脳の中のマリー

アントワネット的なことを脳の中で

話したいことの1割も話せていない人は、「小説のように話しているから」かもしれない

話したいことを上手く伝えられない。

最高におもしろい体験なのに、言葉にすると全くつまらない。

伝えたいことの1割も語れていない。

どうにかしておもしろさを伝えようといろいろ表現を工夫してみるけれど、やっぱりつまらない。相手のしらける顔に、あるいは博愛の表情に、さらに焦ってしまう。表現が上手くないのは語彙が足りない(と思っている)から、もっと凝った言い回しをしようとしてさらに話が難解に難解に。自分から始めた会話のはずなのに、出口が見えない。

そしてついに、「結局どういう話なの?」という死刑宣告を受け、「いや、そんなたいした話じゃないんだけど…」と屈してしまう。 

そんな経験がある人はたくさんいると思う。

先日、友人にこのような悩みを打ち明けたら、

「どうせあれでしょう。うまいこと言ってやろうとしてるんでしょう?」

「yajulくんは小説を書くように話してるんだよ」

と言われた。

つまり、自分の話は以下のような順序を踏んでいる。

  • 背景描写
  • 伏線
  • クライマックス
  • エピローグ

だから、

「集中して最後まで聞くととってもおもしろい。けれど聞き逃したり、何かわからないことが出てくるとおいて行かれちゃう」

 ということに、なってしまう。

また、最後のエピローグの余韻を重視するので、オチがものすごく説明不足だと。それまでの伏線をちゃんと理解していると、最後のオチで考えて、あぁなるほどとなって最高のエンディングを迎えられるんだけど、残念ながら人は他人の話をそこまで熱心に聞かない。だから俺の話は、話してるほうも話されるほうも不完全燃焼になってしまう。

これは俺だけでなく、小説や映画など長い話を好む人に陥りがちなコミュニケーションの罠ではないかと思う。子供の頃から上記の流れこそが「おはなし」だと信じてきたので、それを「話」にも適用してしまう。storyとconversationは別物であるのに、ついつい混同してしまう。

小説的な話し方がクセになっている人は、「なんだかよくわからないけどすごいね、きみって頭いいんだね」と反応されることが多い。皮肉で言われているのでなく、純粋に言われている。余計につらい。なぜなら、本来はもっとうまく、"小説のように"相手に感動を与えることができるはずだから。そう思ってしまう。

あるいは、コンテキスト(前提となる文脈)が一致する相手とだけ打ち解ける場合もある。よく似たバックグラウンド、よく似た嗜好、同じ体験、前提を共有できている相手と話すのはとっても楽。こういう相手こそ自分が求めていた会話相手なんだ!と思い込んでしまう。そういう相手と話すのは楽だけど、実のところ本当に一致しているわけではないので、ささいな違いが気になって気になって、最終的に大きくこじれることも少なくない。しかも、一歩踏み間違えると、他者を値踏みして「頭がいい/悪い」で人をふるいにかける恐ろしいこともやってしまう。

またさらに、小説的会話術の使い手は聞き役に回った時もうまくいかない。

いや、本当にうまくいかないんだよ。

なぜなら、聞き役に回った時にも「うまい言い回し/鋭い質問」を考えてしまうから。そしてそれに固執してしまうから。

だから、その質問を思いついた時点でその人の中で時間は止まる。

相手がそのあと何を話していたとしても、その「うまい質問」を温めるあまり、続きが耳に入ってこなくなっちゃう。

質疑応答で頓珍漢な質問をする人だとか、それまでの話の中にきちんと答えがあるのに勝ち誇ったように質問をしちゃうとか、そういう風になってしまう。心当たりがありすぎて胸が痛い!

だから、まず、会話と「おはなし」は別のものだと認識を。

そして会話においては、1割伝われば十分と考えて。

思いついたことを全部言っちゃだめ。

ひらめきは生まれるに任せて、忘れるに任せて。

うまいことはまた思いつく。

そう自分に言い聞かせつつ。

 

 

…っていう風に会話するとだめだからな!

ちゃんと「そういうところに気を付けないとね」って言わなきゃだめだ!

 ポエミーにぼかして会話を終わらせるのは美しいけどあんまりよくないぞ!

わかってるのか、俺よ!

頭を良くするための小説の読み方

頭のいい人は小説を読まない。

仕事ができる人は小説にうつつを抜かしたりなんかしない。

そんなイメージは漠然と、ありますね。ネットなんかで話題になる「あたまがよくなる本」はたいてい哲学書、学術書、ビジネス自己啓発…そこに小説が入る余地がないように感じます。小説を読むにしても、古今の名著やトクベツな書に限られる。

そんなイメージが私の脳を支配してしまい、

娯楽小説など読んでいる暇はない…己の真の能力に目覚めたいなら今すぐに○○を…!

