物事に反応するその前に、「紳士淑女の3秒間」を
以前、「紳士の作法の心得」として、「異様な物音がしても、3秒間は振り返られるな。3秒以内に振り返ったところで、もう遅い。ゆうゆうとされよ」というものがあった。
(作法心得第5章16節より。いささか古いがとても面白いので、紳士淑女を目指したい諸氏にはおすすめする!)
物事に慌てて付和雷同する様はみっともないよということなのだが、確かに俺の、俺達のジェームス・ボンドなら、パーティの最中に爆発が起こってもすぐにそちらを振り返らず、悠然とレディを避難させた後に問題解決に動き出すイメージがある。「何が紳士か」と考えるとき、「ボンドならどうするか」を考えるとイメージしやすい。しかし、「ボンドじゃないとこれは無理だ」というものが多々あるので、注意は必要だが…!
ボンドのようにはなれなくとも、「何かコトが起こったとき、どう振る舞うのか」ということを日常意識しておくことは大切だ。バスや電車で妊婦さんやご老体が入ってきた時、譲ろうかどうしようか迷ううちに他の人がさっと譲ってしまい、「あぁ、もっと早く決断しておけばよかったな」と敗北感を感じたことがある人は多いはずだ。…多いよな?
「3秒間待て」というのは、「何もするな」ということでなく、状況を判断し、決断するのを3秒で行なえということだろう。反射的に状況に踊るのではなく、状況を吟味して己の行動を選択する。それが紳士淑女というものなのだ。
これは、なにも日常生活だけに有用なものではないと思う。例えばtwitterなどのSNSで日々恐るべき速さで流れていく情報。これに対しても、「紳士淑女の3秒間」は適用できるのではないか。
誰かがこんなバカなことをした!
こんなケシカランことが!
こんな事件が!
大災害が!
これらショッキングなニュースに対するとき、いきなり踊り出すのはゼントルメンらしからぬ行いのはずだ。事実は事実。なるほど、そういうことがあったのか、とまずは認識するターム。それに対しての自分の意見、感情を確認するターム。そして自分の意見、感情を表に出すかどうかの判断のターム。これが紳士淑女の3秒間ということになるのではないだろうか。
俺はだいたいのことについては、付和雷同する価値はないと思う。
というか、本当を言うと、俺は物事を的確に判断できる自信がない。ともすれば踊るし、信じるし、騙される。大抵の失敗は、踊った時だ。恋愛、恐怖、多忙、焦燥、これらに踊った時、俺は大きな大きな失敗をする。…それはもう大きな、な?だから俺は、この紳士淑女の3秒間をもって、擬似的に知性ある振る舞いをしようと思っている。
事件、事故、ニュースに対して、まずはいきなり反応することをやめる。できるだけ、だけど。そして自分の中に判断する知識がない場合は、思い切って判断を保留する。まぁこんな風に書くと、ある意味でこれも付和雷同じゃねーかという疑念は脳の中で巻き起こるわけだけど。
ある事件に大してのネットの反応というのは、自分の脳の中の反応によく似ている。
最初は混乱。びっくりして情報が錯綜し、判断が出来ない状態。
次に、「わかりやすい解答」がでる。このわかりやすさはそれはもう素晴らしいもので、思わず飛びついてしまいそうなほどだ。
そして少し時間が経って、冷静な情報が出てくる。
更に時間が経って、定説が固まっていく。
この最初の二段階で反応をするときは、「果たして自分は冷静か?」「これはわかりやすい解答ではないか?」と自答すべきと思っている。怪しければ、勇気を持って小田原の評定へ出席するという流れで物事を判断するようにしている。ただ、この姿勢はあくまでも「擬似的な知性」であるので、「冷静な意見の登場を待つ」ことばかりやっていると、全く知性が育たないという難点はある。だからちゃんと考えながら保留していかないと、北条氏が滅亡してしまうことになるのだが。
戦闘中にその場でリスポーンする不死者の戦い マンガ「亜人」を読んで
マンガ「亜人」をコミックス8巻まで読んだ。
以前4巻まで読んでいたのだが、この度一気に読んできた。闇を包帯で巻き包んだような「黒い幽霊(ゴースト)」が印象的な表紙に「これは期待できそうだ!」と惹かれたのが発端。期待通り、とても面白い作品だった。
このマンガの魅力は大きく分けて3つあると思う。
- 不死者という異物に対して社会がどう反応するか
- 亜人となったキャラクターたちの葛藤やドラマ
- 不死という能力を活かした戦いの魅力
社会に入り込んだ異物/異種モノは大変に俺の好物で、この作品も表紙とタイトルからして異物モノの匂いを漂わせていて楽しみだった。そして物語は実験材料とされる不死者の描写から始まる。俺はこの時点でグッとガッツポーズをしたものだが。この冒頭からの信頼感は「彼岸島」並だぜ。…「彼岸島」はいろいろと、こう、期待を超越する作品ではあるが!
