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脳の中のマリー

アントワネット的なことを脳の中で

「的を射る」はあんまり「的を得て」いないんじゃないかと思う

「的を得る」と発言したら、光の速さで「的は射るもので、得るものではない」というコメントがキミに届く。

「的を得る」の誤用を正すのはお手軽なマウンティング方法になっているからかもしれない。気軽に「奴は無知だぜ」と宣言することができるからかも。

しかし、果たして「的を得る」のは間違っているのか、ずっとモヤモヤしている。いや、モヤモヤじゃなく。俺は間違ってないと思っている。全然いいと思っている。大いに使うべきとすら思っている!

以下に、その理由を3つ挙げてみる。多分、いろんな人が言ってるのと被るとは思うけど。

元ネタからして「得る」である

「的に矢を当てるという慣用表現」の元ネタは、あの男である。俺たちの誰もが知るあの男。弓術に人間の真実を見た男。弓術こそがエグゼクティブのやるべき武術であると確信を得た男。歴史に燦然とその名を残す…というかむしろ歴史を書き残した最初期の男、善なる人間とは何かを今もって俺たちに教え続けている不滅の男、今も数十億人に影響を及ぼし続けている偉大なるあの男が元ネタである。

孔丘先生です。孔子その人。

「なんでわるいことしちゃいけないの?」という素朴な疑問に、

「神が見ているからだよ」と答えるのでなく「自分がいやなことは他人にもしちゃいけないからだよ」と答えるのは、間違いなく孔丘先生の影響。

その孔丘先生の言葉に、こういうものがある。

 射有似乎君子 失諸正鵠 反求諸其身

弓術は君子の道に似ている。的の真ん中を外しても、それは誰のせいにもできない。自分の中に原因を求めるしかないのだ。(中庸 第十四章)

同様のことを、孔子の弟子の弟子の弟子…?である孟子も言っている。「仁ってのは弓術と同じだよ。隣の人が自分よりうまく当てたからってその人を恨むわけにはいかない。自分が精進しなければね」

意外に思われるかもしれないが、弓術は当時の儒者にとって必須だった。孔子の開いていた塾でも、弓術は必須科目だった。日本の武士が「弓馬の道」として弓術を尊んだのも、根底には儒学の影響があるのかもしれない。弓道は元をたどれば孔子に至るんじゃないか。

で、先ほどの孔丘先生のお言葉。「失諸正鵠」というのは、「的を外す」という意味。正鵠(せいこく)というのは、弓道の的のど真ん中の赤い丸のこと。孔丘先生は「正鵠を『失った』からといって…」と言っている。「失う」の反対語は「得る」である。だから、「正鵠を得る」の言葉がある。

当を得る、的を得る/射る、正鵠を得る、これは全部「あたった」という表現であり、その根底にいる孔丘先生が「正鵠を失したから~」と言ってるので別に「得る」でも問題ないと思うのである。

的中範囲の問題

「的を射る」は、あんまり「当たった感」がないと思う理由は、その的中範囲である。いや、これは俺の単なる感想になるのかもしれないが。

まず、先ほどの孔丘先生の言。孔丘先生は非常に要求レベルが高い。「正鵠を失した」と言っているように、弓術をやるなら的のど真ん中を狙うべきで、単に的のどこかに当たったというのは褒めるようなことじゃないと先生は言っている。ように感じる。身長2m超えの孔丘先生にそんなことを言われたら平伏するしかない。強い。

「正鵠」が最高得点だとするのなら、「的」は一歩ゆずる。孔丘先生的には十分な反省が必要なレベルだし、弓道の全国大会的にも反省ポイントになるんじゃなかろうか。

サッカーで例えるなら、「正鵠を得る」は「ゴールを決める」であり、「的を射る」は「シュートを打つ」くらいの範囲になるような気がしてくる。「的を射る」その心意気は買うけれども、できればもう少し的中範囲絞って正鵠を得ようぜ、と思う。あくまでも俺の中で、だが!

「的を射る」は的に当てるという意味も含むよ、ということならば、ぜひとも「的を得る」についても「当たりをゲットする」という意味も含めてほしいところ。

言葉の変遷

「まとをいる」よりも「まとをえる」のほうが言いやすい。ただそれだけの理由だ!

いや、それだけなんだけど、無視していいことじゃないと思うんだ。しかも「的を得る」には前述の孔丘先生のお墨付きもあるわけだし。

言葉は、基本的に言いやすいように変化していく。言いにくい表現は失われていくのが言語だ。

それでも正しい言い方、読み方に拘るべきという人ももちろん多いだろうけど、「新しい」を「あらたしい」とはもう誰も読まないことを少しだけ思い出してほしい。

英語的にも

英語話者がアーチェリーをやって的のど真ん中に的中させたら、「I got it !」というかもしれない。これは「やったぜ」くらいの意味だけど、「get」を「当たった」の意味で使う表現が英語にはある。ここの辞書の12番に書いてあるな。

だから「得る」でもいいんじゃねえかな!