なんていう風に思ってしまうものです。それは私だけではないでしょう。実際には、読む人は読むし読まない人は読まないというだけなんですが。そして、「娯楽小説が何より好きな自分はかくのごとく能力を開花させられないのだ…無念…残念…!」と悲劇に酔いながら娯楽に耽溺する「私」を正当化するわけです。

しかしこれはあまりにもよくない。

かといって小説は面白いし大好きだし、離れがたい。

じゃあどうしよう。

要するに、小説を読みながら頭が良くなる/仕事ができるようになる方法があればいいわけです。

 

ここでは、「頭のいい人/仕事のできる人」を、「シミュレーションに長けた人」とします。頭のよさや仕事の能力には様々な尺度がありますが、シミュレーションがしっかりできる人は間違いなく「できる人」の十分条件を満たしているはずですから。

逆に、「できない人」を考えるとわかりやすいかもしれませんね。本番になって「あぁ、あれ持ってくればよかった…」「あれ調べてくればよかった…」と、要するに準備不足に陥りがちな人、チャンスをつかみ損ねる人、スマートに事を運べない人、です。まさに私。

しかし、そんな私も、この方法で本を読むことによって、かなり改善されてきました。おまけに日常の観察力、記憶力が上がり…と、なかなか喜ばしい成果がありました。

 

さて、その方法は、「文章を読んで、その場面を想像すること」です。

あたりまえじゃねーか!

という声がありそうですが、大丈夫です。この想像はあなたの想像の上を行く想像方法です。たぶん。

まず、普段本を読んでいて、どういう想像をしているでしょう?

例えば、「二人は幸せなキスをした」という文章を読んだとして、何を想像していますか?キスをする二人の男女を想像できた人は素晴らしいです。たいていの場合は、「幸せなキスをするというぼんやりしたイメージ」しか想像していません。人によっては、活字を想像して終わりという場合さえあり得ます。これは普段文章を読み慣れている人に多いのですが、想像やイメージよりも活字のほうが迷いなく状況を把握できるので、頭の中でそのまま文字を想像して終わらせるわけです。これは優れた手法ですが、慣れてしまえば流れ作業になるので、あまり脳のパワーを消費しません。30kgダンベルでガッチガチに鍛えたハイパワーなボディを擁しながら普段はせいぜい5kgの重さのものをもって生活してるようなものです。楽ですが、それだけです。

想像力はシミュレーション能力に直結します。そして想像力は観察力とも密接にかかわっています。

さぁ、先入観と慣れを捨てて、改めて「二人は幸せなキスをした」という文章、いや、場面に向き合いましょう。一度この画面から目をそらし、本気で二人のキスを想像するのです。容赦なく、徹底的に。

二人は男女なのか?どういう服装をしている?髪型は?色は?場所は?どちらが背が高い?手はどの位置にある?キスはどちらからした?ソフトキス?ディープキス?どちらがどれだけ首をかしげている?鼻と鼻の位置関係は?目は?

可能な限り詳細に想像するわけです。想像の中で二人から視線を外し、また二人に戻しても、そこで二人は同じようにキスをしていますか?ぼんやりとしたイメージになってはいませんか?明確に、正確に、自信をもって二人の姿を描写できていますか?

これは相当きついです。人によっては、この時点で目の周りから後頭部にかけてジーンとしびれてきているはずです。知能テストに全力で取り組んだ時のような刺激が脳に与えられているわけです。

さて、想像はここに終わりません。

次は二人のうち、どちらかの中に入っていきましょう。中に入り、感覚を共有するわけです。

まずは指先に集中し、相手の背中に手をまわします。えろいですね。でも大丈夫。幸せなキスなのですから。えろくはありません。人間の手というのは、神に与えられた超高性能センサーです。人間の手は、触れた瞬間に対象の温度、密度、重さ、材質、滑らかさ、大きさを把握することができます。熟練の職人さんと全く同じ機能があなたの手にも備わっているのですから。

触ってみましたか?実際に手をわきわきさせても良いです。むしろしましょう。怪しいですか?大丈夫ですよ。きっと。

せっかくの幸せなキスなのですから、おっかなびっくり触れるのではなく、愛しい相手の肌を感じましょう。どうせ想像なんですから、服は脱いでもらいましょう。他人の肌というのは、なかなか触れる機会がない物体の一つです。これまでの人生経験を余すところなくフル回転させ、肌の感触を想像してください。

骨の位置は?皮下脂肪はどのくらい?筋肉はついている?内臓を感じる?体温は?吹き出物はある?湿っている?乾いている?触った瞬間の反応は?手の位置を変えるとどうなる?

そろそろ問題に気が付き始めているはずです。

そう、「そんなに細かく意識して触ったことがなかった」という情報不足です。キスの相手が筋肉ほとばしるマッチョガイであったとしたら、なかなか感触を想像するのは難しい。手近なマッチョに頼んで筋肉の感触を確かめさせてもらう必要があるかもしれません。また、二人の服装を想像するとき、服飾に対しての理解の浅さを痛感するかもしれません。

こういう経験をしていくと、普段の観察力がめきめきと上がっていくわけです。日々、マッチョ…マッチョはいないのか…と目を光らせて生活することになり、ついにマッチョを見つけたとき、マッチョの生態を余すところなく記憶することになるでしょう。自ら求めた知識は、必ず自分の血肉になるのです。

空間記憶は観察力と不可分ですからね。

ジョジョ4部に登場する岸部露伴先生の「味も見ておこう」というのは圧倒的に正しいのです。いやさすがに本当に食べるまではいかずとも、「食べたらどうなのか」という探求心は想像力を高める最高のエッセンスでしょう。

さて、再び二人のところに戻ります。相変わらずキスをしていますね。さっき想像したのと同じ二人ですか?大丈夫ですか?すでに相当なパワーを消費しているでしょうが、もう少しです。大丈夫ですね?大丈夫ですよね。