社会の異物を受容するか、排除するかという序盤のつかみから、亜人(不死者)たちそれぞれの思想、事情を掘り起こし、各キャラクターを魅力的に描きつつ「異物の中の異物」である、暴走する悪役との対決を描いた作品。悪役の性格やその行動原理から、「パトレイバー」の内海さんを思い出したりもした。内海さんを知っている人なら、この悪役がどれほど邪悪かはよくわかると思う。ああいうのが一番たちが悪いんだよな。現実には絶対にいてほしくないタイプの悪だ。つまり、作品内においては大変な魅力を持ったキャラクターと言える。
そしてこの作品の白眉はやはり、「不死者が行う戦闘はどういうものになるか」につきる。
作中で亜人(人間未満、という意味か?)と呼ばれる不死者たちの特徴として、「死ぬと再生する(餓死でも飢えない状態で復活する)」「死ぬまでのダメージは普通に受ける(痛みも感じる)」「亜人は黒い霧のスタンドのようなゴーストを出せる」「しかしゴーストは万能でなく、器用でもない。戦いの主体には(8巻時点で)なっていない」という、いろいろな制限がある。なので、ジョジョにおけるスタンドのようにオラァ!とかドララァ!とかチュミミィィイン!とかこれがモハメド・アブドゥルのイメージッ!といったようなド派手なことは出来ない。ジョジョにもままある戦闘描写だけど、あくまでも「どう使うか」が主体で、ゴーストありきの戦闘は起きていないのが面白いところだ。
あくまでも亜人たちは「不死者であること」を最大の能力として戦闘を行う。
この戦闘描写が楽しいのなんの。不死という能力を最大限に駆使して戦ってくれるのが悪役のキャラクターなんだけど、この戦い方がものすごい。
前述のように、亜人の不死はあくまで「死んだら生き返る」なので、傷が即座に再生されるわけではない。だから、「戦闘において無茶をする」にも限度があり、工夫が求められる。例えば、麻酔弾を打ち込まれると昏倒して捕縛されるし、殺し続けられたら戦闘不能になってしまう。なので、亜人たちは、
「重いダメージを食らったらその場で即自殺をして傷をリセットする」
という戦闘方法を取る。この描写がとても新鮮だった。
亜人にはゴーストがあるが、それは戦闘にはなかなか使えない(うまい使い方も多々あるけど)。あくまでもメインの火力は自身の持つ銃火器が主だ。つまり戦闘方法としては現代の兵士たちとなんら変わらないのだが、「戦闘中に自殺をして怪我を治す」という一つの行動が戦闘を劇的に面白くしている。いやコレ本当、面白いよ。タイトルにも書いたように、その場でリスポンして暴れまわるという、ゲームでもやらないようなことをやっている。ダメージ→自殺→反撃のバリエーションに唸らされることうけ合いだ。
作中最も戦闘能力と不死を使う発想力が高いのが悪役なので、この悪役…もう佐藤さんでいいな!佐藤さんの変幻自在の戦闘がとにかく楽しい。口に銃をくわえる→衝撃で後方にぶっ飛ぶ→とんでる最中に再生→空中で銃撃という素晴らしい自殺コンボを見せてくれた時は思わず本を閉じて「やるよねぇ…!」と漏らしてしまった。
つまり不死者の戦闘であるにもかかわらず、いや、だからこそ「敵を殺さないように倒さなければならない」という戦闘が行われることになる。正しく無力化しなければ、相手は全快して再び襲ってくるのだ。このような戦闘が行われる作品において、主人公が頭脳明晰というキャラクター性を与えられたのは必然だろう。主人公の予想を上回るセンスで迫る佐藤さんにどう対処するのか、楽しみでならない。
そして圧倒的なヒロイン力を見せる田中さん。
田中さんがヒロイン。
田中さんは佐藤さんに助けられ、その恩義と人間への復讐心から行動をともにしているんだけど、この田中さんの魅力がとんでもないことになっている。
初登場時では典型的悪人面だったのに、巻を追うごとにワイルドなイケメン化が顕著になり、かつては優しい男性だったことが明らかになり、ついには仄かな迷いを感じつつも佐藤さんへの尊敬は変わらないという絶妙な憂いを帯びた瞳が魅力的なキャラクターとなっている…!ほら、唇をつまんでべろんとする癖もなくなったし!「わけのわからないキャラ」からの脱却が明確になったサインだぜコレは!俺は、田中さんを支持する!不死故に人格破綻者が多い作中にあって貴重な人格者枠になっているしな!素晴らしいぞ田中さん!なんか田中さん仲間になった後に死んじゃう感じはするけど!