という非常に乱暴な意見である。すまない。

そういうわけで

「的を得る」をそんなに目の敵にして攻撃しなくてもいいんじゃないかなぁ。

と思うんだよね。

的を得る/射るの応酬をみるにつけ、俺の脳の中に身長2.2mの孔丘先生が俺の肩に手を置き、圧倒的なオーラを醸し出しつつ「yajulよ、なぜ正鵠を狙わないのだ?」と胃にズシンとくる声で語る姿が再生されてしまうのだ。

 

 

 

 

 

 

メルカリには夢がない

バケツリスト ほしいもの ひらめき アイディア これは熱い 勇気

もちろん、比喩ではなく、メルカリには夢が売っていないというそのままの意味で。

 

今朝がたこんな夢を見た。

悪い夢の話をこんなにも詳細に書こうと思ったのは、「悪い夢は人に話せ。いい夢は話すな」と言うし、実際誰かに話した方が気が楽になるから。また、「話す」は「離す」に通じるので、悪い夢は離し、いい夢は離さないという言霊的効果もあるのかもしれない。

いい夢、悪い夢、離す、離さないについて考えている中で、ふと思いついた。

(夢買いのことは、マンガ「応天の門」で知りました。面白いよ)

 こういう「夢買い」の習慣は、「離したがらない」いい夢を、対価を払って自分のものにするというある種、呪術のようなものだったのかもしれないなと。買われるから、離さない。離すなら、相応の対価をいただく。

これは何か、とても面白いことのように思う。

だから、夢を探してみた。

夢を買うために。

夢だけは誰にも奪えない心の翼だからこそ、説得し、交渉し、双方が納得のいく形で契約をし、夢を、買う!

奪えなくとも、夢は買えるッ!

探し物は、夢。見つけにくい夢。鞄の中にも、机の中にもない、見た人の頭の中にあって決して離さない夢。夢の中に行ってる場合じゃない。俺がほしいのはその夢なのだから!

というわけで、俺のバケツリストが更新されて、

「いつか夢を買う」

が、俺の夢の一つになりました。

メルカリには夢の出品は見当たらず、Twitterで「夢 見た」と検索してもヒットするのは離したい悪夢ばかり。

家族友人のいい夢はなるべく買いたくない。彼/彼女の夢はそのままにしておきたい。

となると、これは、人生の中でもトップクラスに難しい買い物になるのではなだろうか。「この夢買えよ」といわれるものではない。売りつけられるものではない。あくまでも、自分が探し、求め、見つけ、心からほしいと思うものを買うのだ。これほど幸せな買い物はあるだろうか。

 こんなに買い物が楽しみになったのは久しぶりだ。

いつか、俺は夢を買う。家よりも難易度の高い買い物だ。これは燃える。

…下手をうって猿夢など買わぬよう、注意しなければならないな!

英語の発音や、日本語の滑舌に悩むその前に

話し方 アイディア 健康

自分がどのくらい口を開けているか、鏡の中の人物に問いかけてみましょう。

あぁ自分は滑舌が悪いなぁだとか、「いい声」がほしいなぁだとか、英語の発音が苦手だなぁと思っている人(8割以上の人がそうでしょう!)がまず最初にすべきは、外郎売りでも朗読でもスピーチトレーニングでもフォニックスでもなく、口の開け方です。

滑舌やスピーチトレーニングの本では、まず間違いなく最初に正しい口の開け方が図解されますが、英語の発音に関して「まずは口を大きく開けましょう」と教えているのはなかなか見ません。しかし、それこそが最も大切なこと。

 発音というのは要するに、「口と舌の型」ということです。空手なんかの型稽古と全く同じなわけですね。正しい口の形で、正しい舌の動かし型をすれば絶対に発音できます。そして滑舌というのは、「素早く正しい型ができるか」ということで、要するに筋トレです。

この型稽古と筋トレをやれば、誰だって正しい発音と滑舌は手に入ります。ある程度のクセは残ってしまうにしても。

そういうわけで、発音の型稽古と滑舌の筋トレをするために絶対に必要なのが、「口を大きく開けること」ですね。大きく開けた口がすなわち、型稽古の道場となり、筋トレのフィールドとなるわけです。舌が自由に動かせる範囲が広くなればなるほど、正しい発音が出来るようになる可能性が上がるんです。PCで言えばメモリです。メモリの少ないPCはいかに高性能なCPUを擁していても性能は発揮できないということです。料理で言えば、1人分の煮物を作るよりも6人分を作った方がおいしく、失敗せず出来ますよね。口を開けないで上手く発音するのは、1人分の煮物を何とかしておいしく作ろうと奮闘するような物です。縛りプレイも結構ですが、効率はきわめて悪く、おいしくありません。

腹話術を考えてみるとわかりやすいでしょう。腹話術は高等技術です。なぜ高等技術なのかというと、口の形を制限するからです。口をほぼ使わず、舌と口腔で音を出す。これは相当な縛りプレイです。口を大きく開けないと言うことは、腹話術のように難易度を自ら上げる行為です。初心者がいきなり高等技術に挑んでも、挫折が待ち受けているだけです。

