脳の中のマリー

アントワネット的なことを脳の中で

ノールビンドニング - ワークショップで北村系子先生に教わったこと -

札幌の円山にあるpresseさんで行われた、ノールビンドニングのワークショップに参加してきた。

こちらの本「はじめてのノールビンドニング 縫うように編む、北欧伝統の手仕事」の著者の一人の北村系子先生がいらっしゃるということで、独学で変なクセをつけちゃう前にと勇気をもって参加。多分男性は自分一人だろうし、こういうワークショップに参加するのは初めてだしで大変に緊張したけれど。

結果として、参加してとても良かった。

3時間余りのワークショップでとてもたくさんのことを教えてもらったんだけど(途中で出していただいたお菓子も美味しかった)、その中でいくつかの重要かつ本には載っていないことを、実際に参加するのがベストだと思うけど、少し書きだしてみようと思う。

…俺というフィルターがかかっているので、そこは注意してほしいのだが!

 

神経質になりすぎない

最初に教えてもらったのがこれ。あまり神経質にならずに、大雑把に、適当に!なぜならあとからリカバリーはきくし、多少縫い目編み目が崩れても、段を重ねて行くと目立たなくなる。失敗したからってほどいてやり直す必要はないから、どんどん縫っていこう。ということ。

これは俺自身の感想にとっても近くて、最初はメタメタだったけど、段を重ねると確かに改善されている。

 この時、「俺が上達したからだな…!」とか思ってたけど、ノールビンドニングは段を重ねると結構、うまくいくものみたい。縫い目がクタクタでも、二段目を縫う時に引っ張られて整然となるからだとか。この辺、ユーザーフレンドリーな編み物(縫物?)なのかもしれない。

それに、このノールビンドニングは北欧のヴァイキングたちが古来やっていた手仕事。あのヴァイキングの男たちが、「失敗したから最初からやりなおそ…」とかなるか?否!という(これは俺の感想!)。ノールビンドニングは、「ヴァイキングの男基準」で考えると、だいぶ肩の力が抜けると思う。針?穴が開いた木切れでいいだろ!糸?ちぎればいいだろ!失敗した?次で取り返せばいいだろ!みたいな。熱い感じの。北欧でメタルが熱いのと無関係ではなさそうな感覚で。森メタル的な。 コルピクラーニ

ギリギリまで編む

「あ、もう少しで糸が無くなるな、継ぎ足さないとな」

と思ったときに継ぎ足す…のはまだ早い。もう本当にギリギリまで、もうループが作れないよ!というところまで頑張ってから、継ぎ足す。むしろ針から糸を外して先に針だけ通してから、糸を再び通して針を抜く。そのくらいギリギリまで縫うのが良いとのこと。むしろ糸を継ぎ足さないというなまけもの方式でも成り立つのがノールビンドニングということらしい(ヴァイキング的!)。

実際、先生のスマホケースは糸を継ぎ足さずに縫われたものだったんだけど、仕上がりはとても綺麗だった。もっとよく見ておけばよかった。そして写真も撮っておけばよかった。

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こんな感じで先に針を入れてから、糸を通して針を引き抜く。そのあとに糸を継ぎ足す。

ノールビンドニングはカギ編みなどと違って、糸がしっかりと結ばれるので、糸がほつれても問題ない。そのあたり、ヴァイキングのかなり現実的な面が反映されていると感じる。リカバリーが効いて、失敗しても取り戻しが効いて、ある程度適当でも成り立つ。かつ、実用的。素晴らしいと思うんだ。

糸を継ぎ足すときは火が出るくらいに

糸の継ぎ足し方は本の56ページにさらっと「毛糸の繊維が絡み合うように手のひらをこすり合わせてつなぐ」と書いてあるんだけど、このときは、まさに火が出るくらいまで熱くこすり合わせる、とのこと。

火が出るくらいに。

なんとなーくコシュコシュやる…のは手ぬるい!文字通り!

火を起こすヴァイキングの男たちのごとき勢いでやる。のだろう。ちょっと勇壮なイメージが先行しすぎな感はあるけど。

この時に、糸を水でぬらすよりは手のひらを水に濡らしたほうが良いとのこと。また、北欧の方は水っていうか唾でやるらしい。そのほうがしっかりつながるんだとか。アミラーゼ的な何かが作用するのかもしれない。個人的な使用なら、唾使っても全然OKだよね。や、ま、その辺は人によるだろうけれど。そもそもヴァイキングは水を用意するとかそんなガーリィなことはしなかったような気もしてくるしな!

編み図?

気にするな!

以上!

…というのはさすがに言いすぎだけど、編み図に囚われすぎないほうがいいみたい。そもそもノールビンドニングは、作る人の親指の大きさによって全然サイズが変わってくるし、編み図を作るには不向きだとか。だから編み図は参考程度にして、あくまでも自分の作りたいものの実際の大きさを見て、測って、巻き付けてみながら縫っていくのが正解で、そんなにシステマチックに考えなくても良いそう。

第一、あのヴァイキングの男たちが編み図なんて(省略

増し目、減らし目をどう使えばどういう形になるのかを自分で体得しちゃえば、あとは作りたいものに合わせて工夫しながら縫っていく、というのがノールビンドニング、なのかな。

仕上がりを確かめながら編む

これはさっきのと同様に。

例えばミトンなら、実際に自分の手にはめてみながら縫っていく。

ついつい長々と縫い続けちゃって、想定よりも大きくなりすぎちゃったってことがないように、適宜大きさを合わせて縫っていくのがいいみたい。今回のワークショップではミテーヌの作り方を学んだんだけど、親指を入れるところを長く作りすぎると不格好になる、ということで。

縫い続けたい欲望を抑え、こまめにサイズを確認しながらやるといい。

適当に

今回のワークショップのキーワード。

適当に!