もちろん、作品の好き好きはあろうけれど、この作品における「不死者の戦闘描写」は一度体験しておいて損はないと思う。たしかにそうなるし、こうやるだろうし、でもああまでやるとは思わなかった戦闘が目白押しだ。佐藤さんかっこいいよ。
そして、「バジリスク」の天膳様は佐藤さんを見習うべきだと思う。マジで。
365日と20日、スプラトゥーンにハマり続けて
昨年の5月28日に発売して以降、大きく人気を博しているゲーム「スプラトゥーン」。
書くのも今更かな、と思ったりもしたけど、7月7日にWiiUのスプラトゥーンセットとゲームの登場キャラクター・シオカラーズのアミーボが発売されたり、サントラ第二弾が出たり一番くじが登場したりと、発売1年を経てまだまだ盛り上がりを見せている。
明日、6月18日には「きのこたけのこ戦争」が開幕するしな!
スプラトゥーンは…と今更俺が書くこともなく、その魅力についてはよく知られたゲームになったと思う。2014年のE3での最初のトレイラーが出てから多くの人が「なぜスプラトゥーンは面白いのか?」を語ってきた。スプラトゥーンは「面白さを語りたい」「自分の体験を聞いてほしい」「新しい発見を共有したい」という非常にポジティブな波及が波及を呼んだ昨今稀にみるモンスターゲームだと思っている。イカだけども。
スプラトゥーンのキーワードは「楽しそう」に尽きる。
開発者も、プレイヤーも、ゲームデザインも、イカちゃんたちも、音楽もなにもかもが「楽しそう」で、実際楽しくて、その姿がまた周囲に楽しそうに映る。こういう流れこそが理想的な「ブーム」なのではないかな。もちろん問題はないとは言えないが、個人的には些細なことだと思う。
スプラトゥーンはWiiUというゲームハードを最大限イカしたゲームで、その点からいってもスプラトゥーンは任天堂にしか作れなかったろうと思う。任天堂の宮本氏が以前どこかで言っていたけど、「作りたいソフトを作れるようなハードを作っている」といったようなことを言っていたけど、まさにそれが結実したようなゲームだ。テレビと手元のパッドを見比べるのにリスクが存在するデザインや、手首を入力装置として使う仕様、miiverseの存在などなど、ここでは語りつくせぬほどに上手くハマったつくりをしている。大好きだ。とても好きなゲームだ。もしかすると、今まで一番プレイしたゲームかもしれない。
などと、長々といくらでも書いてしまえるんだが…
とりあえず、俺はダイナモローラーの話をするぞ!
ダイナモローラー!
ダイナモローラーだ!
戦いはダイナモローラーだよ兄貴!
画像が荒くてスマンが!俺のプロジェクターはHDじゃなくてな…!
スプラトゥーンは「インクを塗りあう」というゲーム特性上、登場するブキたちは塗ることや液体をぶっかける道具をモチーフにしている。
100均で撃ってるような水鉄砲、ちょっと高価な水鉄砲、ウォーターサーバー、筆、バケツ、放水ホース、マーカーペン、高圧洗浄機、エアブラシ、そして、インクを塗り広げるためのローラーがある。
ダイナモローラーとは、このインクを塗るローラーに(何を思ったか)発電機を付け、遠くまで大量のインクをぶちまけることを可能にした暴力的なブキだ。実に魅力的だろう…?