個人的には、口を開けることに抵抗があるのはマンガなんかの影響もあったかなーと思っています。マンガのキャラクターって、あまり口を開けませんよね。開けていたとしても、「そういうキャラ」か、「そういう場面」に限られます。そういうふうに、「あまり口を開けない方がかっこいいのではないか」と静かに刷り込まれ、「口を開けること=顔が崩れること」とどこかで思い込んでしまったのではないかな、と思い返したりします。

そういう呪縛が心のどこかにあるのは、おそらく俺だけではないはずです。口を開けるのが恥ずかしい、歯を見せるのが嫌だ、顔が崩れる気がする…。鏡の前での自分のベストの顔は、口は開けていませんしね。

しかし実際のところ、口を開けるのは魅力的でありこそすれ、不格好ではないです。人の前で口を開けっ放しにしておくわけでなし、喋っているときに口を大きく開けてもなんら問題はありません。「口を開けるのはみっともない」と思ってしまう場面って、「不必要な場面で口を開けている」ときだけですからね。

現代における最高のイケメン、いや伊達男の一人である、マイケル・ファスベンダーを見てみましょう。「誰それ?」という人は「X-men ファーストジェネレーション」でも見てきて下さい。マグニートー役の人です。…アメコミが苦手な人は「SHAME」を。…この人、すばらしいイケメンなのに、キャリアがなかなか刺激的で…素直に万人にお勧めできる作品が少ないのですよね。「SHAME」はセックス依存症の役ですし。いや、名作ですが。あとはアンドロイドとか筋肉ムッキムキのスパルタン野郎とかスティーブ・ジョブズとか。とかく紹介に困る人です。すばらしい役者さんなのですが!X-Menの映画はあまり好みではないですが、この人がかっこいいと言うだけで見る価値を見いだせますからね。

で、このマイケル・ファスベンダーの最高にセクシーな表情が、「歯を見せて笑う」表情な訳ですよ。だいぶ脱線してきていますが、何とか「口を開ける」に関連させて参りたく。彼は「あはは」と笑うのでなく、クッとはにかむというか、犬歯をみせる笑い方をするんですよ。「サメの笑顔」と言われます。彼がサメの笑顔を見せたとき、俺は必ず一時停止してぐっとガッツポーズをするわけですよ。全く、最高だぜ。

……

口を開けるのが恥ずかしいと一瞬でも思ってしまったら、これからはこのファスベンダーの笑顔を思い出すといいでしょう。口を開けても大丈夫だ!かっこいい!ファスベンダーには到底及ばずとも!方向性は間違ってない!と信じる!のが大事!じゃないかなと思う。

 

発音、滑舌の前に、口を大きく開けることを意識して。

口を開けるのに抵抗があるならファスベンダーを。

大げさに口を開けても、周りはそれと気づかない物ですよ。

声も大きくなるし、表情筋を鍛えられてたるみやしわの予防になりますし、脳にも良い影響がありますよ。

気がついたときにでも、実践してみてはいかがでしょうか。

 

 

 

話したいことの1割も話せていない人は、「小説のように話しているから」かもしれない

話したいことを上手く伝えられない。

最高におもしろい体験なのに、言葉にすると全くつまらない。

伝えたいことの1割も語れていない。

どうにかしておもしろさを伝えようといろいろ表現を工夫してみるけれど、やっぱりつまらない。相手のしらける顔に、あるいは博愛の表情に、さらに焦ってしまう。表現が上手くないのは語彙が足りない(と思っている)から、もっと凝った言い回しをしようとしてさらに話が難解に難解に。自分から始めた会話のはずなのに、出口が見えない。

そしてついに、「結局どういう話なの?」という死刑宣告を受け、「いや、そんなたいした話じゃないんだけど…」と屈してしまう。 

そんな経験がある人はたくさんいると思う。

先日、友人にこのような悩みを打ち明けたら、

「どうせあれでしょう。うまいこと言ってやろうとしてるんでしょう?」

「yajulくんは小説を書くように話してるんだよ」

と言われた。

つまり、自分の話は以下のような順序を踏んでいる。

  • 背景描写
  • 伏線
  • クライマックス
  • エピローグ

だから、

「集中して最後まで聞くととってもおもしろい。けれど聞き逃したり、何かわからないことが出てくるとおいて行かれちゃう」

 ということに、なってしまう。

また、最後のエピローグの余韻を重視するので、オチがものすごく説明不足だと。それまでの伏線をちゃんと理解していると、最後のオチで考えて、あぁなるほどとなって最高のエンディングを迎えられるんだけど、残念ながら人は他人の話をそこまで熱心に聞かない。だから俺の話は、話してるほうも話されるほうも不完全燃焼になってしまう。

これは俺だけでなく、小説や映画など長い話を好む人に陥りがちなコミュニケーションの罠ではないかと思う。子供の頃から上記の流れこそが「おはなし」だと信じてきたので、それを「話」にも適用してしまう。storyとconversationは別物であるのに、ついつい混同してしまう。

小説的な話し方がクセになっている人は、「なんだかよくわからないけどすごいね、きみって頭いいんだね」と反応されることが多い。皮肉で言われているのでなく、純粋に言われている。余計につらい。なぜなら、本来はもっとうまく、"小説のように"相手に感動を与えることができるはずだから。そう思ってしまう。