「ええと、本当に適当にでいいんですか…?」と思っちゃうけど、本当に、適当でOK。「テキトー」に迫るくらいの意味合いで適当に。あんまり「適切」に寄らないほうがいいような気もする。テキトーと適切の間。テキトー寄り。

個人的に、適当ぶりには大変な自身があるのでまさにこのノールビンドニングは自分に合っているな、と感じた。何せ、「編み物をやってみよう」と思い立ったのが9/8で、ノールビンドニングの本の発売日だったからね!木の針を作れることといい、確かな相性の良さを感じる。

形は後で整えられる

増し目減らし目を駆使して形を整えるのはもちろん、グイグイと引っ張ったり伸ばしたりして形を整えることもできる。

だから、「ここで失敗したらもうだめじゃないか」とか考えないで、失敗してもあとからリカバリーできるって考えながら適当にやっていくのがいいのだとか。それに、最終兵器たるフェルティングが存在するので、「こまけぇこたぁいいんだよ!」くらいの精神で続けて行くのがよさそう。

フェルティングでだいたい解決!

神経質にならずに適当に縫って形をあらかた整えたら、あとはフェルティング!

とりあえずフェルティング。

いいからフェルティングだ!

…正直なところ、自分はまだフェルティングというものをやったことがないのでどういう風になるのかはわからないんだけど、なにか困ったことがあっても最後にフェルティングというデウスエクスマキナが控えているから心配は無用らしい。

勇気が出てくるな!

本では88ページにフェルティングについてかかれている。

縮みすぎるのを防止するためには、フェルティング中にも実際にはめてみるなどサイズを確かめながらやるといいとのこと。

すべては、「自分で具合を見ながら適当に」やるのがポイントみたい。

そういうことで

今回のワークショップ。

一言で言うなら、「大変な勇気をいただいた」に尽きるだろうか。

「これでいいのか…?」

「これは間違っているのでは…?」

「俺にもできるのか…?」

「こんなんじゃ綺麗にしあがらない…」

いや、大丈夫!何とかなる!それでいんだよ!という勇気をいただいた気がする。

第一、あのヴァイキングの男(省略

ちょっと勇壮な男イメージがつきすぎるのもどうかと思うけれど、そうさせてしまったなら申し訳ないけれども!

何にせよ、海のように広い心の余裕をもって、楽しみながら縫っていくのがノールビンドニングなのではないかと思う。

俺自身、まさかこれほどまでハマるとは思っていなかった。これはとても楽しい。男であろうと、不器用であろうと、うまくできなかろうと、「それはそれで全然いいよ」というものだろうから。

 

ノールビンドニング - 毛糸ちぎり機の悲劇と、簡単に毛糸をつなぐ方法 -

全く新しいことを始めようと、ノールビンドニングを始めてから約15時間。

「とりあえず20時間」まであと5時間だけど、この段階ですでに結構身についている感はあると思う。ポットカバーもまもなく完成するし。縫い目はまだまだ安定しないけど、私的な使用に留める分には問題ない質だと…信じておきたい。

ノールビンドニングを楽しく続けていけているんだけど、一つ問題がある。

ノールビンドニングの特性上仕方ないことなんだけど…。

「頻繁に毛糸をつながなくてはいけない」んだよね。

カギ針や棒針編みの場合は、毛糸球まるまる一個使いきるまで毛糸をつながなくてもいいんだけど、ノールビンドニングは毛糸を2mとか3mで切って縫っていくものなので、下手をすれば10分に一回、20分に一回くらい、毛糸をつなぐ必要が出てくる。

ノールビンドニングの基本は「縫う」こと。毛糸をつなぐ時に結び目を作っちゃうとスムーズに縫えなくなるので、結び目を作らずに毛糸をつなぐ必要がある。だから毛糸を切らずに、己のパワーによって「ちぎって」、ほどいて、つなぐ、という工程が必要になるのだけど…。

ちぎるのが意外とつらい!

クラフトショップで「あ、この糸いいな、素敵だな」と思って毛糸玉を手に取ってみても…「これ、この毛糸を、俺はちぎれるのか…?」という問題が発生する!太い毛糸や、毛糸をいくつか束ねたものなど…色的にも触り心地的にも非常に素晴らしいのだが、パワー的な問題が持ちあがってくる。

…いけるのか…?

作品関係までの間、ちぎり続けることが、俺にできるのか…?

手元に太めの毛糸がある人はぜひ、ちぎってみてほしい。意外と辛いことが分かると思う。コットン系になるともはや歯が立たない。しかしそれでは、「ノールビンドニングでは太い毛糸は使えない」という結論になってしまう。

それはなんとかしなければならない。

俺はノールビンドニングが好きなんだ。

…それならば。

道具を作るしかないな!

 

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そういうわけで作ったのがこれ。

毛糸ちぎり機!

…クオリティが非常に低いのは許してほしい。

要するに洗濯ばさみの要領で、手元を握れば先端が開く構造。ハサミの逆。それで、先端に彫った溝に毛糸をきつく巻き付け、グリップを握り込めば、バツン!と、毛糸がちぎれるという寸法。いかに太い毛糸でも、地球をも動かせる(byノーベル)テコの原理の前には屈するはずだ。屈してもらわないと困る。

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特に設計図など描かず、「だいたいこんな感じだろう」と作り始める。いつものごとく。

ちなみに使っているのはナラの木。半端ではなく固いので、細くしても折れない。信頼できる男。

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最初の試作品はこんな感じ。可動範囲が広ければ、よりちぎりやすくなろう…と思ったんだけど、いかんせん複雑な形をしているので仕上げが大変だということに気づいて、ボツに。かっこわるいしな!