この破壊的なブキに出会って俺のイカ人生は一変した。
使えば使うほどに手に馴染むダイナモに俺は完全に魅せられ、あらゆるバトルが、あらゆる行動が、果ては現実にまでそのダイナモ感覚が押し寄せてくる。
他ブキを使っていても、普段の生活でも、
「今のはダイナモなら確実に殺れた」
「俺がダイナモを使っていればこんな展開には…」
「ダイナモならこの味方を救えたはず」
「ダイナモならチャージャー(スナイパー)の狙撃も楽に躱せたのに…!」
「この人混みにダイナモを打ち込んでみたい」
「満員電車の中をダイナモで塗りつぶしたい」
「特技はダイナモローラーとありますが?」「はい、ダイナモローラーです。広範囲にインクをばら撒き、ナワバリを広げることが出来ます」
などという、ダイナモ禁断症状とも言うべき感覚が俺の脳を襲う。
ダイナモはいわばスプラトゥーン界のザンギエフだ。得意不得意がはっきりしていて、使い手を選ぶ。そして、状況にハマった時は恐ろしく強い。
そんなロマンあふれるダイナモローラーを使い続けて1年。ダイナモ使いとしてはなかなかのモノ担ってきたのではないかと自負している。(失った時間は思い出となり、俺の中に脈々と生き続けるので、無駄な時間を過ごしたとは思わないぞ!あぁ、本当にな!)
ダイナモは視野の広さが何より大事だ。そして、これはゲームに限らず、勉強でも仕事でもスポーツでも、あらゆる分野に言えることだと思うが、熟達すればするほど視野が広くなる。見えなかったものが見えてくる。気づかなかったことに気づけるようになる。ダイナモを使っていて最も気持ちの良い瞬間は、「敵の姿が見える瞬間」だ。裏に回る敵、壁に潜んで近づく敵、潜伏して奇襲を狙う敵、それらが見えるようになってきた時、「あぁ自分は上達したんだな」と実感できた。
それらの敵の行動を予測して「見えているぞ!」インクを浴びせかける瞬間は最高に楽しい。チャージャーのチャージが完了した時の光、インクを泳ぐ音、潜った瞬間、復帰してくるまでの時間予測など、あらゆる情報をイカして敵と対峙するその瞬間が何よりも楽しい。
どちらがより多くの情報を得、適切な対応に出ることができるか。
この駆け引きの面白さは、久しく忘れていたゲームの興奮を思い起こさせてくれた。
ダイナモローラーの戦術とか、いろいろ書こうかとも思ったが、半端ではなく長くなりそうなので!
とりあえず、明日の戦争のために俺は準備をしようと思う。
泳ぎながら瞑想を
ここ2週間、毎日水泳に行っている。
以前から水泳には行っていたんだけど、思うところがあって平日は毎日やってみようと思い立ったというわけさ。…まぁ、その、健康のためにな!具体的にはダイエットな!あぁ!俺はダイエットをしている!今まさにな!
職場から市民プールが近いこともあり、そんな本気にはやらずとも、毎日十数分でも泳ごうと思った。どうせ1ヶ月パスを持っているわけだし、ライトな気分のほうが物事は長く続く。それに、水泳は用意するものが少ない、気軽に始められるスポーツだ(水着とタオルさえあればいい!)。それにランニングなどと違って、洗い物もとても少ない(水着とタオルだけだ!)。その分施設利用料はかかるけれどね。
幸いにして2週間毎日水泳に行けている(休日は除くけど)。
しかし、水泳には最も大きな問題がある。
多分、長く続けるための最大の問題だ。
それは、泳いでいる最中には、泳ぐ以外のことが何も出来ないということだ。
ランニングやサイクリングなら、音楽を聞ける。風景を見れる。しかし水泳は…!泳ぎながら音楽を聴くわけにもいかんし、泳げども泳げどもそこは全く同じ箱の中だ。俺は…俺は一体何のために何をしているんだ…!?俺の脳の中で疑問が沸き起こるというわけさ。
最初のうちは、例えばDIYのアイディアを考えたり、小学生の頃から連綿と続いている俺の脳の中の大長編の新たなるエピソードを創造したり、様々に考えるべきことを考えたりもした。
しかしどうも上手くいかない。どうしても10分そこらでネタが切れる。大長編はループに入り、小学5年の頃に大団円を迎えたエピソードが蘇ったりする。想像と思考のネタ切れとともに体力の消耗だけが大きくなり、「まぁ、今日はもうやめようかなぁ」ととなんとなく終えるのがいつもの感じだった。これはこれでいいと思うけど、なにか、こう、ダメな気がする。コレでは前に進むことは出来ないんじゃないか…!
そこで考えた。
こうなれば…ヴィパッサナー瞑想でもするか!?
これこそはまさに古代インドのウパニシャッド哲学が生み出した最強の瞑想法であって、かのゴータマ・シッダールタ先生もこの瞑想で悟りの境地に入ったという古今無双の瞑想法だぜ!
