生活の中心にシナジーを置いてみる

ゲーム「世界樹の迷宮」シリーズが好きだ。

ギルドを作り、好みのパーティを結成し、地図を作り上げ、迷宮を踏破する。

極めて危険なダンジョンばかりだけど、「最低限、回復手段さえあれば後はどんなパーティでも工夫次第でなんとかなる」という、とてもいいバランスだと思っている。最新作の5が今夏発売予定で、今もとても楽しみに待っている。

公式サイトの後ろの方にいる巌の如きマッチョが気になりすぎて俺はもう、待ちきれねぇぜ…!

 

世界樹の迷宮シリーズを好きな理由はいくつもあって、

 ・ファンタジーっぽいけどSF的な世界観が仄かに見える

 ・ニコニコ動画やpixivなどがサービス開始したのと同時期に発売したため、ファンの二次創作や交流が盛り上がった

 ・ハードな戦闘 ・自分でマップを書く、という地味に楽しい要素

 ・全滅(植林)する快感

 ・相乗効果のあるスキルが決まった時の達成感

と言ったものがある。

中でもとりわけ、「相乗効果(シナジー)を上手く使った戦闘」が大好きだ。

 

長々と書いてきたけど、要するに俺はシナジーのあるものが好きなんだな、と世界樹の迷宮シリーズをプレイしていて気がついたと言える。世界樹の迷宮がDS/3DSで展開しているのも、「2画面+タッチパネル」というゲームハードと最高にシナジーのあるゲームデザインで、これもまた俺は気に入ったんだと思う。

「上手いことやるなぁ」

と感心するのが、俺は好きだ。

 

だから日常生活にもなるべくシナジーを意識している。

何か製品を買う時でも、「一つひとつは単機能、組み合わせれば多機能」という視点で選んでいる。例えば、プロジェクターとWiiUとか。

プロジェクターは大画面だけど、起動が面倒。

WiiUなら最初はゲームパッドでゲームをはじめて、後でプロジェクターの電源を入れればいい。WiiUの長所がプロジェクターの短所を上手く消してくれて、「上手くいった!」という達成感が味わえる。割と大事なことだと思うんだよね、こういうの。

 

俺は今、週に3,4回水泳に通っているんだけど、これもまた上手いこといっている。

水泳の利点は、体を痛めずに有酸素運動を長く続けられるということだけど、他にも利点は多かった。

  • 運動後の洗濯物が最小限(パンツと帽子とタオルだけだ!)
  • 家を出るので、その間に部屋の空気の入れ替えができる(俺の部屋は熱気がこもる)
  • シャワーをついでに済ませられる
  • 単純に、水に使って遊ぶのは楽しい
  • 嫌が応にも裸の己と向き合うことになる

水泳を始める前は、大変に熱せられた部屋に一人クタクタになって帰り着き、ほとばしる熱気の中で料理をし、のろのろとシャワーをあび、死にそうになりながら食べ、風呂に除湿機を回し、選択をし、やっと涼んできた頃には結局汗をかいていて気持ち悪くて俺の人生とは一体何だったのか一人苦悩する夏の夜だったのが、「水泳に行く」だけで解決してしまった。

今はちょうど、洗濯をする日に水泳に行っている。

水泳に行く日は自宅のシャワーを使わないから、除湿機は洗濯物の乾燥に回せるし。

 

一番の利点は、「上手く生活回ってるなー」となんとなく思うことかもしれないな。

罪悪感に火をつけて

やりたいけど、やれない。

ずっと思っているけど、まだ手を付けてない。

毎日決心をしているのに、「その時」は未だやってこない。

 

そんな日常から脱出を図るも、その「脱出を図る」という行動がそのまま「やれない」ループにハマるという、まさに俺たちの人生はアキレスと亀。アキレスに劣る俺は、永遠に亀に追いつくことはできそうにない。

この状態というのは、目的論的に考えると「俺はやればできる男なのだぜ…!」という無限のファンタジーを壊したくないから、無意識に俺は「可能性を保存しておくために」行動をおこさないと決心している、ということらしい。実際にやり始めてしまったら挫折したとか、才能がなかったとか、無意味だったとか、それが原因で大きな失敗をしたとか、非情な現実を見たくないという心理が働いて、俺たちは一歩も動かないとのことだ。

これはうなずける!

つまり俺たちは「やらない」という確固たる意思表示をし続ける内なる自分をたえず叱咤激励し、「大丈夫だ、いや大丈夫じゃないかもしれないが、大丈夫ということにしておいてとりあえず前に進め」と歩を進めなければならない。

この俺の中の俺自身、つまり俺の脳の中のマリーをどうするのか、これは人生の目標だけれども、先日「ちょっとこれは上手くいくかもしれん」という方法を思いついた。

 

やりたいことは、いつ思いつく?