あるいは、コンテキスト(前提となる文脈)が一致する相手とだけ打ち解ける場合もある。よく似たバックグラウンド、よく似た嗜好、同じ体験、前提を共有できている相手と話すのはとっても楽。こういう相手こそ自分が求めていた会話相手なんだ!と思い込んでしまう。そういう相手と話すのは楽だけど、実のところ本当に一致しているわけではないので、ささいな違いが気になって気になって、最終的に大きくこじれることも少なくない。しかも、一歩踏み間違えると、他者を値踏みして「頭がいい/悪い」で人をふるいにかける恐ろしいこともやってしまう。

またさらに、小説的会話術の使い手は聞き役に回った時もうまくいかない。

いや、本当にうまくいかないんだよ。

なぜなら、聞き役に回った時にも「うまい言い回し/鋭い質問」を考えてしまうから。そしてそれに固執してしまうから。

だから、その質問を思いついた時点でその人の中で時間は止まる。

相手がそのあと何を話していたとしても、その「うまい質問」を温めるあまり、続きが耳に入ってこなくなっちゃう。

質疑応答で頓珍漢な質問をする人だとか、それまでの話の中にきちんと答えがあるのに勝ち誇ったように質問をしちゃうとか、そういう風になってしまう。心当たりがありすぎて胸が痛い!

だから、まず、会話と「おはなし」は別のものだと認識を。

そして会話においては、1割伝われば十分と考えて。

思いついたことを全部言っちゃだめ。

ひらめきは生まれるに任せて、忘れるに任せて。

うまいことはまた思いつく。

そう自分に言い聞かせつつ。

 

 

…っていう風に会話するとだめだからな!

ちゃんと「そういうところに気を付けないとね」って言わなきゃだめだ!

 ポエミーにぼかして会話を終わらせるのは美しいけどあんまりよくないぞ!

わかってるのか、俺よ!

頭を良くするための小説の読み方

学習 小説 アイディア

頭のいい人は小説を読まない。

仕事ができる人は小説にうつつを抜かしたりなんかしない。

そんなイメージは漠然と、ありますね。ネットなんかで話題になる「あたまがよくなる本」はたいてい哲学書、学術書、ビジネス自己啓発…そこに小説が入る余地がないように感じます。小説を読むにしても、古今の名著やトクベツな書に限られる。

そんなイメージが私の脳を支配してしまい、

娯楽小説など読んでいる暇はない…己の真の能力に目覚めたいなら今すぐに○○を…!

なんていう風に思ってしまうものです。それは私だけではないでしょう。実際には、読む人は読むし読まない人は読まないというだけなんですが。そして、「娯楽小説が何より好きな自分はかくのごとく能力を開花させられないのだ…無念…残念…!」と悲劇に酔いながら娯楽に耽溺する「私」を正当化するわけです。

しかしこれはあまりにもよくない。

かといって小説は面白いし大好きだし、離れがたい。

じゃあどうしよう。

要するに、小説を読みながら頭が良くなる/仕事ができるようになる方法があればいいわけです。

 

ここでは、「頭のいい人/仕事のできる人」を、「シミュレーションに長けた人」とします。頭のよさや仕事の能力には様々な尺度がありますが、シミュレーションがしっかりできる人は間違いなく「できる人」の十分条件を満たしているはずですから。

逆に、「できない人」を考えるとわかりやすいかもしれませんね。本番になって「あぁ、あれ持ってくればよかった…」「あれ調べてくればよかった…」と、要するに準備不足に陥りがちな人、チャンスをつかみ損ねる人、スマートに事を運べない人、です。まさに私。

しかし、そんな私も、この方法で本を読むことによって、かなり改善されてきました。おまけに日常の観察力、記憶力が上がり…と、なかなか喜ばしい成果がありました。

 

さて、その方法は、「文章を読んで、その場面を想像すること」です。

あたりまえじゃねーか!

という声がありそうですが、大丈夫です。この想像はあなたの想像の上を行く想像方法です。たぶん。

まず、普段本を読んでいて、どういう想像をしているでしょう?

例えば、「二人は幸せなキスをした」という文章を読んだとして、何を想像していますか?キスをする二人の男女を想像できた人は素晴らしいです。たいていの場合は、「幸せなキスをするというぼんやりしたイメージ」しか想像していません。人によっては、活字を想像して終わりという場合さえあり得ます。これは普段文章を読み慣れている人に多いのですが、想像やイメージよりも活字のほうが迷いなく状況を把握できるので、頭の中でそのまま文字を想像して終わらせるわけです。これは優れた手法ですが、慣れてしまえば流れ作業になるので、あまり脳のパワーを消費しません。30kgダンベルでガッチガチに鍛えたハイパワーなボディを擁しながら普段はせいぜい5kgの重さのものをもって生活してるようなものです。楽ですが、それだけです。

想像力はシミュレーション能力に直結します。そして想像力は観察力とも密接にかかわっています。

さぁ、先入観と慣れを捨てて、改めて「二人は幸せなキスをした」という文章、いや、場面に向き合いましょう。一度この画面から目をそらし、本気で二人のキスを想像するのです。容赦なく、徹底的に。

二人は男女なのか?どういう服装をしている?髪型は?色は?場所は?どちらが背が高い?手はどの位置にある?キスはどちらからした?ソフトキス?ディープキス?どちらがどれだけ首をかしげている?鼻と鼻の位置関係は?目は?