…非常なうさんくささが見え隠れするが!
まぁ、わりとスピリチュアル方面と相性が良いよな、こういうのは。
スピリチュアルかどうかは置くとして、この瞑想法は面白い。
瞑想といえば、静かに座って心の中を無にする、というイメージはあると思うけど、これは歩きながらでもできる瞑想法だ。…なんか、瞑想瞑想とやたら書くと妖しげな雰囲気になるね。
このヴィパッサナー瞑想では、自分の動き、感情、見たもの聞いたもの、触れたものすべてにラベルをつけたり、実況していくことで「自分のことをよく観る」のを主眼とする瞑想法だ(と、俺は理解している)。つまりはアートマンたる己とブラフマンが一体であることに気付くための深淵な智慧であり、ウパニシャッド哲学の聖仙・ヤージュニャヴァルキヤもこの境地に…云々…
なので、例えばゆっくりと歩きながら「右足が地面から離れた…進んでいる…地面についた…鳥の声を聞いた…左足を前に出した…腹が減ったと思った…進んで…右手をポケットに…」という風に。自分の動き、感情をすべて書き出して行くような感覚。ブッダ先生がマーラを退けたのも、心に浮かぶ雑念と、「雑念にとらわれてはいけない」と思う感情をも観測していたということなんだろうね。
で、まぁ、随分と前置きが長くなったけど。
水泳中にヴィパッサナー瞑想をやった結果として。
50分間ひたすら泳ぎ続けることが出来た…!
放っておいたらきっともっとやってたと思う。
水泳とこの瞑想は、多分めちゃくちゃ相性が良い。
なぜなら、水泳というのは呼吸が最重要なスポーツだからだ。
もちろん、他のスポーツもそうだけど、水泳は特に大事だ。むしろ水泳とは、息継ぎの間に何をするかがすべてなスポーツと思う。
瞑想では呼吸に意識を集中する。どうしようもない妄想が生まれてきた時、「考えるな!」と思うよりも、呼吸にだけ集中したほうが妄想は消えやすい。とにかく呼吸を観ることが瞑想で大事なことだから、水泳とは抜群に相性が良い。
更に、水泳中は呼吸に意識を向けなくとも、呼吸は観れる。
水泳は基本的に、水の中に顔を入れているときはずっとブクブクと息を吐いている。だから意識を集中しようとしなくたって、ブクブクに注目すればそれで事足りるのだ。ブクブクブク…息継ぎ、ブクブクブク…という行為をひたすら観察し続けると、あっという間に30分50分は泳ぎ続けられてしまう。
水泳を始める際に「1kmは泳げるようになりたいなー」と漠然と思っていた目標が、「うおお、もう少しでいける!」という期待感とか「どうすればもっと泳げるんだ!?」とか悩む間もなく静かに達成されてしまった。1週間前までは100mで息切れしていたのに。
しかし若干の…こう…物足りなさはあるものの、これはこれで良いな…!と思ってる。
この静かな感じのまま体重が落ちていってくれりゃあ、言うことは無いんだがな…!
…これも妄想だな!
生活の中心にシナジーを置いてみる
ゲーム「世界樹の迷宮」シリーズが好きだ。
ギルドを作り、好みのパーティを結成し、地図を作り上げ、迷宮を踏破する。
極めて危険なダンジョンばかりだけど、「最低限、回復手段さえあれば後はどんなパーティでも工夫次第でなんとかなる」という、とてもいいバランスだと思っている。最新作の5が今夏発売予定で、今もとても楽しみに待っている。
公式サイトの後ろの方にいる巌の如きマッチョが気になりすぎて俺はもう、待ちきれねぇぜ…!