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そしてこちらの洗濯ばさみ型に。

なかなか洗練されてきたでしょ。

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そして冒頭の画像のようなものが完成し、こんな感じで先端がひらいて毛糸をちぎるという「毛糸ちぎり機」が完成した!

…が!

きつく巻き付けて、ちぎって、毛糸を外して…って手間考えたら…素直にちょっとした痛みに耐えてちぎった方がストレスないんじゃないかなって…思っちゃったんだよね…。妙にでかいし…。

作ってる時は「これで(俺の)世界は変わるはずだぜ…!」とか思ってワクワクしてたんだけど、こう…いざできてみると…あまり世界は変わってない!

でもまぁほら、コットンみたいなちぎりにくいものをちぎるには、これはいけるはず!今は使わずとも、そのうちきっと出番が来るから大丈夫だ!

そう、思っていたのもつかの間。

見つけてしまった。

やっぱり、当たり前だけど、「俺ごときの疑問は、すでに誰かが解決しているもの」なんだなって。オリジナリティなんて…そうそうないものだなぁって、思うよな。

先人がすでに、「辛い思いをせずに糸をつなぐ方法」を見つけていたな!


BASICS: The Russian Join | Bella Coco

これよ!

見た目に美しく、しっかり引っ張ってもびくともせず、ハサミを使って切ってもいい!

ていうか多分、俺が知らなかっただけで、普通に編み物やってる人は知ってたんだと思うけど!

毛糸ちぎり機は…!

必要なかった…!

俺は、無駄に生みだしてしまったというのか…?

すまない…!

何か、罪悪感が!

でも、さっきの動画のつなぎ方だとどうしても意図が太くなってしまうので、純粋に仕上がりの美しさを求めるのなら、撚ってつないだほうがいいのかな?

と、一抹の希望を胸に抱きつつ。

しばらくは…出番はなさそうだ。

すまない…!毛糸ちぎり機…!

ノールビンドニング - 12時間目と、DIY雑感 -

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 ノールビンドニングは続いている。とても楽しい。

9月22日19時現在でおよそ12時間、練習していることになる。おそらく連休で「とりあえずの20時間」は過ぎると思う。それほどにハマっている。また、学習のほうも(多分)良い調子で進んでいて、上の写真のようにポットカバー制作を狙えるくらいにはなった。具体的には、どう編めばカーブが作れるのか、立体的な形が作れるのかという理屈が馴染んできた段階だろうか。まだまだ多くの技術が待ち受けているけれど、とにもかくにも「自分の思い描くものを形として表現できる」という最初の、そして大きな、一歩は踏みだせている。

DIY、クラフト系の趣味の最大の障壁はこの「自分が実際に何か創れるようになるまでのハードルが高い」ことだと思う。

この趣味をするにはまずあの練習を、その道具を、このマインドを…とやっているうちに情熱が失われていく。情熱はすなわち学習効率ともいえると思う。

もちろん基礎や基本、作例をまねることはとっても大事だけど、どこかでレゴや粘土のように、自由に形を作る段階を早いうちに経ておくと情熱は長続きするんじゃないかと思う。

実際自分も、テキストにあった「ハートのモチーフを作ってみよう」で、こう、かなり、挫折しかけた。そもそも、ハートに情熱を向けられなかったからね!いや、ハートは情熱だが!ハートはあるが!なんというのか、こう…目的のミスマッチがあったのではないかと思う!ノールビンドニングは楽しい。上達は楽しい。しかし、上達したとして、俺は…これを作ることに情熱を見出せるのか!?という問いが自分の中に生まれてしまい…。

なので、まずは自分の作りたいものを雑ながら作ってみようと。

何も強制されることはないはずだしね。作りたいものは自分で決める。そこで失敗なり課題を見出してこそ、謙虚に学ぶこともできるはず。

そんな気持ちで縫っている。

幸い(?)、ニンテンドースイッチのジョイコンがイカによる度重なる酷使で反応悪くなっていることもあるしな!

俺は縫うぜ。

相変わらず縫い目は安定しないのだけれども。

しかし、DIYやクラフトの何が良いって、「必要ないものを自分で選べる」ことだと思うんだ。

 機能さえ満たせば、見た目はとりあえずおいておく。

 重いものは乗せられないけど、そこは自分で気を付けるから大丈夫。

 すっごい雑だけど、誰かに見せるものじゃないから、達成感を優先する。

商品なら許されなくとも、自分で使う限りにおいては捨てられるものもある。その選択権を自身に取り戻すことが、DIYクラフトの醍醐味ともいえるんじゃないかな。

なので今回は、とりあえず縫い目は犠牲にする!やっていくうちにいくらか改善もされよう!