可能な限り詳細に想像するわけです。想像の中で二人から視線を外し、また二人に戻しても、そこで二人は同じようにキスをしていますか?ぼんやりとしたイメージになってはいませんか?明確に、正確に、自信をもって二人の姿を描写できていますか?

これは相当きついです。人によっては、この時点で目の周りから後頭部にかけてジーンとしびれてきているはずです。知能テストに全力で取り組んだ時のような刺激が脳に与えられているわけです。

さて、想像はここに終わりません。

次は二人のうち、どちらかの中に入っていきましょう。中に入り、感覚を共有するわけです。

まずは指先に集中し、相手の背中に手をまわします。えろいですね。でも大丈夫。幸せなキスなのですから。えろくはありません。人間の手というのは、神に与えられた超高性能センサーです。人間の手は、触れた瞬間に対象の温度、密度、重さ、材質、滑らかさ、大きさを把握することができます。熟練の職人さんと全く同じ機能があなたの手にも備わっているのですから。

触ってみましたか?実際に手をわきわきさせても良いです。むしろしましょう。怪しいですか?大丈夫ですよ。きっと。

せっかくの幸せなキスなのですから、おっかなびっくり触れるのではなく、愛しい相手の肌を感じましょう。どうせ想像なんですから、服は脱いでもらいましょう。他人の肌というのは、なかなか触れる機会がない物体の一つです。これまでの人生経験を余すところなくフル回転させ、肌の感触を想像してください。

骨の位置は?皮下脂肪はどのくらい?筋肉はついている?内臓を感じる?体温は?吹き出物はある?湿っている?乾いている?触った瞬間の反応は?手の位置を変えるとどうなる?

そろそろ問題に気が付き始めているはずです。

そう、「そんなに細かく意識して触ったことがなかった」という情報不足です。キスの相手が筋肉ほとばしるマッチョガイであったとしたら、なかなか感触を想像するのは難しい。手近なマッチョに頼んで筋肉の感触を確かめさせてもらう必要があるかもしれません。また、二人の服装を想像するとき、服飾に対しての理解の浅さを痛感するかもしれません。

こういう経験をしていくと、普段の観察力がめきめきと上がっていくわけです。日々、マッチョ…マッチョはいないのか…と目を光らせて生活することになり、ついにマッチョを見つけたとき、マッチョの生態を余すところなく記憶することになるでしょう。自ら求めた知識は、必ず自分の血肉になるのです。

空間記憶は観察力と不可分ですからね。

ジョジョ4部に登場する岸部露伴先生の「味も見ておこう」というのは圧倒的に正しいのです。いやさすがに本当に食べるまではいかずとも、「食べたらどうなのか」という探求心は想像力を高める最高のエッセンスでしょう。

さて、再び二人のところに戻ります。相変わらずキスをしていますね。さっき想像したのと同じ二人ですか?大丈夫ですか?すでに相当なパワーを消費しているでしょうが、もう少しです。大丈夫ですね?大丈夫ですよね。

次は嗅覚です。今までと比べるととても易しいですね。キスする相手の匂いを想像するだけですから。

しかし、やはりここも容赦なく想像していきます。

人間は生物ですから、いい匂いばかりではありません。「幸せなキス」というイメージに引かれて、自分に都合のいい匂いを想像してしまってはいませんか。ふわっとしたいい感じのニオイ…などという想像は明日にしましょう。今は、今この時ばかりは、キスをしている相手の生身の肉体と対峙すべき時です。

幸せなキスをしている二人は、その前まで何をしていましたか?風呂上がりでいきなり幸せなキスに至るという場面は少ないでしょう。二人はそれまでに何らかの行動をしていて、その行動の結果、幸せなキスをする運びとなったわけですね。つまり、シャンプーやリンスの匂い以外の香りもあるはずです。要するに汗の匂いです。だんだんと危険な領域に入ってきました。まだ大丈夫です。

汗の匂いは個人差があります。他人の汗のにおいをどのくらい想像できますか?クサい?いやいや、今は幸せなキスをしているのです。「客観的に言えばそりゃクサいけど、愛する人なんだから全く気にならない」という境地で向き合うのです。二人がそれまで怪物とバトルをしていたのなら、汗の匂いがしないなんてことはあり得ないですね。

汗だけではありません。残念ながら、口臭すらも徹底的に想像していきます。相当にハードになってきましたが、きっちりと口臭予防をしていただいているという想像でも全く問題はないです。では、どういう口臭予防をやっているんでしょう?そこまで掘り下げていきましょう。口臭に気を遣いすぎて逆にミントの匂いがきつい、とか、こいつキスする気満々だったんじゃねーのか疑惑という場合もありますね。しかしあくまで幸せなキスですから、相手の落ち度は幸せのパワーで中和していきましょう。想像後の私たちの心身の健康のために。