次は嗅覚です。今までと比べるととても易しいですね。キスする相手の匂いを想像するだけですから。

しかし、やはりここも容赦なく想像していきます。

人間は生物ですから、いい匂いばかりではありません。「幸せなキス」というイメージに引かれて、自分に都合のいい匂いを想像してしまってはいませんか。ふわっとしたいい感じのニオイ…などという想像は明日にしましょう。今は、今この時ばかりは、キスをしている相手の生身の肉体と対峙すべき時です。

幸せなキスをしている二人は、その前まで何をしていましたか?風呂上がりでいきなり幸せなキスに至るという場面は少ないでしょう。二人はそれまでに何らかの行動をしていて、その行動の結果、幸せなキスをする運びとなったわけですね。つまり、シャンプーやリンスの匂い以外の香りもあるはずです。要するに汗の匂いです。だんだんと危険な領域に入ってきました。まだ大丈夫です。

汗の匂いは個人差があります。他人の汗のにおいをどのくらい想像できますか?クサい?いやいや、今は幸せなキスをしているのです。「客観的に言えばそりゃクサいけど、愛する人なんだから全く気にならない」という境地で向き合うのです。二人がそれまで怪物とバトルをしていたのなら、汗の匂いがしないなんてことはあり得ないですね。

汗だけではありません。残念ながら、口臭すらも徹底的に想像していきます。相当にハードになってきましたが、きっちりと口臭予防をしていただいているという想像でも全く問題はないです。では、どういう口臭予防をやっているんでしょう?そこまで掘り下げていきましょう。口臭に気を遣いすぎて逆にミントの匂いがきつい、とか、こいつキスする気満々だったんじゃねーのか疑惑という場合もありますね。しかしあくまで幸せなキスですから、相手の落ち度は幸せのパワーで中和していきましょう。想像後の私たちの心身の健康のために。

そして次は音、味…と想像のハンマーをふるっていくわけですが、さすがに全部書いていくと大変な長さになってしまいますね。

もちろん、何でもかんでもここまで想像しなきゃいけないというわけではないです。小説の文章一つひとつに対してこれをやっていくと、1冊読むのに半年かかりかねません。それはそれで素晴らしい読書体験だとは思いますが、苦痛が勝るはずです。小説の中の印象的なシーンから始めていくといいですね。

想像をするとき、カメラは固定ではありません。360度、あらゆる角度から想像していきます。想像の二人の向こう側に回ってみて、矛盾なく成立するか試してみましょう。

それと、まずこれは最初のうちは全然できません。想像を固定化させるのは想像以上のパワーが必要です。そもそも、昨日の夕食が何だったかすらあやしい我々には、それだけハードルが高いのです。ですから、いきなり完璧を目指すのでなく、たまにトライしてみる、くらいの気持ちでいたほうがいいですね。

前述のように、この想像をやると、まず自分の知識不足を痛感します。そして、自分がどれほど「なんとなくのイメージ」に助けられてきたのか、あるいは誤魔化されてきたのかを知ることになります。この衝撃的な気付きは、普段どのくらいの知識を見落としてきたのかのバロメータともなります。そこに気づいたあなたは、世界の見え方が変わるかもしれません。

私はこれを続けたおかげで、人の顔を見るのが苦にならなくなりました。以前は人の顔を見るのが恥ずかしいやら辛いやらで難しかったのですが、「この人のような人物を再現するためには今ここではっきりと見ておかねば…」と、恥とか言ってる場合じゃねえという危機感を持てるようになりましたから。

お気に入りの場面を深く味わうためにも、空間記憶力を拡充するためにも、シミュレーション力を上げるためにも、岸部露伴の境地に入門するためにも、この想像、試してみてはいかがでしょうか。

 

千利休の役割と朝鮮出兵 それと、秀吉が好きになってきたこと

千利休とは何者で、何をして、なぜ処刑され、なぜそのあと秀吉が「暴走」したのか。

千利休といえば安土桃山時代を語るに絶対に外せない人物だ。というかそもそも「桃山」である伏見城のしつらえは利休好みに作られたので、彼こそが桃山文化とも言える。

しかし、千利休という人は何なのかはとてもわかりにくい。茶道の祖ということも、秀吉のアドバイザーということも、豪商であることも知られているが、いまいちそれら要素が有機的に繋がらないという人は多いんじゃないだろうか。

そんな千利休という人物について、個人的に腑に落ちる流れが見えたので、書いておこうと思う。もちろんこれは俺の推測であるので、確かな証拠があるわけではないのだが。

 

戦国時代後期に必要とされたもの

戦国時代の最終盤、信長が倒れ、秀吉がその後をまとめた時期に最も必要とされたのは、「戦国時代の後に必要となる統治のシステム」だ。これは日本の戦国時代に限らず、中国の春秋戦国時代項羽と劉邦の戦い、三国時代フランス革命後のナポレオンの台頭にも同じことが言えるけど、群雄割拠が収まるときは次なる統治のシステムが作り上げられる。あるいは逆に、そのようなシステムを備えた国が強国となっていくということでもあるだろう。

日本の戦国時代では、信長がそれを大いにやっていた。なので、秀吉は統治システムの多くを信長から流用しているはずだ。そうでなければ治まらない。

そして、日本の武家社会の統治システムの最大の問題は、「敵がいなくなったら武士はやることがない」ということだ。この欠陥が露呈したのが元寇だ。元の襲来を追い払った=功績を上げたのに、褒美(土地)がもらえない。防衛戦ゆえ、新たに土地を獲得できたわけではないので、褒美は出せない。武士の不満は高まり、結果的に鎌倉幕府が倒れる遠因になった。