やりたいこと、やらなきゃいけないこと、やっておいたほうがいいこと

これを最も痛感するのは仕事中だ。学生さんなら、たぶん授業中だろう。

ヤな仕事から逃避するために「あれやりたいなぁ」と思ったり、

「あれやっておけばこんな苦労はしなかったなぁ」と思ったり、

「これやっておけば後で楽なんだろうけどなぁ…」と思ったり。

 その時は確かにやる気に火が付く。時には帰りに書店で英語の勉強法の本を買って帰るかもしれない。

しかし…そこで大体全部終わるんだよ!

 家に帰ったらもう俺は何もしない!何もしないと固く決意する!俺は…俺は、もう…「俺の部屋」という夢から外には出たくない…!つらい…!

そうして、買ってきた本は袋に入れたまま適当な場所に置かれ、開かれることはなく、また明日も「やっておけばなぁ」の毎日が繰り返され、1週間が過ぎ、52回繰り返し、年齢が肉体に深く深く刻まれるというわけさ…!

 

だから俺は

仕事中にやることにした。

やりたいことを!やっておきたいことを!

すまん!いや、仕事はちゃんとするけど!その仕事の合間に、俺の時間をくれ!他ならぬ俺のために!

 …あまりヨロシクナイ話ではあるんだが、俺は「仕事中に自分のことをやる」という罪悪感を使うことにした。

たぶん俺は、いつでもできることは、いつまでたってもやらない。

こう、あれだ、同棲中のカップルみたいなものだろう。「やろうと思えば、いつでもいつまでもやれる」んだけど、じゃあ果たして、やるのか?毎日?というとそうではない。むしろ、「会いたいけどなかなか会えないし、会ったら会ったで人目を気にしなきゃいけなくて…」という関係のほうが…こう、わかるだろう!?ヤるヤらないの話じゃなくて、やるやらないのことなんだが、まぁ、その、おおよそは伝わってくれると俺は信じることにするが!

もうちょっとマイルドに言えば、「仮病でサボったら、次の日はブーストがかかる」みたいな感じかな。仮病でサボると、翌日はその罪悪感から逃れるためにキビキビと動いたりする。仮病を疑われない範囲で。その心理を作り出しちゃったほうがいいと考えた。

あくまで発火装置として

もちろん、仕事中に個人的な勉強をやってることがバレたら大変なことになる。なので、ある程度仕事の裁量を任せられている人にしか使えない。でも、例えば英単語なら、10秒あれば例文一文読める。1日5回やれば1週間に35単語いける。1か月続ければ140語いける。もちろんそう上手くいかないが、着実に進歩はする。さらに、「俺はやっている」という確信が持てるし、「疑われないよう仕事も励まねば」と、仕事にも集中できる。

 人目を盗んで愛を語らう決して許すことのできない恋人たちのように、一瞬の時間を大事にできるようになるのだ…!

 とはいえ、やりすぎると大変なことになるので、そこは恋人たち以上の自制心を持ってやっていかなければならぬのだが。

俺も…オトナだしな…。

 

おすすめはあんまりしないけど、罪悪感で火をつけて進むというのも、ありかもしれないよ。

コンボイ司令官に教えてもらった、日米の「力」の違い

 

日本人は、もしかすると、「本能主義」が強いのかなと、思っている。

闘争本能だとか、野生の勘だとか、厳しいトレーニングを積んだ体が勝手に反応する、みたいな話はいろんな媒体で目にする。スポーツ中継でも「最後は気持ちでしょうねぇ」という解説があったり。

もちろん俺はそれほど外国の事情に通じているわけではないから明確なことは言えないが、日本人は「本能」にかなり重きを置いているのではないかと、なにかにつけ思う。例えば創作における「覚醒、血統、才能」であったり、精神論にも通じるような気がしている。別にそれが悪いと言っているわけでなく、つながりがあるのではないかということだ。

「日本人は本能重視」について考えたきっかけは、コンボイ司令官だった。

俺が中学生の頃に、「ビーストウォーズ 超生命体トランスフォーマー」というアニメが放映された。コンボイ司令官らサイバトロンの戦士とメガトロン様率いるデストロンが未開の惑星で動物たちに変身しながら戦いを繰り広げるというストーリーなんだが、これが非常に面白かった。今にして思えば、演じた声優さんたちの悪ノリがちょっと過ぎる部分があるけれど、当時の俺達はそれも含めて最高に楽しんでいた。だからあれはあれでよいのだろう。

ちょうどこれを書いている今日、Youtubeタカラトミーチャンネルで配信が開始したらしい。何と言う奇遇!今年でビーストウォーズが20周年ということらしい。

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で、この作品で、コンボイ司令官はゴリラに変身する。

ゴリラだ!

なぜゴリラ!?どうしてゴリラ!?他に選択肢はなかったのか!?

メガトロンはティラノサウルスなのに!