うまいことを言う技術

ある意味で、現代は「うまいことを言う時代」なのかもしれない。

SNS、特にTwitterは「うまいこと」で溢れている。うまいことを言い続ける人が数十万フォロワーを手にし、うまいことまとめて出版したりもしている。

ネットの発達によって、誰もがうまいことを発信できるようになり、あるいは別に何ともない普通のこともうまいことやってうまいこと言った感を醸し出したりもする。

これは現代という時代を象徴する文化なのじゃないだろうか。

数百年後の人間たちに、「この時代の人間はくだらない話をお互い褒めあって喜んでたんだぜ」とか言われるかもしれない。「平安時代の貴族は何かにつけて和歌詠んでたんだって」と言われるように。

平安時代の貴族の和歌政治は揶揄されがちだけど、その根幹は「うまいことをとっさにいえる人の評価が高い」ということであって、これは現代も全く同じだ。

面接時にうまいことを言えた人が高収入の職に就けたり(もちろん、そのバックボーンが重要だけど)、とっさの一言がその人の評価をあげたり、うまいことを言う仕事が存在したり、うまいことを言えなかったばかりに結婚できなかったり。

面接、恋愛、プレゼン。平安貴族と同じく、「うまいこと言えるかどうか」が重要になっている。単にそのフォーマットが変わっただけで。

というかむしろ、平安貴族なら代筆を頼むとかできた分、現代の俺たちのほうが厳しいルールで戦っているといえる。平安最強のイケメン、在原業平なんかは、自分の屋敷で働いてる女性のために和歌を代筆してイケメンの上に理想の上司力まで発揮している。これはいけない。業平さまの魅力に酔いしれたい人にはマンガ「応天の門」をおすすめしたい。ナイスミドルとはどういうものかを全編にわたって教授してくれる。面白いよこれ。本当に。

話は少しずれたけど、つまるところ問題は、「どうやってうまいことを言うのか」だ。

そもそも、何が「うまいこと」なのだろう?どういうものが「気の利いた表現」なのだろうか?

その答えはたくさんあると思うけど、その中の一つに、「異なる着眼点で関連性を見つけ、予想外の表現をする」ことがあると思う。なおかつ、独りよがりにならず、相手にもわかる範囲にとどめて。

これがとっさにできる人は「頭がいい」「博識」「頭の回転が速い」と評されることが多いと思う。やりすぎると厭味ったらしくなってしまうのだが。

平安時代の和歌をよんでみるとろいろわかりやすい。

優れた和歌というのは、関連付けがとにかく上手い。「あ、ここをこう繋げるんだ」という驚きがある。もちろん、その時代にだけ通じる関連付けが多いので現代の俺たちにはあまり実感できないことも多いのだが、それでも大変な勉強になる。「こういう風にさらっと関連付けられる、関連先を見つけられる人が、優れた歌人だったんだな」とわかる。ダジャレかそうでないかを決めるのは、関連付けた先の意味と上手くシナジーしているかどうかだ。

古文といえば恐ろしく退屈な授業というイメージがあるけれど、和歌というのは要するに「当時最強のコミュ力を誇った強者たちの記録」として読むと、大いに学びがある。と思う。最高権力者に「ちょっと何かうまいこと言ってみてよ」と突然言われて、俺は、あなたは、何かできるだろうか?失敗すれば職を失う危険性がある。自分だけではない、一族にも影響が及ぶ。そんなプレッシャーの中、脳をフル回転させて、朗らかに「うまいこと」を言えるだろうか?

それが出来た猛者どもの記録が、まさしく百人一首であり、古今和歌集であったりするのだ。

…またも脱線気味だけれども!

古のコミュ力強者たちに学べるように、「うまいこと」というのは、関連付けをどれだけつなげられるかが大きい。語彙力はその結果としてついてくるものであって、どこかから拝借してくるものではない。誰かの話を引用するだけなのは「うまいこと」じゃない。「上手いこと引用する」のが「うまいこと」であって、単にくっつけるだけではオヤジギャグと同じになってしまう。

そういうわけで、関連付けはどうやって鍛えるのか。

これはもう、様々なものに興味を持ち、本を読み、でかけ、自分でやってみて…という極めて一般的な答えになってしまうのだが。

しかしそれら以前のものとして、おそらく一番大事なことは、常に別の角度からものを見ることだと思う。まぁこれも一般的な答えだけれど。

いろんな立場からものを見る訓練をしていけば、おのずと「予想外の表現」を引きだせるようになる。別に「うまいこと」だけじゃなくて、考え方やものの見方も変わるはず。

そこで、「別の角度からものを見るトレーニング」を紹介してみたい。

それは…Yahoo!知恵袋 だ!

……

本気だが!

まず、知の殿堂たる知恵袋にアクセスする。質問に答えるわけじゃないからログインしなくても大丈夫。そして、知恵袋で(残念ながら)そこら中にある「ものすごいバカな質問」を見る!

予想通りの、ものすごいバカな質問本文が出てくる。頭が痛い。しかしこれは鍛錬。己の常識を打ち破るための訓練なのだと言い聞かせて乗り切ろう。むしろここからが本番だ。

その、「ものすごいバカな質問」に対して、ぱっと思い浮かんだ返答があると思う。そして、多分似たようなことは回答欄にかかれていると思う。

では次に、その「みんなが思いつく反応」と異なる考え方、反応を自身の中で作り上げてみよう。単に周囲と違うことを言うのではなく。この背景になにがあるのか?このバカな質問に納得できるところは?立場を変えると大いに共感できるのではないか?

…などなど。

注意すべきは、「みんなの逆を言う」という天邪鬼になってしまわないこと。むやみに否定から入らないこと。

語彙力だとか読書だとかは、この訓練の後でも十分だという気はする。まずは自分のメガネの色を認識し、補色を使って色を相殺し、透明に近づけていかなくてはならない。

どれだけやっても、やはり自分のエゴは残るのだが。

しかしそれでも、少しずつでも、精神的イケメンの道は歩んでいきたい。果てしない道だけど。

学習曲線への挑戦 -ノールビンドニングを始める…ための準備をする-

「何かの技能を身に着けるには、10000時間の学習が必要である」

というまことしやかな説がある。10000時間。3~5年、がっつり取り組まねばなしえない数字だ。

しかし一方で「とりあえず1500時間」だとか「500時間だな」みたいな話もあって、目前の8~12時間にさえおののく俺たちには割と途方もない話になってしまっている。

果たしてどれが真実なのか。

そんな漠然としつつも初学者の心を折に来る説に一石を投じたのが、先にネットで話題になった、「とりあえず20時間やってみようぜ説」である。

元ネタはTEDのこちらのトーク


The first 20 hours -- how to learn anything | Josh Kaufman | TEDxCSU

(必要に応じて字幕を日本語表示にしてほしい)

このTEDを聞いて突如やる気になるのが俺という男。あるいは全国全世界にいる俺のような人々であるので、「とりあえず何か20時間やってみるか…?」と思い立ったというわけさ。

単純だが!