世界樹の迷宮シリーズを好きな理由はいくつもあって、
・ファンタジーっぽいけどSF的な世界観が仄かに見える
・ニコニコ動画やpixivなどがサービス開始したのと同時期に発売したため、ファンの二次創作や交流が盛り上がった
・ハードな戦闘 ・自分でマップを書く、という地味に楽しい要素
・全滅(植林)する快感
・相乗効果のあるスキルが決まった時の達成感
と言ったものがある。
中でもとりわけ、「相乗効果(シナジー)を上手く使った戦闘」が大好きだ。
長々と書いてきたけど、要するに俺はシナジーのあるものが好きなんだな、と世界樹の迷宮シリーズをプレイしていて気がついたと言える。世界樹の迷宮がDS/3DSで展開しているのも、「2画面+タッチパネル」というゲームハードと最高にシナジーのあるゲームデザインで、これもまた俺は気に入ったんだと思う。
「上手いことやるなぁ」
と感心するのが、俺は好きだ。
だから日常生活にもなるべくシナジーを意識している。
何か製品を買う時でも、「一つひとつは単機能、組み合わせれば多機能」という視点で選んでいる。例えば、プロジェクターとWiiUとか。
プロジェクターは大画面だけど、起動が面倒。
WiiUなら最初はゲームパッドでゲームをはじめて、後でプロジェクターの電源を入れればいい。WiiUの長所がプロジェクターの短所を上手く消してくれて、「上手くいった!」という達成感が味わえる。割と大事なことだと思うんだよね、こういうの。
俺は今、週に3,4回水泳に通っているんだけど、これもまた上手いこといっている。
水泳の利点は、体を痛めずに有酸素運動を長く続けられるということだけど、他にも利点は多かった。
- 運動後の洗濯物が最小限(パンツと帽子とタオルだけだ!)
- 家を出るので、その間に部屋の空気の入れ替えができる(俺の部屋は熱気がこもる)
- シャワーをついでに済ませられる
- 単純に、水に使って遊ぶのは楽しい
- 嫌が応にも裸の己と向き合うことになる
水泳を始める前は、大変に熱せられた部屋に一人クタクタになって帰り着き、ほとばしる熱気の中で料理をし、のろのろとシャワーをあび、死にそうになりながら食べ、風呂に除湿機を回し、選択をし、やっと涼んできた頃には結局汗をかいていて気持ち悪くて俺の人生とは一体何だったのか一人苦悩する夏の夜だったのが、「水泳に行く」だけで解決してしまった。
今はちょうど、洗濯をする日に水泳に行っている。
水泳に行く日は自宅のシャワーを使わないから、除湿機は洗濯物の乾燥に回せるし。
一番の利点は、「上手く生活回ってるなー」となんとなく思うことかもしれないな。
罪悪感に火をつけて
やりたいけど、やれない。
ずっと思っているけど、まだ手を付けてない。
毎日決心をしているのに、「その時」は未だやってこない。
そんな日常から脱出を図るも、その「脱出を図る」という行動がそのまま「やれない」ループにハマるという、まさに俺たちの人生はアキレスと亀。アキレスに劣る俺は、永遠に亀に追いつくことはできそうにない。
この状態というのは、目的論的に考えると「俺はやればできる男なのだぜ…!」という無限のファンタジーを壊したくないから、無意識に俺は「可能性を保存しておくために」行動をおこさないと決心している、ということらしい。実際にやり始めてしまったら挫折したとか、才能がなかったとか、無意味だったとか、それが原因で大きな失敗をしたとか、非情な現実を見たくないという心理が働いて、俺たちは一歩も動かないとのことだ。
これはうなずける!
つまり俺たちは「やらない」という確固たる意思表示をし続ける内なる自分をたえず叱咤激励し、「大丈夫だ、いや大丈夫じゃないかもしれないが、大丈夫ということにしておいてとりあえず前に進め」と歩を進めなければならない。
この俺の中の俺自身、つまり俺の脳の中のマリーをどうするのか、これは人生の目標だけれども、先日「ちょっとこれは上手くいくかもしれん」という方法を思いついた。
やりたいことは、いつ思いつく?
やりたいこと、やらなきゃいけないこと、やっておいたほうがいいこと
これを最も痛感するのは仕事中だ。学生さんなら、たぶん授業中だろう。
ヤな仕事から逃避するために「あれやりたいなぁ」と思ったり、
「あれやっておけばこんな苦労はしなかったなぁ」と思ったり、
「これやっておけば後で楽なんだろうけどなぁ…」と思ったり。
その時は確かにやる気に火が付く。時には帰りに書店で英語の勉強法の本を買って帰るかもしれない。
しかし…そこで大体全部終わるんだよ!
家に帰ったらもう俺は何もしない!何もしないと固く決意する!俺は…俺は、もう…「俺の部屋」という夢から外には出たくない…!つらい…!
そうして、買ってきた本は袋に入れたまま適当な場所に置かれ、開かれることはなく、また明日も「やっておけばなぁ」の毎日が繰り返され、1週間が過ぎ、52回繰り返し、年齢が肉体に深く深く刻まれるというわけさ…!
だから俺は
仕事中にやることにした。
やりたいことを!やっておきたいことを!
すまん!いや、仕事はちゃんとするけど!その仕事の合間に、俺の時間をくれ!他ならぬ俺のために!
