんの着ている服を見てみよう。
青である。
つまり、青い服を着せる特別な意味をダヴィンチは持たせたことになる。
実際、このダヴィンチの絵を基にして描かれた絵はたくさん残っているのだが、それらはいつもの赤い服を着たものが多い。
完全に青一色の服を着ているイエス・キリストは、極めて珍しいのである。
そして、この絵のイエスさんの胸元をよく見てみると…どことなく女性的な感じがする。何となく、乳房があるような気がしてくる。
「いや、これは逞しい漢の大胸筋だぜ…」と思う人ももちろんいると思うけど、青は女性の色ということも考えると、女性的な体つきをしているように見えるというのにも理路がある、と言えるだろう。
ダヴィンチの弟子はこの絵を基に、さらに女性的に描いているので、「何となく女性に見える」というのは共通認識に近いのではないだろうか。
しかしこの絵は本当に好きなんだよ。どこに焦点を合わせていいか混乱してくるのがすごい。「イエス・キリストを、見ようとすればするほど見えなくなる」と俺は解釈している。髭が生えているようにも、女性にも見える。顔の左と右が別人に見える、持っている水晶が全くレンズになっていない(ダヴィンチなら絶対にレンズになっていることに気づいてるはず)…などなど。この絵を前にした時、次々と想起するものがある。本当に素晴らしいな。いつかは実物を見てみたいと思うのだけれども。
さて、長々と書いてしまった。
そういうわけで、「あの問題」のポイントは、これら共通認識=記号になると思う。
共通認識=記号を、どのように扱い、どのように受け取るのか。
それが「あの問題」の問題であるはずだ。
フェミニズムは付随するものに過ぎない。コアはこの記号論であると思っている。
目的に合わせて記号を選択できているか
さて、「あの問題」を考えるにあたり、大いに参考になるのが先ほど書いた「太陽を赤く塗らせようとする先生」の話。むしろこれで全部片付くかもしれない。
(学校の先生たちを揶揄する意図はないよ!)
黄色い太陽、是か非か。
これはなかなか深い。
まずは各論を整理しよう
・太陽は赤と相場が決まっているから、正しい表現で描くべき!
・実際黄色く見えるんだから黄色が正しい!子供の感性を奪うな!
・太陽は青なんだよ!青く塗れ!それが正しいからな!SUN IS BLUE!
だいぶ攻撃力高く書いてしまったので、もっと整理しよう。
・多くの人の共通認識に合わせて、伝わりやすいように描くべき
・共通認識が正しいとは限らない、現実に即した表現を模索すべきだ
・共通認識など知ったことか!俺は俺の道を行く!青く塗れッ!SUN IS BLUE!(共通認識に振り回されず、より厳密な表現、オリジナリティのある表現をすべき)
SUN IS BLUE的な過激派はどこにでもいるけれども…!
この3つの主張は、どれが正しいということはない。
どれか一つだけにしてしまうと困ったことになってしまうからだ。
具体的には、
・多くの人の共通認識に合わせて、伝わりやすいように描くべき
→人種差別などの表現が是正されにくくなってしまう
・共通認識が正しいとは限らない、現実に即した表現を模索すべきだ
→看板や標識など、変わりにくい共通認識が必要とされる場合がある
・共通認識に振り回されず、より厳密な表現、オリジナリティのある表現をすべき
→一つひとつ解釈していかねばならないので、見る側のコストが大きい
となる。まぁ当たり前のことではあるのだけれど。
だから、「太陽を赤く塗らせる先生」は、「とりあえず、万人に伝わる表現をすることを学びなさい」と教えているのかもしれない。だったらそう言ってくれ!と言うのは置いといて。
デザインは基本的には太陽を赤く塗るジャンルだと思っている。かつて話題になった、セブンイレブンのテプラだらけのコーヒーメーカーの例もある。格好悪くても、HotとかIceではなく「あったか~い」「つめた~い」のほうがいいこともある。太陽を赤く塗ったほうがいいことも、多いのだ。
出来ればかっこいいデザインのほうがいいけど、でも「まずは分かりやすく、そのうえでかっこいい、両者の合理的なラインを模索する」のが一番だと思うのだ。
標識、案内表示、説明書のように、万人に通じる記号を重視するか
芸術表現のように記号に囚われず独自の表現をするか
これはそれぞれ対立するものでは決してない。ただ用いるフィールドが違うだけだ。
「あの問題」も、正しいか正しくないかではなく、用いる場所と用い方を間違ったと考えるべきと思う。
それに人間はだれしも、共通認識を無意識的に使い分けている。
赤い太陽、黄色い太陽、青い太陽を使い分けて俺たちは生活しているのだ。
イラストを記号としてみるオタクたち
オタク…と一言でまとめるのは良くないと思うのだが…ほかに適切な表現が思い浮かばなかった。
つまり、アニメ・マンガ的表現に慣れ親しんだ人たちのことだ。だから狭義のオタクよりももっと層が広い。
言うまでもなくアニメマンガ的なイラストは記号で出来上がっているので、「この記号はかわいさを示す」とか意識しなくても「あ、かわいいな」とか「こいつは悪そう」「裏切りそう」とか何となくわかる。アニメマンガ的な表現内の記号に詳しいのがオタクと言えるだろう。
このオタク的な人たち(悪い意味はないぞ!)は、「あの問題」に対してはどちらかと言うと「問題ないのになぜ排除するのか」という反応を示す人が多いように見受けられる。
オタク的な人は、無意識的に記号を認識するので、それら記号が現実存在に直接影響を及ぼすという意識は希薄だ。
変な言い回しになったけど、つまり、極端なミニスカートの女の子のイラストが好きでも、現実存在としてのスカートが極端に短い女の子を求めているわけではない。
もちろん下劣な例外はどこにでもいるけどね!それを言ったらキリがないから!