いいんだよ!

そこで、せっかく何かを新しく始めるのだから、自分が全くやったことのないもの。およそ俺というイメージがないもの。全くかけ離れたものをやってみようという気になった。…かつ、安価に始められるもの、な!

そこで白羽の矢が立ったのが「編み物」である。

実際2時間やってみて、細編みまでできるようにはなった。これはすごい。ちょうど1時間15分くらいのところでものすごいストレスがかかり、「これはもうだめだな、俺には向いてないぜ…」となったんだけど、「まぁとりあえず20時間だしな」と乗り切ることができた。

おそらく、この「とりあえず20時間法」は、この「俺には向いてないタイム」を乗り切るためでもあるのだろう。

脳は学習の際、知識のインプットと整理を同時にやっているわけでなく、インプットしたものを適切に配置するための時間が必要だ。なので、学習を進めて行けばそのうち俺の脳の中でカチッとすべてが合わさる瞬間があるものだ。スポーツにしても、勉強にしても、趣味にしても。20時間あるいは10000時間の中で、この経験を幾度もやって、脳はその真価を発揮し最強に近づいていくのだろう。

ま、ま、それはそれとして、編み物である。

とりあえずやってみるにはネットの初心者サイトさんは最適だけど、やはりガチでやるには本がいる。

そこで俺は書店、古書店amazonを順に覗いてみた。

そこで出会ったのが、「ノールビンドニング」である。


How to start Nalbinding

ナイスなマダムがやって見せてくれている通り、これは編み物と縫物の中間というか、「糸を縫って仕上げていく」もの。カギ編み、棒針編みが伝達される以前のスウェーデンヴァイキングたちが男のたしなみとしてやっていた勇壮な編み物である。

勇壮な北方の男…!

…これかっ!?

俺がやるべきは、これなのか…!?俺も…雪国の男として…!

しかもちょうど、9月8日に日本初の本格的なノールビンドニングの本が出版されている。

はじめてのノールビンドニング 縫うように編む、北欧伝統の手仕事

はじめてのノールビンドニング 縫うように編む、北欧伝統の手仕事

  • 作者: 北村系子,マツバラヒロコ
  • 出版社/メーカー: グラフィック社
  • 発売日: 2017/09/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
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 これは、何かしらの…おおいなる、こう、なんだ、アレが、サダメが、働いているというのか…!?

そういうわけで、俺の20時間は、編み物からノールビンドニングにスライドしたのである。編み物用の毛糸も使えるしね!

ちなみに、「ノールビンドニング」と本にも書いてあるけれど、英語の綴りだと「Nalbinding」が多いんだよね。スウェーデンの言葉で「NÅL」は「針」を意味して、それを「bind」結合するという説も見た。しかしそれが本当かはわからない。いずれにしても「Nalbinding」と「Nalbindning」で表記ゆれがあることは確からしい。

 

さて、やると決めたからには道具がいる。

ノールビンドニングには、木の針が必要だ。しかしあの形状の針はそうそう売っているものではない。なにせ専門書が今初めて日本で出版されたというような状況だから、手芸屋さんでも取り扱っているところは極めて少ないだろう。

…しかし俺は、樹木の男。

木で作れるものならば、俺は作れるのである。

不格好だったり、全く洗練されてなかったりするけれども…!

木工のいいところは、外見を気にしなければ機能はある程度満たすことができるということだと思う。強度が足りなければ太いのを使えばいい!技術が足りなければ力技という逃げ道が用意されている。それが木工である。

…何か怒られそうな気がするが。

や、もちろん細工ものは技術は絶対に必要だけどね!?

っていうか木工作家さんたちは圧倒的な技術を持っているので、俺のごとき男のタワゴトは真に受けないようにな!あくまでシロウトのDIYの範囲での話だからね!

 

…さて、そこで作り始める。

まずは材料。材料といえば俺は樹木の男。大体はそろっている。

今回はパワーとモダニズムを全面に推し出す感じで、黒い木を使おうと思う。

ソノケリンである。

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木材カットが恐ろしく雑なのは仕様だ!いいんだよ!削るんだから!な!

このソノケリンはローズウッドの一種。ローズウッドは切った時にいい香りがするので、「ローズ」と名付けられている。いわゆる香木だな。ソノケリンはその名の響きの通り、少しケミカルな香りがする。紫檀の代用としても使われる美しい木材だ。

ちなみにマメ科。バラ科ではない。…まぁ、この業界、名前の付け方がすごくふわっとしてるからな…!「サクラ材」なのに実際は「カバ」だったり。じゃあ本当の桜は?というと「本桜」と言われたり。本桜かと思ったらシウリサクラだったり。見分けは難しい。その場のノリで名前つけたりするしな…。

しかしまぁ、ソノケリンはソノケリン。インドネシアで育っている素晴らしい木材である。その名や付けられた属性に無関係に、美しくそこにある樹木であるに間違いない。外材、国産材にブランドの差異はないぜ。

その美しいソノケリンを、男の武器、ディスクグラインダーで削り取っていく…!