…あまりヨロシクナイ話ではあるんだが、俺は「仕事中に自分のことをやる」という罪悪感を使うことにした。
たぶん俺は、いつでもできることは、いつまでたってもやらない。
こう、あれだ、同棲中のカップルみたいなものだろう。「やろうと思えば、いつでもいつまでもやれる」んだけど、じゃあ果たして、やるのか?毎日?というとそうではない。むしろ、「会いたいけどなかなか会えないし、会ったら会ったで人目を気にしなきゃいけなくて…」という関係のほうが…こう、わかるだろう!?ヤるヤらないの話じゃなくて、やるやらないのことなんだが、まぁ、その、おおよそは伝わってくれると俺は信じることにするが!
もうちょっとマイルドに言えば、「仮病でサボったら、次の日はブーストがかかる」みたいな感じかな。仮病でサボると、翌日はその罪悪感から逃れるためにキビキビと動いたりする。仮病を疑われない範囲で。その心理を作り出しちゃったほうがいいと考えた。
あくまで発火装置として
もちろん、仕事中に個人的な勉強をやってることがバレたら大変なことになる。なので、ある程度仕事の裁量を任せられている人にしか使えない。でも、例えば英単語なら、10秒あれば例文一文読める。1日5回やれば1週間に35単語いける。1か月続ければ140語いける。もちろんそう上手くいかないが、着実に進歩はする。さらに、「俺はやっている」という確信が持てるし、「疑われないよう仕事も励まねば」と、仕事にも集中できる。
人目を盗んで愛を語らう決して許すことのできない恋人たちのように、一瞬の時間を大事にできるようになるのだ…!
とはいえ、やりすぎると大変なことになるので、そこは恋人たち以上の自制心を持ってやっていかなければならぬのだが。
俺も…オトナだしな…。
おすすめはあんまりしないけど、罪悪感で火をつけて進むというのも、ありかもしれないよ。
コンボイ司令官に教えてもらった、日米の「力」の違い
日本人は、もしかすると、「本能主義」が強いのかなと、思っている。
闘争本能だとか、野生の勘だとか、厳しいトレーニングを積んだ体が勝手に反応する、みたいな話はいろんな媒体で目にする。スポーツ中継でも「最後は気持ちでしょうねぇ」という解説があったり。
もちろん俺はそれほど外国の事情に通じているわけではないから明確なことは言えないが、日本人は「本能」にかなり重きを置いているのではないかと、なにかにつけ思う。例えば創作における「覚醒、血統、才能」であったり、精神論にも通じるような気がしている。別にそれが悪いと言っているわけでなく、つながりがあるのではないかということだ。
「日本人は本能重視」について考えたきっかけは、コンボイ司令官だった。
俺が中学生の頃に、「ビーストウォーズ 超生命体トランスフォーマー」というアニメが放映された。コンボイ司令官らサイバトロンの戦士とメガトロン様率いるデストロンが未開の惑星で動物たちに変身しながら戦いを繰り広げるというストーリーなんだが、これが非常に面白かった。今にして思えば、演じた声優さんたちの悪ノリがちょっと過ぎる部分があるけれど、当時の俺達はそれも含めて最高に楽しんでいた。だからあれはあれでよいのだろう。
ちょうどこれを書いている今日、Youtubeのタカラトミーチャンネルで配信が開始したらしい。何と言う奇遇!今年でビーストウォーズが20周年ということらしい。
<iframe width="420" height="315" src="https://www.youtube.com/embed/zUpskQzF9Lc" frameborder="0" allowfullscreen></iframe>
で、この作品で、コンボイ司令官はゴリラに変身する。
…ゴリラだ!
なぜゴリラ!?どうしてゴリラ!?他に選択肢はなかったのか!?
メガトロンはティラノサウルスなのに!
もっとこう…ライオンとか、そういう選択肢はなかったのか!?と当時ものすごい混乱した。
このゴリラコンボイの衝撃は忘れがたく、コンボイを思い出すときは必ず「なぜゴリラなんだ…」と思索せずにいられなかった。
しかしそれから10年以上立って、ようやく閃いた。なぜ俺の、俺達のコンボイ司令官がゴリラなのか、やっとわかる時が来た。そしてそれをきっかけに、様々なことが腑に落ちた。まさに十数年越しのアハ体験。雌伏の時は長かったぞ!