そして次は音、味…と想像のハンマーをふるっていくわけですが、さすがに全部書いていくと大変な長さになってしまいますね。

もちろん、何でもかんでもここまで想像しなきゃいけないというわけではないです。小説の文章一つひとつに対してこれをやっていくと、1冊読むのに半年かかりかねません。それはそれで素晴らしい読書体験だとは思いますが、苦痛が勝るはずです。小説の中の印象的なシーンから始めていくといいですね。

想像をするとき、カメラは固定ではありません。360度、あらゆる角度から想像していきます。想像の二人の向こう側に回ってみて、矛盾なく成立するか試してみましょう。

それと、まずこれは最初のうちは全然できません。想像を固定化させるのは想像以上のパワーが必要です。そもそも、昨日の夕食が何だったかすらあやしい我々には、それだけハードルが高いのです。ですから、いきなり完璧を目指すのでなく、たまにトライしてみる、くらいの気持ちでいたほうがいいですね。

前述のように、この想像をやると、まず自分の知識不足を痛感します。そして、自分がどれほど「なんとなくのイメージ」に助けられてきたのか、あるいは誤魔化されてきたのかを知ることになります。この衝撃的な気付きは、普段どのくらいの知識を見落としてきたのかのバロメータともなります。そこに気づいたあなたは、世界の見え方が変わるかもしれません。

私はこれを続けたおかげで、人の顔を見るのが苦にならなくなりました。以前は人の顔を見るのが恥ずかしいやら辛いやらで難しかったのですが、「この人のような人物を再現するためには今ここではっきりと見ておかねば…」と、恥とか言ってる場合じゃねえという危機感を持てるようになりましたから。

お気に入りの場面を深く味わうためにも、空間記憶力を拡充するためにも、シミュレーション力を上げるためにも、岸部露伴の境地に入門するためにも、この想像、試してみてはいかがでしょうか。

 

千利休の役割と朝鮮出兵 それと、秀吉が好きになってきたこと

歴史 日本史 ひらめき シナジー 哀しみ 寂寥感

千利休とは何者で、何をして、なぜ処刑され、なぜそのあと秀吉が「暴走」したのか。

千利休といえば安土桃山時代を語るに絶対に外せない人物だ。というかそもそも「桃山」である伏見城のしつらえは利休好みに作られたので、彼こそが桃山文化とも言える。

しかし、千利休という人は何なのかはとてもわかりにくい。茶道の祖ということも、秀吉のアドバイザーということも、豪商であることも知られているが、いまいちそれら要素が有機的に繋がらないという人は多いんじゃないだろうか。

そんな千利休という人物について、個人的に腑に落ちる流れが見えたので、書いておこうと思う。もちろんこれは俺の推測であるので、確かな証拠があるわけではないのだが。

 

戦国時代後期に必要とされたもの

戦国時代の最終盤、信長が倒れ、秀吉がその後をまとめた時期に最も必要とされたのは、「戦国時代の後に必要となる統治のシステム」だ。これは日本の戦国時代に限らず、中国の春秋戦国時代項羽と劉邦の戦い、三国時代フランス革命後のナポレオンの台頭にも同じことが言えるけど、群雄割拠が収まるときは次なる統治のシステムが作り上げられる。あるいは逆に、そのようなシステムを備えた国が強国となっていくということでもあるだろう。

日本の戦国時代では、信長がそれを大いにやっていた。なので、秀吉は統治システムの多くを信長から流用しているはずだ。そうでなければ治まらない。

そして、日本の武家社会の統治システムの最大の問題は、「敵がいなくなったら武士はやることがない」ということだ。この欠陥が露呈したのが元寇だ。元の襲来を追い払った=功績を上げたのに、褒美(土地)がもらえない。防衛戦ゆえ、新たに土地を獲得できたわけではないので、褒美は出せない。武士の不満は高まり、結果的に鎌倉幕府が倒れる遠因になった。

続く室町幕府もこの問題を解決できていない。というか、室町時代で「よく統治されていた」のは三代足利義満の時代くらいなもので、後はひたすら混迷のるつぼだ。最終的に応仁の乱という形になって、室町幕府は破綻する。というか、室町幕府は内乱、反乱を平定することでその権力を維持してきたように見える。かろうじてコントロールされた戦国時代のようなものだ。反乱に勝てなくなったら、それが統治システムの終焉だ。

つまり、武家社会の「統治のシステム」のノウハウ蓄積が、ほぼ無い。鎌倉幕府崩壊から建武の新政の失敗、室町幕府のコントロール不足を経て応仁の乱から100年以上。ようやく「統治」が見えてきたというのが戦国時代後期。

これは半端でなく重要な時代だ。

隣の中国を見ても、安定した統治システムが作られるまで数百年はザラにかかる。あちらは三国時代〜隋、唐まで300年かかっている。日本もおよそ300年。ヨーロッパも、ローマ帝国が分裂してから神聖ローマ帝国ができるまで300年くらいかかっている(神聖ローマ帝国の是非はともかくとして)。おそらく、統治システムの刷新にはそれだけ時間と失敗をかける必要があるのだろう。

 

秀吉が選択した統治システム

では、信長の時代を経て秀吉が「全国を治める統治システム」として採用したのは何だろう。

…多分これは俺ごときが手を出せる問題ではないのだが!