続く室町幕府もこの問題を解決できていない。というか、室町時代で「よく統治されていた」のは三代足利義満の時代くらいなもので、後はひたすら混迷のるつぼだ。最終的に応仁の乱という形になって、室町幕府は破綻する。というか、室町幕府は内乱、反乱を平定することでその権力を維持してきたように見える。かろうじてコントロールされた戦国時代のようなものだ。反乱に勝てなくなったら、それが統治システムの終焉だ。

つまり、武家社会の「統治のシステム」のノウハウ蓄積が、ほぼ無い。鎌倉幕府崩壊から建武の新政の失敗、室町幕府のコントロール不足を経て応仁の乱から100年以上。ようやく「統治」が見えてきたというのが戦国時代後期。

これは半端でなく重要な時代だ。

隣の中国を見ても、安定した統治システムが作られるまで数百年はザラにかかる。あちらは三国時代〜隋、唐まで300年かかっている。日本もおよそ300年。ヨーロッパも、ローマ帝国が分裂してから神聖ローマ帝国ができるまで300年くらいかかっている(神聖ローマ帝国の是非はともかくとして)。おそらく、統治システムの刷新にはそれだけ時間と失敗をかける必要があるのだろう。

 

秀吉が選択した統治システム

では、信長の時代を経て秀吉が「全国を治める統治システム」として採用したのは何だろう。

…多分これは俺ごときが手を出せる問題ではないのだが!

おそらく秀吉は、「戦がなくなった後の武士たちへの褒美システム」に、茶の湯を使おうとしたのではないか。信長の時代から徐々に「茶道具の価値」が重視され始め、最終的に「国(領土)<名茶器」ということにもなった。茶道具の方が国よりもよっぽどいい。戦争よりも茶の湯で大成したい。古今伝授を始め、文化的な素養こそが大名の格を決める重要な要素である。という革新的としか言いようがない価値転換が起きた。

この間まで戦に明け暮れていた荒武者たちが、侘び寂びあふれる庵の中で居住まいを正して茶を飲む。そしてそれが戦よりも上位の価値になっている。戦場では勇猛で鳴らした男、いや漢たちが、故事や料理を身につけんと各地の師に弟子入りしている。

これはすごい。

や、確かに平安時代では恋で政治をしていた(部分があった)わけだし、そういう素地はあったのかもしれないが、この価値転換の破壊力たるや!

信長も秀吉も極めて優れた統治者だ。間違いなく、茶の湯を統治に利用しただろう。あるいは、意図的に茶の湯を権威づけたろう。茶の湯は経済と密接なつながりがある。茶の湯を嚆矢として、領土から経済に報酬システムを転換していこうと考えたのではないか。

千利休は、統治のための権威として、秀吉に侍っていたのだろう。秀吉が積極的に茶の湯を広め、利休を信頼して権威付けをし(当然利休本人の能力あればこそ)、それを諸大名に見せつけることで統治のシステムを内外に示す。刀狩りで農民の反乱を封じ、大名の私闘を禁じて反乱の芽を潰し、茶の湯を使って武士の価値観を転換する。

そういうことだったのではないだろうか。

 

茶の湯システム崩壊と、朝鮮出兵

しかし、やはり茶の湯バブルも長くは持たない。

千利休は処罰され、茶の湯ブームは露と消えた。

時を同じくして、秀吉の「暴走」が始まる。朝鮮(明)への出兵だ。

…のだが、茶の湯が統治システムであったと仮定すると、この朝鮮出兵は割と普通の、まっとうな政策だと思えてくる。戦争がまっとうだ言いたいのでなく、そういう流れになるのは不可避だよな、とね。

つまり、茶の湯を使った褒美システムが破綻したので、旧来の領土獲得路線に戻さざるを得なくなった」のだろう。

秀吉の個人的な領土野心だとか、ボケてきたとか、家庭の問題で頭がおかしくなったとか、そういうことがメインではないような気がする。

千利休が処刑されたのは、おそらく利休と茶の湯の権威が秀吉のそれを脅かし始めたからだろう。統治のシステムとして使っていたはずの茶の湯が、秀吉の権力に迫り始めた。秀吉が権力の象徴として作り上げた黄金茶室を、利休という権威が否定したことはその好例だろうと思う。これは利休だからこうなったのでなく、利休以外でも必ずこうなる。だからこそ、秀吉は茶の湯システムそのものを諦めざるを得なくなった。

権威と価値を利用した統治に失敗した秀吉は、権力を維持する方法を新たに作らねばならない。

そして、最もわかりやすい価値、「土地」に立ち戻った。戻らざるを得なかった。

明を攻略し、その攻略の過程で得た地を褒美として、武家のシステムを延命させる。

華麗に価値転換を成し遂げた秀吉にとっては大きな大きな後退なのではなかったか。

そう考えると、今際の際に家康に涙ながらに「秀頼を頼む」と言い残したその涙の訳も、以下のの辞世の句も、より重たく感じられるのではないだろうか。

露と落ち 露と消えにしわが身かな 浪速のことも 夢のまた夢

その後、「武家の統治システム完全版」を成し遂げた家康の辞世は、こうである。

嬉しやと 再び醒めて一眠り 浮世の夢は 暁の空

夢を追い、夢に追いつけなかった秀吉と、「もっかい寝て夢の続き見るか!」と二度寝する家康。

道半ばで倒れた者と、それらの積み重ねの末に成し遂げた者の対比がされていると思うのは俺だけではないはずだ。

 

何か、秀吉がとても好きになってきたぞ!