アニメマンガ的表現では、「めっちゃ肌が露出した格好をしているのに超恥ずかしがり屋」という首をかしげる存在もたまに登場する。あるいは、「すごい極端に短いスカート履いてるのに清純」とか。
でもそれは記号的に考えると、「かわいさを表す記号」と、「そのキャラクターの性格」はちょっと別なのだ。もちろん、両者の表現が一致するのはウェルカムだけど、「かわいさを表す記号→露出多め」それ自体にそんなに突っ込まない。
「まぁ、そういうもんだ」という共通認識が、オタク間ではあるからだ。
なので、「アニメと現実を一緒にするな」という主張がオタクの側から出てくるのは自然だし、その延長で「あの問題」も、
「記号表現として楽しんでいるのに、なぜそれを現実存在にあてはめるのか」
という反応になる。
「太陽を赤く塗ってるからと言って、本当に赤く見えてるわけじゃないことくらいわかれよな」
ということかもしれない。
オタクたちは、イラストで描かれたキャラクターを見たときに、実は「そのものを見ている」のではなく、「そういうものを見ている」のである。
赤く塗られた丸いものを「おぉ、太陽だな」と見ているわけで、実際に黄色だったりSUN IS BLUEだったりすることを重視していないのだ。
フィールドが違うのである。
この、記号的な表現をどう見るか、という話題で最近面白いものがあったので紹介しておくよ!
togetter.comこのまとめの中でも「現実にピンクだよ派」と「表現技法で、実際は茶髪くらいだよ派」がいるので、「オタク的な人たち」とひとまとめにしてはいけないんだけど、そこは斟酌していただくとして…!
ちなみに、マンガは誰だって読めるんだから万人に共通するものだ、と思われるかもしれないが、それは違う。マンガを読めない人もいる。分厚い難解な専門書をすさまじい速度で読んでいく人が、マンガ一冊を読破できなかったという話もあるし、最近の子供は漫画が読めない、なんていう記事も見たことがある。
マンガ・アニメ的な表現は、あくまでも子供のころから慣れ親しんでいるから通じるに過ぎない儚い表現であると認識してもいいくらいだろう。
そしてもう一方の、んーと、難しいな…オタク的な人に対する人たちもいる。
記号的表現と言っても、例えばピカソのキュビズム的なところまで抽象化されていないから、どうしても現実存在との関連性が見えてしまう。
現実存在---------------------------------------------------------------------ピカソ的な抽象芸術
↑
アニメマンガはこの辺?
こんな感じで。
キュビズムの手法でものすっごいえっちな絵を描いても、「けしからん!」とはならない(なれない)。抽象度が高すぎて現実存在とのつながりを感じないからだ。
また手塚治虫などの時代のマンガ表現を今読めば、そんなに現実との関連は見出されないと思う。現代のアニメマンガの表現は手塚時代よりもより現実存在に近づいているので、どうにも「記号的表現だ」と切り離しにくい。
「あの問題」で問題になったイラストはいずれも現実に存在するもの―女性の乳房とか制服のプリーツスカートだとか―なので、より関連性を感じられるというのもあるかもしれない。
これが例えばスーパー戦隊とかウルトラマンのような恰好をしていたら、批判は少ないんじゃないかな。
ウルトラの母とか完全に性的だと思うんだけど、それはまぁ現実存在とは相当遠いからね…!
結局、用いる場にふさわしい表現を選択すればいいという結論に
なるしかないと思うんだよね…!
オタク的表現が好きな人は、もうちょっとオタク的な人たち以外との共通認識も意識する。
好きじゃない人も、過度に現実とアニメマンガ表現をリンクさせ過ぎない。
双方の歩み寄りしか解決はないと思うのだ。
ただ個人的に思うのは、アニメ・マンガ的な表現が一般に浸透してきたからこそ、より表現に気を付けるのは重要だと思っている。
今までの表現方法を変化させ、より広い共通認識を得られるようにしていくといいと思う。
「かわいい」という記号を、より時代にマッチさせていく勇気を持った方がいいのかもしれない。
映画「山猫」の有名なセリフ
We must change to remain the same.
変わらずに生き残るためには、自ら変わらねばならない。
にあるように、時代が変化を要請するのなら、自ら変わったほうが絶対にいいと思うからだ。
戦争になってしまった結果変わっても、それは間違いなく遺恨を残す。それは歴史が証明している。
そして変化しなければなのはアニメマンガ的な表現が好きじゃない人もそう。
かつてロックンロールやパンクが一般化したように、変化を見届け、促し、歩み寄り、受け入れてほしいと思う。
攻撃的な言動では、いかに正しくとも共通認識にはならないと思うから。
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SUN IS BLUE!に反論するとしたら、
「宇宙空間の太陽はそうだとしても、人間の目に映る可視光線には限界があるし、地球の大気の影響で赤や緑にもなるよ。それも事実には違いないよ」という感じかな?