おそらく秀吉は、「戦がなくなった後の武士たちへの褒美システム」に、茶の湯を使おうとしたのではないか。信長の時代から徐々に「茶道具の価値」が重視され始め、最終的に「国(領土)<名茶器」ということにもなった。茶道具の方が国よりもよっぽどいい。戦争よりも茶の湯で大成したい。古今伝授を始め、文化的な素養こそが大名の格を決める重要な要素である。という革新的としか言いようがない価値転換が起きた。

この間まで戦に明け暮れていた荒武者たちが、侘び寂びあふれる庵の中で居住まいを正して茶を飲む。そしてそれが戦よりも上位の価値になっている。戦場では勇猛で鳴らした男、いや漢たちが、故事や料理を身につけんと各地の師に弟子入りしている。

これはすごい。

や、確かに平安時代では恋で政治をしていた(部分があった)わけだし、そういう素地はあったのかもしれないが、この価値転換の破壊力たるや!

信長も秀吉も極めて優れた統治者だ。間違いなく、茶の湯を統治に利用しただろう。あるいは、意図的に茶の湯を権威づけたろう。茶の湯は経済と密接なつながりがある。茶の湯を嚆矢として、領土から経済に報酬システムを転換していこうと考えたのではないか。

千利休は、統治のための権威として、秀吉に侍っていたのだろう。秀吉が積極的に茶の湯を広め、利休を信頼して権威付けをし(当然利休本人の能力あればこそ)、それを諸大名に見せつけることで統治のシステムを内外に示す。刀狩りで農民の反乱を封じ、大名の私闘を禁じて反乱の芽を潰し、茶の湯を使って武士の価値観を転換する。

そういうことだったのではないだろうか。

 

茶の湯システム崩壊と、朝鮮出兵

しかし、やはり茶の湯バブルも長くは持たない。

千利休は処罰され、茶の湯ブームは露と消えた。

時を同じくして、秀吉の「暴走」が始まる。朝鮮(明)への出兵だ。

…のだが、茶の湯が統治システムであったと仮定すると、この朝鮮出兵は割と普通の、まっとうな政策だと思えてくる。戦争がまっとうだ言いたいのでなく、そういう流れになるのは不可避だよな、とね。

つまり、茶の湯を使った褒美システムが破綻したので、旧来の領土獲得路線に戻さざるを得なくなった」のだろう。

秀吉の個人的な領土野心だとか、ボケてきたとか、家庭の問題で頭がおかしくなったとか、そういうことがメインではないような気がする。

千利休が処刑されたのは、おそらく利休と茶の湯の権威が秀吉のそれを脅かし始めたからだろう。統治のシステムとして使っていたはずの茶の湯が、秀吉の権力に迫り始めた。秀吉が権力の象徴として作り上げた黄金茶室を、利休という権威が否定したことはその好例だろうと思う。これは利休だからこうなったのでなく、利休以外でも必ずこうなる。だからこそ、秀吉は茶の湯システムそのものを諦めざるを得なくなった。

権威と価値を利用した統治に失敗した秀吉は、権力を維持する方法を新たに作らねばならない。

そして、最もわかりやすい価値、「土地」に立ち戻った。戻らざるを得なかった。

明を攻略し、その攻略の過程で得た地を褒美として、武家のシステムを延命させる。

華麗に価値転換を成し遂げた秀吉にとっては大きな大きな後退なのではなかったか。

そう考えると、今際の際に家康に涙ながらに「秀頼を頼む」と言い残したその涙の訳も、以下のの辞世の句も、より重たく感じられるのではないだろうか。

露と落ち 露と消えにしわが身かな 浪速のことも 夢のまた夢

その後、「武家の統治システム完全版」を成し遂げた家康の辞世は、こうである。

嬉しやと 再び醒めて一眠り 浮世の夢は 暁の空

夢を追い、夢に追いつけなかった秀吉と、「もっかい寝て夢の続き見るか!」と二度寝する家康。

道半ばで倒れた者と、それらの積み重ねの末に成し遂げた者の対比がされていると思うのは俺だけではないはずだ。

 

何か、秀吉がとても好きになってきたぞ!