「同居人の大事なものを捨てる人」の気持ち

電車の模型、収集品、思い出の品などなど、こういった大事なものを同居人に買って捨てられてしまった、という話はどこかで見聞きしたことがあろうと思う。おそらく最も有名なのは、「鉄道模型を捨ててから、夫の様子がおかしい」かな。旦那さんの大事にしていた鉄道模型を奥さんがすべて処分したら、旦那さんの魂が抜けたようになって自分の持ち物を次々に処分し始め、ついには私服も処分し、消耗品以外は絶対に買わなくなってしまった、という非常に胸が痛い話だ。

俺もおおよそみんなと同じく「なんてことをするんだ、理解できない。なぜ話しあおうとしなかったのか」と思っていた。というかコレは本当に酷い話だし、大切なものを失った旦那さんの虚脱感はよく理解できる。や、理解はすべくもないが、その辛さが想像以上のものだろうという予想はつく。

しかし先日、捨てる側の気持ち、思考の動きがわかった。と思う。仕事中に閃いたことなんだけど、おそらくこれが捨てる側の論理なんだろうなということを理解できたので、書いて見ようと思う。実際に捨てるかどうかは全くの別問題として、気持ちは理解できる人は多いのではないかなと思う。

 

気づいたきっかけ

うちの会社の倉庫には、販売済みではあるが買主がまだ引き取りに来ていない、預かり荷物が結構ある。…結構あるというか、相当ある。倉庫全体の15%くらいを預かり荷物が占めている。取りに来たり発送したりと出て行くことはあるんだが、そのたびにまた預かり荷物が増えていき、結局比率はあまり変わっていない。倉庫の15%というのはかなりの規模だ。会社の倉庫はそれほど大きくないので、倉庫整理や出荷をする際、在庫が少ないほうが当然簡単に出せる。15%空けば在庫出荷にかかる時間は半減するほどだ。しかも、俺が入社してから一度も動いた形跡がないものまである。この預かり荷物を見て、「これがなけりゃ、仕事はもっとスムーズに行くんだけどなぁ」と思ったのがきっかけだ。こういう経験をした人は、男女関係なく多いんじゃなかろうか。

何故捨てるのか

では、「これさえなけりゃ、上手く行くのになぁ」という気持ちが直接関係しているのかというと、そうではない。流石にそれだけが理由ではないだろう。誰だって「他人の物を勝手に捨てるのは良くないこと」と知っているはずだ。それがわからないほどに破綻している人はそうそういない。よな?そこは信じておきたいところだが!「勝手に捨てるのは良くない」という共通のモラルを破綻させる、何か特別なひと押しがあるはず。おそらくそれは、「その品物をさほど大切にしているように見えない」ということだと思う。俺の会社の倉庫を例にすると

  • 預かりが発生した直後の気持ち:「そちらも倉庫事情が厳しいでしょうから、こちらでしばらく預かれます。大丈夫ですよ」
  • 預かり発生後しばらくして:「そろそろ引き取ってくれないかなぁ。でもあまり言うのもあれだし。まぁいいかな、もうしばらくは」
  • かなり時間が経ってから:「いい加減持って行け。保管料取るぞコノヤロウ。確かに預かるとは言ったがそれにしても限度があるだろう」
  • 年単位で時間が経って:「これ、もう相手忘れてるんじゃないのか。これだけ長く置いとくってことは、もういらないんじゃないのか?」

こういう気持ちの変化が起こるのだと思う。俺はそうなったしな!流石に商品だから捨てたりがさつに扱ったりはしないが。会社の場合、自分の一存で「先方に連絡して引き取ってもらいましょう」と判断できない場合がある。社長と懇意にしてる人の荷物とかな…!で、そういうもののバアは、ひたすらにストレスが溜まっていってしまう。おそらくこれが、「ある日突然勝手に処分する」人の思考過程なんだろうと思う。「勝手に捨てられた」系の話を見ると共通してることがある。「その物品は、頻繁に使わない(観賞用含む)もの」ということだ。電車の模型にしても、フィギュアのコレクションにしても、基本的に、それを扱っている姿を見られていないものが多いのではないか。例えば、本を沢山買う人がいるとする。毎日すごい量の本を読んでいる。しかし、それでも買う量が読む量に追いついてなくて、大量の積読が発生している。また、新刊を読むのに忙しくて、一度読んだ本は本棚にしまったまま二度と取り出していない。…ように見える。この人の同居人は、増え続ける本を長年見つめ続けてるというストレスの果てに、「この人、一度読んだ本は全然見返さない。大切にしているとは思えないし、今後も読み返さないだろう。ならいっそ捨てちゃおう。どうせあの人はこれを大事にしていないんだろうから」という考えに取り憑かれ、実行に移してしまうのではないだろうか。男性にとっては「一度しか(あるいは一度も)着ていない女性の服」だとわかりやすくなるだろうか。大量に服を持っている女性に対しての気持ち。「そんなに服を持ってどうするんだろう」「一度も着ていない服は処分しちゃえばいいのに」「そうすれば場所が空いて部屋も綺麗になるし、新しい服も買えるだろうに」という思考は、納得は出来ないかもしれないが少なくとも理解はできるはずだ。