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美しいものを強引に削っていく快楽…はおいといて、ゆっくり慎重に削っていくと、こうなる。怪我には注意。

ソノケリンの良い香りが当たりに充満する。木くずはめっちゃ黒い。これでこそだぜ。

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大方の形をとったら、あとはサンドペーパーでひたすら微細な形を整えていく。木工細工の一番楽しい時間だと俺は思う。大変だけども。グラインダーでラクをすると、上の写真のように線状の傷ができるので、まずはこの傷を全部綺麗にすることを考えて削っていく。120番くらいかな。ザクザクやる。で、そのあとは320、600、800までかけて、

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こうなる!…穴の位置とか、穴周りとかすっごい雑だけど。

ソノケリンは相当ハードな木なので、厚さ2mmとかでもたわむことはない。圧倒的なパワーをかければそりゃ多少はしなるけれど、少々のことではビクともしないぜ。折れる気配は一切なし!

適度な重さと固さは俺に集中力を与えてくれる。ソノケリンを選んでよかった。

常に触っていたい感触が魅力だね。

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そして、こちらが完成品。荏胡麻油で表面を塗っただけ。オリーブオイルでも可。でもオリーブオイルは1日置かないと油っぽいので、乾燥の早い荏胡麻油に。

木工の表面処理に迷ったらとりあえずオリーブオイルでいいと思う(水に触れないなら)。オリーブオイル万能だし。マスターモコミチもそう言っている。

 

…と、いうところで、俺の20時間の挑戦が幕を開けたのだけれども…!まだ本は届かないから、しばらくは動画を見て練習だな!

もちろん、20時間を完遂できないという可能性も秘めつつも。

 

この木工の気軽さ、楽しさ、完成の喜びが、編み物やノールビンドニングにも訪れることを期待して。

「なぜ人を殺してはいけないか?」を、人類社会のジェネシックコードを用いて説明してみる

しばしば話題に挙がるこの問い。

時には酒の席で、時にはSNSで、掲示板で、それぞれの思うところの意見が飛び交う。

この問いを通じて、互いのうちの価値観がおぼろげに見えてきたり、あるいはあえて極論を投げ込んでその場を活性化させたりもする。何にしても、こういう話は楽しいものだ。喧嘩になるのは良くないが。

おそらく日本人なら、この問いに対する一般的な答えの内の一つに、

「自分がされたら嫌なことは、他人にやっちゃダメ」というのがあると思う。それが正しいかどうかは各人の思いがあるとしても、一般的であることはたぶん間違いない。

で、この考え方を一般的にしたのは、他ならぬあの古の賢者、身長190cmの巨漢、無職と勘違いされがちの男(だいたい晏子のせい)。孔子である。

「先生、それで結局のところ、一生をかけて追求すべき道徳とは一言で言えばどういう物なんです」 

「そうだなぁ、まぁつまるところ、他人がいやがる事はやっちゃいけないってことだろうな」

これが故事成語「己の欲せざるところは人に施すことなかれ」で、孔丘先生が何となく言ったこの言葉が、アジア圏の「一般的」な道徳となったのだからこの人は凄い。

で、この価値観に対する反論「自分が殺されても良いと思ってる奴には無意味なんじゃないか」も、頷けるところがある。というのも、孔子はあくまでも「生涯を通じて己を律したいと思っている人」に対してこのコメントをしたわけで、これに対して「この場合はどうなんだ、あれはどうなんだ」と一般化して話をするようなものではなかったりする。なんせこの質問をした子貢という人は魯の国と斉の国の宰相を歴任した人で、ぶっちゃけ孔子よりも遙かに知名度が高かった。この子貢があちこちで「先生に比べれば私など木っ端ですよ」的な事を言っていたので、孔子の名が世に広まったとすら言われる。そういうレベルの人に対しての道徳指針なので、「一般的」ではあるけれども全てに適用できるものではないだろう。

 それでは、何をもって「殺人はいけない」とするか。

神様やおてんとさまや呪いを持ち出して説明すべきだろうか?

 いや、それでは一般化は出来ない。

俺たち人類には、宗教や道徳以前の、何か共通の「決まり事」が必要なのだ。信じる信じないだとか、環境や文化では揺るがない、何か、こう、鋼のごとく盤石な偉大な魔法のような何かが。

そこで登場するのがジョン・ロックである。

聞いたことがあると思う。たぶん中学か、高校の社会科系の授業で出てきた17世紀イギリスの痩身の男。この男が全てを作り出したというわけではもちろんないけれど、俺たち人類の「共通の決まり事」を作り出した人の一人であることには間違いない。

ジョン・ロックはまず、人間の一番基本的な、ベーシックな状態を考えた。

…何か話が面倒になってきているが、大丈夫だ!

人間にとって最も基本的な状態は、「一切が平等で、他人を害さず、自由と平等を維持して平和に共同生活を送っている状態」であると考えた。神、いわゆるゴッドはそういう風に俺たちを作ったし、また、俺たちが目指す理想の状態でもあるだろうからだ。

性善説孟子あたりは「だよねー」と言いそうな感じだ。(「でもな…」と後に続くだろうけど)

で、人間は平等で、自由。

なのだが!ここで当然のごとく問題が生じる。

「俺の自由のためにアイツが邪魔なんだけど、排除していいのか?」ということである。

自分の自由と他人の自由は異なる。価値観は違う。それでも、平等である。ならば、必ず衝突が生じる。

ジョン・ロックは「そこで政府が必要になるのだ」と言う。つまり、政府というのは自然状態の人間たちの上にある物ではなく、自然状態の人間たちの様々な問題を調停する機関にすぎないと考えた。故に、政府は人民の承認が無ければ成り立たず、また人民の基本的な状態を壊してはいけないという制約も課された。

ここに、「人民が政府を選ぶ政治形態」が生まれ、「王が神に与えられた統治する権利をを行使して人民を治める政治形態」が否定されたわけだ。これは革新的というか、人類の定義そのものを変える偉業だったと俺は思う。この瞬間、旧人類は滅亡した!