「同居人の大事なものを捨てる人」の気持ち

ひらめき アイディア 健康 感想 哀しみ

電車の模型、収集品、思い出の品などなど、こういった大事なものを同居人に買って捨てられてしまった、という話はどこかで見聞きしたことがあろうと思う。おそらく最も有名なのは、「鉄道模型を捨ててから、夫の様子がおかしい」かな。旦那さんの大事にしていた鉄道模型を奥さんがすべて処分したら、旦那さんの魂が抜けたようになって自分の持ち物を次々に処分し始め、ついには私服も処分し、消耗品以外は絶対に買わなくなってしまった、という非常に胸が痛い話だ。

俺もおおよそみんなと同じく「なんてことをするんだ、理解できない。なぜ話しあおうとしなかったのか」と思っていた。というかコレは本当に酷い話だし、大切なものを失った旦那さんの虚脱感はよく理解できる。や、理解はすべくもないが、その辛さが想像以上のものだろうという予想はつく。

しかし先日、捨てる側の気持ち、思考の動きがわかった。と思う。仕事中に閃いたことなんだけど、おそらくこれが捨てる側の論理なんだろうなということを理解できたので、書いて見ようと思う。実際に捨てるかどうかは全くの別問題として、気持ちは理解できる人は多いのではないかなと思う。

 

気づいたきっかけ

うちの会社の倉庫には、販売済みではあるが買主がまだ引き取りに来ていない、預かり荷物が結構ある。…結構あるというか、相当ある。倉庫全体の15%くらいを預かり荷物が占めている。取りに来たり発送したりと出て行くことはあるんだが、そのたびにまた預かり荷物が増えていき、結局比率はあまり変わっていない。倉庫の15%というのはかなりの規模だ。会社の倉庫はそれほど大きくないので、倉庫整理や出荷をする際、在庫が少ないほうが当然簡単に出せる。15%空けば在庫出荷にかかる時間は半減するほどだ。しかも、俺が入社してから一度も動いた形跡がないものまである。この預かり荷物を見て、「これがなけりゃ、仕事はもっとスムーズに行くんだけどなぁ」と思ったのがきっかけだ。こういう経験をした人は、男女関係なく多いんじゃなかろうか。

何故捨てるのか

では、「これさえなけりゃ、上手く行くのになぁ」という気持ちが直接関係しているのかというと、そうではない。流石にそれだけが理由ではないだろう。誰だって「他人の物を勝手に捨てるのは良くないこと」と知っているはずだ。それがわからないほどに破綻している人はそうそういない。よな?そこは信じておきたいところだが!「勝手に捨てるのは良くない」という共通のモラルを破綻させる、何か特別なひと押しがあるはず。おそらくそれは、「その品物をさほど大切にしているように見えない」ということだと思う。俺の会社の倉庫を例にすると

  • 預かりが発生した直後の気持ち:「そちらも倉庫事情が厳しいでしょうから、こちらでしばらく預かれます。大丈夫ですよ」
  • 預かり発生後しばらくして:「そろそろ引き取ってくれないかなぁ。でもあまり言うのもあれだし。まぁいいかな、もうしばらくは」
  • かなり時間が経ってから:「いい加減持って行け。保管料取るぞコノヤロウ。確かに預かるとは言ったがそれにしても限度があるだろう」
  • 年単位で時間が経って:「これ、もう相手忘れてるんじゃないのか。これだけ長く置いとくってことは、もういらないんじゃないのか?」

こういう気持ちの変化が起こるのだと思う。俺はそうなったしな!流石に商品だから捨てたりがさつに扱ったりはしないが。会社の場合、自分の一存で「先方に連絡して引き取ってもらいましょう」と判断できない場合がある。社長と懇意にしてる人の荷物とかな…!で、そういうもののバアは、ひたすらにストレスが溜まっていってしまう。おそらくこれが、「ある日突然勝手に処分する」人の思考過程なんだろうと思う。「勝手に捨てられた」系の話を見ると共通してることがある。「その物品は、頻繁に使わない(観賞用含む)もの」ということだ。電車の模型にしても、フィギュアのコレクションにしても、基本的に、それを扱っている姿を見られていないものが多いのではないか。例えば、本を沢山買う人がいるとする。毎日すごい量の本を読んでいる。しかし、それでも買う量が読む量に追いついてなくて、大量の積読が発生している。また、新刊を読むのに忙しくて、一度読んだ本は本棚にしまったまま二度と取り出していない。…ように見える。この人の同居人は、増え続ける本を長年見つめ続けてるというストレスの果てに、「この人、一度読んだ本は全然見返さない。大切にしているとは思えないし、今後も読み返さないだろう。ならいっそ捨てちゃおう。どうせあの人はこれを大事にしていないんだろうから」という考えに取り憑かれ、実行に移してしまうのではないだろうか。男性にとっては「一度しか(あるいは一度も)着ていない女性の服」だとわかりやすくなるだろうか。大量に服を持っている女性に対しての気持ち。「そんなに服を持ってどうするんだろう」「一度も着ていない服は処分しちゃえばいいのに」「そうすれば場所が空いて部屋も綺麗になるし、新しい服も買えるだろうに」という思考は、納得は出来ないかもしれないが少なくとも理解はできるはずだ。

解決方法としては

会話に尽きる。ものすっごい普通の結論だけど。まぁ、みんなわかりきってることだよな…!でも、「これがどれだけ大事か話しあう」ことよりも、それを実際に大事にしているところを見せたり、どういう風に鑑賞するものなのか話したりと、実際のアクションを交えながら話し合うことが大切かなと思う。実際に使っている所を見せることは、相手に「あぁ、本当に大切にしているんだな」と思ってもらうためにも必要な歩み寄りのプロセスであるはずだ。