解決方法としては

会話に尽きる。ものすっごい普通の結論だけど。まぁ、みんなわかりきってることだよな…!でも、「これがどれだけ大事か話しあう」ことよりも、それを実際に大事にしているところを見せたり、どういう風に鑑賞するものなのか話したりと、実際のアクションを交えながら話し合うことが大切かなと思う。実際に使っている所を見せることは、相手に「あぁ、本当に大切にしているんだな」と思ってもらうためにも必要な歩み寄りのプロセスであるはずだ。

 

物事に反応するその前に、「紳士淑女の3秒間」を

以前、「紳士の作法の心得」として、「異様な物音がしても、3秒間は振り返られるな。3秒以内に振り返ったところで、もう遅い。ゆうゆうとされよ」というものがあった。

作法心得第5章16節より。いささか古いがとても面白いので、紳士淑女を目指したい諸氏にはおすすめする!)

物事に慌てて付和雷同する様はみっともないよということなのだが、確かに俺の、俺達のジェームス・ボンドなら、パーティの最中に爆発が起こってもすぐにそちらを振り返らず、悠然とレディを避難させた後に問題解決に動き出すイメージがある。「何が紳士か」と考えるとき、「ボンドならどうするか」を考えるとイメージしやすい。しかし、「ボンドじゃないとこれは無理だ」というものが多々あるので、注意は必要だが…!

ボンドのようにはなれなくとも、「何かコトが起こったとき、どう振る舞うのか」ということを日常意識しておくことは大切だ。バスや電車で妊婦さんやご老体が入ってきた時、譲ろうかどうしようか迷ううちに他の人がさっと譲ってしまい、「あぁ、もっと早く決断しておけばよかったな」と敗北感を感じたことがある人は多いはずだ。…多いよな?

「3秒間待て」というのは、「何もするな」ということでなく、状況を判断し、決断するのを3秒で行なえということだろう。反射的に状況に踊るのではなく、状況を吟味して己の行動を選択する。それが紳士淑女というものなのだ。

これは、なにも日常生活だけに有用なものではないと思う。例えばtwitterなどのSNSで日々恐るべき速さで流れていく情報。これに対しても、「紳士淑女の3秒間」は適用できるのではないか。

誰かがこんなバカなことをした!

こんなケシカランことが!

こんな事件が!

大災害が!

これらショッキングなニュースに対するとき、いきなり踊り出すのはゼントルメンらしからぬ行いのはずだ。事実は事実。なるほど、そういうことがあったのか、とまずは認識するターム。それに対しての自分の意見、感情を確認するターム。そして自分の意見、感情を表に出すかどうかの判断のターム。これが紳士淑女の3秒間ということになるのではないだろうか。

俺はだいたいのことについては、付和雷同する価値はないと思う。

というか、本当を言うと、俺は物事を的確に判断できる自信がない。ともすれば踊るし、信じるし、騙される。大抵の失敗は、踊った時だ。恋愛、恐怖、多忙、焦燥、これらに踊った時、俺は大きな大きな失敗をする。…それはもう大きな、な?だから俺は、この紳士淑女の3秒間をもって、擬似的に知性ある振る舞いをしようと思っている。

事件、事故、ニュースに対して、まずはいきなり反応することをやめる。できるだけ、だけど。そして自分の中に判断する知識がない場合は、思い切って判断を保留する。まぁこんな風に書くと、ある意味でこれも付和雷同じゃねーかという疑念は脳の中で巻き起こるわけだけど。

ある事件に大してのネットの反応というのは、自分の脳の中の反応によく似ている。

最初は混乱。びっくりして情報が錯綜し、判断が出来ない状態。

次に、「わかりやすい解答」がでる。このわかりやすさはそれはもう素晴らしいもので、思わず飛びついてしまいそうなほどだ。

そして少し時間が経って、冷静な情報が出てくる。

更に時間が経って、定説が固まっていく。

この最初の二段階で反応をするときは、「果たして自分は冷静か?」「これはわかりやすい解答ではないか?」と自答すべきと思っている。怪しければ、勇気を持って小田原の評定へ出席するという流れで物事を判断するようにしている。ただ、この姿勢はあくまでも「擬似的な知性」であるので、「冷静な意見の登場を待つ」ことばかりやっていると、全く知性が育たないという難点はある。だからちゃんと考えながら保留していかないと、北条氏が滅亡してしまうことになるのだが。

 

戦闘中にその場でリスポーンする不死者の戦い マンガ「亜人」を読んで

マンガ「亜人」をコミックス8巻まで読んだ。

以前4巻まで読んでいたのだが、この度一気に読んできた。闇を包帯で巻き包んだような「黒い幽霊(ゴースト)」が印象的な表紙に「これは期待できそうだ!」と惹かれたのが発端。期待通り、とても面白い作品だった。

このマンガの魅力は大きく分けて3つあると思う。

  • 不死者という異物に対して社会がどう反応するか
  • 亜人となったキャラクターたちの葛藤やドラマ
  • 不死という能力を活かした戦いの魅力

社会に入り込んだ異物/異種モノは大変に俺の好物で、この作品も表紙とタイトルからして異物モノの匂いを漂わせていて楽しみだった。そして物語は実験材料とされる不死者の描写から始まる。俺はこの時点でグッとガッツポーズをしたものだが。この冒頭からの信頼感は「彼岸島」並だぜ。…「彼岸島」はいろいろと、こう、期待を超越する作品ではあるが!