もっとこう…ライオンとか、そういう選択肢はなかったのか!?と当時ものすごい混乱した。

このゴリラコンボイの衝撃は忘れがたく、コンボイを思い出すときは必ず「なぜゴリラなんだ…」と思索せずにいられなかった。

 

しかしそれから10年以上立って、ようやく閃いた。なぜ俺の、俺達のコンボイ司令官がゴリラなのか、やっとわかる時が来た。そしてそれをきっかけに、様々なことが腑に落ちた。まさに十数年越しのアハ体験。雌伏の時は長かったぞ!

ひらめきのきっかけは、アメコミのキャラクター、ゴリラ・グロッド

その圧倒的な佇まいに俺は万物の霊長の座を明け渡したわけなんだが、このゴリラ・グロッドを皮切りに、アメコミにはゴリラのキャラクターが多いことに気づく。

WikipediaにもGorillas in comicsという記事があるくらいに、ゴリラキャラがひしめいているのだ。そしてこのゴリラたちのキャラクター性を見ると、何気にどいつもこいつも頭がいい。このゴリラ・グロッドはGenius-level intellectを備えているとあり、つまりこれはアメコミ会で最も悪辣な頭脳を持つレックス・ルーサーと同程度の知性ということだ。すげぇ!

というかそもそも、アメコミに最初に登場したスーパーヴィラン(超能力を持つ悪役)は、何を隠そうゴリラだ。ウルトラ・ヒューマナイトという名で、悪の天才科学者が自らゴリラと化し、スーパーマンに襲いかかるわけだ。その登場は実に1939年。バットマンと同期だ。(レックス・ルーサーは1940年に登場)

悪のゴリラばかりでなく善のゴリラもいる。いずれも力と知性を兼ね備えた、まさに霊長としての威厳を感じさせるキャラクターたちだ。と思う。や、俺もすべてを確認したわけではないからな!

そういうわけで、コンボイ司令官がゴリラと化した背景が理解できた。

少なくともアメリカにおいては、ゴリラは「力と理性を兼ね備えた動物」という認識であるようだ。力と優しさ、そしていい考え知性を持つ司令官がゴリラに変身するのは自然な成り行きだ。

このゴリラ観から見ると、「キングコング」は「やべぇ怪物が現れたぜー!」というパニック映画であると同時に「ゴリラの悲劇」という見方もできるようになるし、「猿の惑星」も(ゴリラじゃないけど)ゴリラなら支配されてもしょうがねぇなという感覚が生まれてくる。「猿の惑星 創世記」で最高の活躍を見せてくれたゴリラへの愛着もより強まると言うものだ。

そんなゴリラコンボイの敵となるデストロン軍団は、これがまた見事に闘争本能に支配されている肉食な奴らばかりで俺の信頼はMAXなわけなんだけど、この図式からすると、「理性ある力」が正義側で、「本能のままに振るう力」が対立側となっている。他のアメリカの創作作品においても、「理性なき力」は悪とされることが多い。エイリアンは純然たる敵対者で、プレデターは味方になる(こともある)というのもそれだろう。

方や日本はどうか。日本では、「理性ある力」はそれほど評価されない。というより、「純粋な力」「人間などには制御しきれない力」が人気だ。

奇しくも先の「ビーストウォーズ」の後に日本で制作された「ビーストウォーズII 超生命体トランスフォーマー」では、コンボイ司令官はライオンに変身する。純粋な本能の力の象徴だ。

アメリカ制作:ゴリラ

日本制作:ライオン

という違いにはうならされた。これは、面白い!

このような違いの背景には、文化的な相違があるのだろう。本能を制する理性の輝きを重視するか、何者にも縛られない本能を重視するか。それは日本が天災の多い地域だったからかもしれない。また、アブラハムの宗教を生み出したユダヤ人が知性と理性を総動員しなければ生き残れなかったからかもしれない。

このことから、いくつもの事柄が腑に落ちた。

なぜ日本のキャラクターは少年少女なのか?

なぜアメコミヒーローに子供は大人なのか?

「ロリキャラがマッチョより強い」というのは、少女という「自然」への畏敬の念なんだろう。何も調整されていない、あるがままの存在としての少女に強大な力を見るのは日本においてはとても自然なことなのだ。対してアメリカでは、未熟な理性に強大な力を持たせるのは危険、と見ている。アメコミにもティーンのヒーローはいるけど、彼/彼女らは己の未熟さに悩んだり、未熟ゆえの失敗を繰り返して成長していく姿が主に描かれている。シャザムさんは結構ひどい扱いだぞ!

この両者の「力観」の違いは、どっちが良いというものではないだろう。悪くいえば、日本は力に対して無責任だし、アメリカは自然を力で支配しようとしていると言えてしまう。実際そう言われることも多い。しかし、いずれの態度も間違ってはいない。

キングコングは悲劇として描かれ、俺達に責任を意識させ、

ゴジラ人智を超えた災害として描かれる。(ゴジラがどんどん「いいやつ」になったのは自然な成り行きだと思う)

クジラやイルカの保護に関する様々な問題も、両者のスタンスの違いを考えると納得できてしまうのだ。