 

という感じの話が、教科書に出てくる「王権神授説」だとか「社会契約論」とか「憲法」あたりの話だ。歴史の授業はもっと、こう、壮大な感じでやっても良いんじゃないかな。まさしく歴史が変わった瞬間なんだしさ。

それで、このジョン・ロックの話がなんなのかというと、この話が、まさに「人権」の話だからだ。

ざっくり言えば、「どうして殺人しちゃいけないの?」という問いには「人権があるからさ」でICHI-GEKIで終わるんだぜという話になるのだが、それは説明がないと納得しがたい。

そもそも、まず「人権」というもののイメージが悪い。

まぁ人によるだろうけれども…こう、人権という盾にスパイクを着けてシールドバッシュを仕掛けてくるメイン盾なパラディンの話が結構あるからかもしれない。

この辺は宗教と同じように、繊細な取り扱いが必要だが。

しかし、人権そのものについて改めて考えてみるのは決して悪いことではないはずだ。

人権というものは、ある意味で力技だ。

「人間には生まれながらの人権がある!これは決して侵されないし、誰にも奪われないし、誰かに与えてもらったものでもない!」

──ということに、しよう!

という大魔法なのである。この世界を、俺たちを、人類を、社会を決定する、これが崩れたらもうどうしようもない、ジェネシックコードということに、する!

勇気を持って、こういう物だと、決める!みんなで!その方が絶対に便利だから!

…というのが人権である。…反発はありそうだが。しかし、この人権こそが人間が長い歴史の中で編み出した超必殺技であって、これがなければ現在の社会は成立しない。

人権は、先のジョン・ロックが定義した自然権を参照するとわかりやすい。人間は、生まれながらに自らの生命と健康と自由と財産に対する権利を持つ。それは他人が奪うことを許さない。そして、もし、お互いのこの権利がぶつかり合ったら、どちらかの権利は譲歩しなければならない。話がうまくいかなかったら、政府がそれを調停する。その調停の基準が「公共の福祉」だ。日本国憲法に書いてあるところの。「公共の福祉」というのは、人権と人権がぶつかったときに、どちらの人権を優先し、どちらに譲歩してもらうかという基準のこと。ふわっとした言い方だが、コトが人権に関わる以上、ふわっとした言い方にならざるを得ないというのもあるだろう。

人権と人権がぶつかったときには、「公共の福祉」に照らして政府が調停する。これが俺たちの世界を形作る根底のルールだ。 

「なぜ人を殺してはいけないの?」

「君には他人の人権を停止する権利はないからだよ」

ということになる。他人に危害を加える自由は、他人の人権を停止してまでやるべきことではない、ということだ。

この世の中の問題は、全てこの人権を元にして裁定されている。

例えば、無人島で二人きりになって、どちらか一方を食わねば二人とも死ぬ、という極限状態の場合。両者の生きる権利は侵せないが、どちらかしか選べないとなれば、片方の人権停止はやむをえないとなり、罪には問われない。

また、死刑制度についてもよくわかる。

単なる調停者に過ぎない政府が、主権者である国民の人権を停止する権利があるのか?という問題。

「こいつは放っておくと、どんどん他人の人権を停止して回るぞ。こいつには更正の余地はない。やむを得ないがこいつの人権を停止するのが、最も良い」というのが死刑制度賛成派。

「こいつはどうしようもないが、人権を停止する権利は誰にもない。他人の人権を停止しないように監視を付けることしかできないだろう」というのが反対派ということになる。

人権という物の性質を考えれば、どちらにも理があると思う。

人を罰し、押さえつけるのは簡単だが、それを安易にやってしまうと俺たちの世界そのものが崩れてしまうのだ。ファンタジー的に考えれば、世界の法則が乱れて崩壊してしまう感じだ。割と結構、深刻なことなんだぜこれ。

 

と、長々と書いてしまったのだが。

ちょうどこの間、親戚の男の子がこの「なぜ人を殺したのがダメなのか期」に突入したという話を聞いたので、せっかくの機会だからとここに書いてみた。

もし彼に「なぜ人を殺してはいけないの?」と問われたならば、

「…この世界が崩壊するからだ…!」

と、俺は答えていきたいと思う。腕の辺りを押さえて脂汗を流しつつ。

 

それにしてもあれだよね。高校の頃の「倫理」の授業(今もあるのかな?)とか、問題回答形式で教えてほしかったよね。ズラズラと偉人の思想を並べるんじゃなくてさ。

俺たちの直面する問題は、大体過去の偉人が冴えた回答をしてくれているのだから。

「はい、今日の授業は、『実は私は水槽に浮かんでいる脳みそで、この現実は夢なんじゃないか』についてです」

…ワクワクしてくるだろう!?

そこで『ゴゴゴゴゴ…』と圧倒的な感じでデカルト、カント、ブッダ荘子とかの偉大すぎる賢者たちが教師の背後に浮かび上がるわけだよ!

これはもう…たまらないな!