社会の異物を受容するか、排除するかという序盤のつかみから、亜人(不死者)たちそれぞれの思想、事情を掘り起こし、各キャラクターを魅力的に描きつつ「異物の中の異物」である、暴走する悪役との対決を描いた作品。悪役の性格やその行動原理から、「パトレイバー」の内海さんを思い出したりもした。内海さんを知っている人なら、この悪役がどれほど邪悪かはよくわかると思う。ああいうのが一番たちが悪いんだよな。現実には絶対にいてほしくないタイプの悪だ。つまり、作品内においては大変な魅力を持ったキャラクターと言える。

そしてこの作品の白眉はやはり、「不死者が行う戦闘はどういうものになるか」につきる。

作中で亜人(人間未満、という意味か?)と呼ばれる不死者たちの特徴として、「死ぬと再生する(餓死でも飢えない状態で復活する)」「死ぬまでのダメージは普通に受ける(痛みも感じる)」「亜人黒い霧のスタンドのようなゴーストを出せる」「しかしゴーストは万能でなく、器用でもない。戦いの主体には(8巻時点で)なっていない」という、いろいろな制限がある。なので、ジョジョにおけるスタンドのようにオラァ!とかララァとかチュミミィィイン!とかこれがモハメド・アブドゥルのイメージッ!といったようなド派手なことは出来ない。ジョジョにもままある戦闘描写だけど、あくまでも「どう使うか」が主体で、ゴーストありきの戦闘は起きていないのが面白いところだ。

あくまでも亜人たちは「不死者であること」を最大の能力として戦闘を行う。

この戦闘描写が楽しいのなんの。不死という能力を最大限に駆使して戦ってくれるのが悪役のキャラクターなんだけど、この戦い方がものすごい。

前述のように、亜人の不死はあくまで「死んだら生き返る」なので、傷が即座に再生されるわけではない。だから、「戦闘において無茶をする」にも限度があり、工夫が求められる。例えば、麻酔弾を打ち込まれると昏倒して捕縛されるし、殺し続けられたら戦闘不能になってしまう。なので、亜人たちは、

「重いダメージを食らったらその場で即自殺をして傷をリセットする」

という戦闘方法を取る。この描写がとても新鮮だった。

亜人にはゴーストがあるが、それは戦闘にはなかなか使えない(うまい使い方も多々あるけど)。あくまでもメインの火力は自身の持つ銃火器が主だ。つまり戦闘方法としては現代の兵士たちとなんら変わらないのだが、「戦闘中に自殺をして怪我を治す」という一つの行動が戦闘を劇的に面白くしている。いやコレ本当、面白いよ。タイトルにも書いたように、その場でリスポンして暴れまわるという、ゲームでもやらないようなことをやっている。ダメージ→自殺→反撃のバリエーションに唸らされることうけ合いだ。

作中最も戦闘能力と不死を使う発想力が高いのが悪役なので、この悪役…もう佐藤さんでいいな!佐藤さんの変幻自在の戦闘がとにかく楽しい。口に銃をくわえる→衝撃で後方にぶっ飛ぶ→とんでる最中に再生→空中で銃撃という素晴らしい自殺コンボを見せてくれた時は思わず本を閉じて「やるよねぇ…!」と漏らしてしまった。

つまり不死者の戦闘であるにもかかわらず、いや、だからこそ「敵を殺さないように倒さなければならない」という戦闘が行われることになる。正しく無力化しなければ、相手は全快して再び襲ってくるのだ。このような戦闘が行われる作品において、主人公が頭脳明晰というキャラクター性を与えられたのは必然だろう。主人公の予想を上回るセンスで迫る佐藤さんにどう対処するのか、楽しみでならない。

そして圧倒的なヒロイン力を見せる田中さん。

田中さんがヒロイン。

田中さんは佐藤さんに助けられ、その恩義と人間への復讐心から行動をともにしているんだけど、この田中さんの魅力がとんでもないことになっている。

初登場時では典型的悪人面だったのに、巻を追うごとにワイルドなイケメン化が顕著になり、かつては優しい男性だったことが明らかになり、ついには仄かな迷いを感じつつも佐藤さんへの尊敬は変わらないという絶妙な憂いを帯びた瞳が魅力的なキャラクターとなっている…!ほら、唇をつまんでべろんとする癖もなくなったし!「わけのわからないキャラ」からの脱却が明確になったサインだぜコレは!俺は、田中さんを支持する!不死故に人格破綻者が多い作中にあって貴重な人格者枠になっているしな!素晴らしいぞ田中さん!なんか田中さん仲間になった後に死んじゃう感じはするけど!

 

もちろん、作品の好き好きはあろうけれど、この作品における「不死者の戦闘描写」は一度体験しておいて損はないと思う。たしかにそうなるし、こうやるだろうし、でもああまでやるとは思わなかった戦闘が目白押しだ。佐藤さんかっこいいよ。

 

そして、バジリスク」の天膳様は佐藤さんを見習うべきだと思う。マジで。

365日と20日、スプラトゥーンにハマり続けて

昨年の5月28日に発売して以降、大きく人気を博しているゲーム「スプラトゥーン」。

書くのも今更かな、と思ったりもしたけど、7月7日にWiiUスプラトゥーンセットとゲームの登場キャラクター・シオカラーズのアミーボが発売されたり、サントラ第二弾が出たり一番くじが登場したりと、発売1年を経てまだまだ盛り上がりを見せている。

明日、6月18日には「きのこたけのこ戦争」が開幕するしな!