ひらめきのきっかけは、アメコミのキャラクター、ゴリラ・グロッド。
その圧倒的な佇まいに俺は万物の霊長の座を明け渡したわけなんだが、このゴリラ・グロッドを皮切りに、アメコミにはゴリラのキャラクターが多いことに気づく。
WikipediaにもGorillas in comicsという記事があるくらいに、ゴリラキャラがひしめいているのだ。そしてこのゴリラたちのキャラクター性を見ると、何気にどいつもこいつも頭がいい。このゴリラ・グロッドはGenius-level intellectを備えているとあり、つまりこれはアメコミ会で最も悪辣な頭脳を持つレックス・ルーサーと同程度の知性ということだ。すげぇ!
というかそもそも、アメコミに最初に登場したスーパーヴィラン(超能力を持つ悪役)は、何を隠そうゴリラだ。ウルトラ・ヒューマナイトという名で、悪の天才科学者が自らゴリラと化し、スーパーマンに襲いかかるわけだ。その登場は実に1939年。バットマンと同期だ。(レックス・ルーサーは1940年に登場)
悪のゴリラばかりでなく善のゴリラもいる。いずれも力と知性を兼ね備えた、まさに霊長としての威厳を感じさせるキャラクターたちだ。と思う。や、俺もすべてを確認したわけではないからな!
そういうわけで、コンボイ司令官がゴリラと化した背景が理解できた。
少なくともアメリカにおいては、ゴリラは「力と理性を兼ね備えた動物」という認識であるようだ。力と優しさ、そしていい考え知性を持つ司令官がゴリラに変身するのは自然な成り行きだ。
このゴリラ観から見ると、「キングコング」は「やべぇ怪物が現れたぜー!」というパニック映画であると同時に「ゴリラの悲劇」という見方もできるようになるし、「猿の惑星」も(ゴリラじゃないけど)ゴリラなら支配されてもしょうがねぇなという感覚が生まれてくる。「猿の惑星 創世記」で最高の活躍を見せてくれたゴリラへの愛着もより強まると言うものだ。
そんなゴリラコンボイの敵となるデストロン軍団は、これがまた見事に闘争本能に支配されている肉食な奴らばかりで俺の信頼はMAXなわけなんだけど、この図式からすると、「理性ある力」が正義側で、「本能のままに振るう力」が対立側となっている。他のアメリカの創作作品においても、「理性なき力」は悪とされることが多い。エイリアンは純然たる敵対者で、プレデターは味方になる(こともある)というのもそれだろう。
方や日本はどうか。日本では、「理性ある力」はそれほど評価されない。というより、「純粋な力」「人間などには制御しきれない力」が人気だ。
奇しくも先の「ビーストウォーズ」の後に日本で制作された「ビーストウォーズII 超生命体トランスフォーマー」では、コンボイ司令官はライオンに変身する。純粋な本能の力の象徴だ。
アメリカ制作:ゴリラ
日本制作:ライオン
という違いにはうならされた。これは、面白い!
このような違いの背景には、文化的な相違があるのだろう。本能を制する理性の輝きを重視するか、何者にも縛られない本能を重視するか。それは日本が天災の多い地域だったからかもしれない。また、アブラハムの宗教を生み出したユダヤ人が知性と理性を総動員しなければ生き残れなかったからかもしれない。
このことから、いくつもの事柄が腑に落ちた。
なぜ日本のキャラクターは少年少女なのか?
なぜアメコミヒーローに子供は大人なのか?
「ロリキャラがマッチョより強い」というのは、少女という「自然」への畏敬の念なんだろう。何も調整されていない、あるがままの存在としての少女に強大な力を見るのは日本においてはとても自然なことなのだ。対してアメリカでは、未熟な理性に強大な力を持たせるのは危険、と見ている。アメコミにもティーンのヒーローはいるけど、彼/彼女らは己の未熟さに悩んだり、未熟ゆえの失敗を繰り返して成長していく姿が主に描かれている。シャザムさんは結構ひどい扱いだぞ!
この両者の「力観」の違いは、どっちが良いというものではないだろう。悪くいえば、日本は力に対して無責任だし、アメリカは自然を力で支配しようとしていると言えてしまう。実際そう言われることも多い。しかし、いずれの態度も間違ってはいない。
キングコングは悲劇として描かれ、俺達に責任を意識させ、
ゴジラは人智を超えた災害として描かれる。(ゴジラがどんどん「いいやつ」になったのは自然な成り行きだと思う)
クジラやイルカの保護に関する様々な問題も、両者のスタンスの違いを考えると納得できてしまうのだ。