心は几帳面だけど行動は大雑把な自分に最適な「全肯定ノート」・トラベラーズノートを手にして

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散らかった部屋や不安定なモノを見るときちんと整理したくなる几帳面マインドがある一方で、気がつくと部屋には本やメモ、買ってから一度も開封していない袋、オシャレなはずなのに完全に場所を間違えている小物が散乱する。そんな人はきっと俺だけではないはず。

心を決めて整理を始めると完全にバチッと決まるんだけど、どうにもこうにも維持ができない。まるで創造するだけして役目を終えるブラフマー神みたいな。

さすがにこれではまずいと様々な方法を考えるのだが、やはり行きつくところはブラフマーである。現状維持の神ヴィシュヌと破壊と再生の神シヴァに人気で完全に負けているのもうなずける。こんなに維持ができないなら破壊してしまえばいいのだ!とか思っても結局再生する気力がない。だから俺は創造しっぱなしでいつも終わる。ブラフマーといえば、アトラスの「アバタールチューナー」は最高だったな!めっちゃマイナーだけど。

それで、そんなおれがついに手にしたのがこのトラベラーズノート

構造は超シンプルで、厚手の一枚革を折ってゴムを通してリフィルを挿めるようにしただけ。表面処理も特にされていない。爪を立てればあっさりと跡が残るでもしばらく使ってればそのあともあっさり消えて行く。まさに革。これこそ革。作れる人は普通に革買ってきて穴開けてゴムを通すだけでいける気がする。そんな大雑把の極みみたいなノートだ。中のリフィルも余裕で自作できるしね。

心だけは無駄に几帳面な俺は、今まで「手帳はシステマチックであるべき」という信念をもっていた。例えるなら、神社の巫女さんである。巫女さんの魅力はあの服装や巫女さん個人の可愛らしさでなく、統一されたシステムの一部として行動するその整然さにあると、友人の結婚式で俺は思い知った。あれはショックだった。ヤック。それ以来、俺が手帳に求めるのは巫女さんとなった。手帳こそ俺の巫女になってくれる存在じゃねーのか!?あの整然と楚々とした佇まいが!システムの一部となって完璧な調和を見せるあの行動が!俺の中の何かを突き動かしたというわけさ…。

…割と意味が分からなくなったが!

俺の手帳に求める手帳像というのは、要するにきちっと情報が整理されていて、きちっと管理できて、きちっと美しく調和しているべきものだ。そしてそれが現実には即さず、ひたすら挫折を続けてきたのが俺の手帳人生である。ついに巫女さんには俺は手が届かなかったのだ。俺が、俺のようなクズが巫女さんに手を伸ばそうなどと思い上がりも甚だしい感じだったのだ。たとえ彼女たちがバイトだったとしても、巫女システム駆動の彼女たちはまさに巫女さんなのである。

それで、トラベラーズノートである。

ずっと以前から、気にはなっていた。書店で、文具店で、雑貨屋さんで見かけるたびに、「こいつを使いこなしたら大変なことになるんじゃねーか…」というドキドキを感じていたものだ。しかし、買わなかった。俺はまだシステムの魔に憑りつかれていたからだ。このトラベラーズノートを完璧に美しく調和した使い方をするには、俺のレベルは未達である、という思いこみが、レジへ持っていく勇気を与えなかったのだ。

しかし今回は違った。

もともとは、「家計簿とアイディアノートと日記帳を買って来よう」と出かけて、3時間悩んで3冊決めたのだが、そこで疑念が巻き起こった。

「俺はまた、完璧を求めるがゆえに途中で使えなくなってしまうのではないか…?」

そこで俺は3冊をいったん戻し、喫茶コーナーに腰を落ち着け、考えることにした。俺は考えるときにアイディアノートにだらだら書いていくんだが、今回はそれを買って来ようとしていたわけで、久しぶりに完全に脳内で悩むことになった。

「こいつは金の無駄なんじゃないか…?」

「もう帰ろうぜ…」

「牛丼食べたい」

「火災保険のお金払わないとな…」

「牛丼だな…」

そして俺の心は決まり、未知の領域へ足を踏み入れることになった。

まぁ、8月27日まで、大丸藤井で全品20%オフのセールをやっていたというのも後押ししたんだけど。

家計簿も日記帳もアイディアノートも、一つにまとめられるのがトラベラーズノートだし、持っていて楽しいノートであるのは間違いないし、机の上に置いておくべきものでもない。考えれば考えるほど、俺のライフスタイルに合っていたと思った。

そして何より、トラベラーズノートのコンセプトが、俺の「心は几帳面、行動は大雑把」を補完してくれるということに気づいた。

トラベラーズノートは不完全であるゆえに、ユーザーの完全性を求める心を埋めてくれるともいえる。

つまり、俺が(結果的に)大雑把に使ってよれよれのぐだぐだになってしまったとしても、トラベラーズノートは「うん、それでいいよ。これが一番だよ」と言ってくれる頼もしいノートなのだ。今まだ俺はこのノートがナイスガイなのか麗しき女性なのか図りかねているが、いずれにしても、いかなる使い方にもグッとサムズアップをしてくれる存在であることは間違いない。

もちろん、機能や書き心地は良くない。なんせ大雑把な作りだ。

しかし、それ故に、俺自身に問題を持っていかなくて済むのだ。

「この手帳を使いこなせないのは俺のパワーが足りなかったからなのだ…」

「こういう手帳を使いこなしている人と俺との差はそんなに大きいのか…?」

みたいな自己嫌悪に陥ることはない。

「まぁ、そういうノートだからなこれは!」と開き直って汚い文字をドカドカ投入していく、そしてそれが「一番いい使い方」であると保証してくれる。そんな救済の女神なノートなのだろう。

買ってきてよかった。

これからよろしく頼むぜ。