スプラトゥーンは…と今更俺が書くこともなく、その魅力についてはよく知られたゲームになったと思う。2014年のE3での最初のトレイラーが出てから多くの人が「なぜスプラトゥーンは面白いのか?」を語ってきた。スプラトゥーンは「面白さを語りたい」「自分の体験を聞いてほしい」「新しい発見を共有したい」という非常にポジティブな波及が波及を呼んだ昨今稀にみるモンスターゲームだと思っている。イカだけども。

スプラトゥーンのキーワードは「楽しそう」に尽きる。

開発者も、プレイヤーも、ゲームデザインも、イカちゃんたちも、音楽もなにもかもが「楽しそう」で、実際楽しくて、その姿がまた周囲に楽しそうに映る。こういう流れこそが理想的な「ブーム」なのではないかな。もちろん問題はないとは言えないが、個人的には些細なことだと思う。

スプラトゥーンWiiUというゲームハードを最大限イカしたゲームで、その点からいってもスプラトゥーン任天堂にしか作れなかったろうと思う。任天堂の宮本氏が以前どこかで言っていたけど、「作りたいソフトを作れるようなハードを作っている」といったようなことを言っていたけど、まさにそれが結実したようなゲームだ。テレビと手元のパッドを見比べるのにリスクが存在するデザインや、手首を入力装置として使う仕様、miiverseの存在などなど、ここでは語りつくせぬほどに上手くハマったつくりをしている。大好きだ。とても好きなゲームだ。もしかすると、今まで一番プレイしたゲームかもしれない。

 

などと、長々といくらでも書いてしまえるんだが…

 

とりあえず、俺はダイナモローラーの話をするぞ!

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ダイナモローラー!

ダイナモローラーだ!

戦いはダイナモローラーだよ兄貴!

画像が荒くてスマンが!俺のプロジェクターはHDじゃなくてな…!

スプラトゥーンは「インクを塗りあう」というゲーム特性上、登場するブキたちは塗ることや液体をぶっかける道具をモチーフにしている。

100均で撃ってるような水鉄砲、ちょっと高価な水鉄砲、ウォーターサーバー、筆、バケツ、放水ホース、マーカーペン、高圧洗浄機、エアブラシ、そして、インクを塗り広げるためのローラーがある。

ダイナモローラーとは、このインクを塗るローラーに(何を思ったか)発電機を付け、遠くまで大量のインクをぶちまけることを可能にした暴力的なブキだ。実に魅力的だろう…?

 この破壊的なブキに出会って俺のイカ人生は一変した。

使えば使うほどに手に馴染むダイナモに俺は完全に魅せられ、あらゆるバトルが、あらゆる行動が、果ては現実にまでそのダイナモ感覚が押し寄せてくる。

他ブキを使っていても、普段の生活でも、

「今のはダイナモなら確実に殺れた」

「俺がダイナモを使っていればこんな展開には…」

ダイナモならこの味方を救えたはず」

ダイナモならチャージャー(スナイパー)の狙撃も楽に躱せたのに…!」

「この人混みにダイナモを打ち込んでみたい」

「満員電車の中をダイナモで塗りつぶしたい」

「特技はダイナモローラーとありますが?」「はい、ダイナモローラーです。広範囲にインクをばら撒き、ナワバリを広げることが出来ます」

などという、ダイナモ禁断症状とも言うべき感覚が俺の脳を襲う。

ダイナモはいわばスプラトゥーン界のザンギエフだ。得意不得意がはっきりしていて、使い手を選ぶ。そして、状況にハマった時は恐ろしく強い。

そんなロマンあふれるダイナモローラーを使い続けて1年。ダイナモ使いとしてはなかなかのモノ担ってきたのではないかと自負している。(失った時間は思い出となり、俺の中に脈々と生き続けるので、無駄な時間を過ごしたとは思わないぞ!あぁ、本当にな!)

ダイナモは視野の広さが何より大事だ。そして、これはゲームに限らず、勉強でも仕事でもスポーツでも、あらゆる分野に言えることだと思うが、熟達すればするほど視野が広くなる。見えなかったものが見えてくる。気づかなかったことに気づけるようになる。ダイナモを使っていて最も気持ちの良い瞬間は、「敵の姿が見える瞬間」だ。裏に回る敵、壁に潜んで近づく敵、潜伏して奇襲を狙う敵、それらが見えるようになってきた時、「あぁ自分は上達したんだな」と実感できた。

それらの敵の行動を予測して「見えているぞ!」インクを浴びせかける瞬間は最高に楽しい。チャージャーのチャージが完了した時の光、インクを泳ぐ音、潜った瞬間、復帰してくるまでの時間予測など、あらゆる情報をイカして敵と対峙するその瞬間が何よりも楽しい。

どちらがより多くの情報を得、適切な対応に出ることができるか。

この駆け引きの面白さは、久しく忘れていたゲームの興奮を思い起こさせてくれた。

ダイナモローラーの戦術とか、いろいろ書こうかとも思ったが、半端ではなく長くなりそうなので!

とりあえず、明日の戦争のために俺は準備をしようと思う。